3-25 目覚め

 長い夢を、見ていた気がした。

 師範の笑顔が、遠のいていく。優しいアルトの響きだけは、耳に残って離れなかった。

 ――鏡よ鏡。

 七瀬が愛着を育むきっかけを作ってくれた、初老の男の唄う声。

 頭を撫でた手の平と、同じ温度を持つ声の残滓が、すう、と静かに消えていった時――白い光が、世界いっぱいに広がった気がした。


「……篠田さん……篠田さん」


 軽く、身体が揺すられる。優しい手つきで、揺すられる。

 揺り籠のようだと思った時、薄く、瞼を開けようとした。明かりが、ふわっと射してくる。その輝きを、赤いと思った。目覚めの瞳には、少し、鋭い。

「……」

 身じろぎすると、ざらついた感触が腿で擦れる。手の甲にも同様の粉っぽさを感じた。ひんやりとした床が心地いいほどに、身体の芯が熱を持っている。

 炎の名残に、じわじわと全身を蝕まれながら、七瀬はそっと目を開けた。

 ――涙が、零れた。

「会いたかった……」

「……」

 坂上拓海は、何も言わなかった。目元を赤くして七瀬の傍らに座る同級生は、先程まで七瀬を呼んでくれていたはずなのに、いざ七瀬が目を開けてしまうと、何にも言わなくなってしまった。唇を結んで、七瀬を睨んでいる。

「……ごめんね。怒ってる、よね」

「もう、いい。いいんだ」

 しゃがれた声が、返ってきた。ほっとした七瀬は、吐息を零す。ようやく、口を利いてくれた。

「……痛いところ、ない? 変な感じとか、おかしいところとか、ない? ……俺のこと、分かる?」

「……わかる、よ。坂上くん。身体も……大丈夫だと、思う」

 七瀬は、何とか言葉にする。拓海が、顔をくしゃりと歪めた。

「……篠田さんは、馬鹿だ。周りに何にも言わないで、全部自分で何とかしようとして、そういうところ、本当にひどいと思う。俺、怒ってた。……でも、もういい。もう、いいんだ」

「どうして」

「帰ってきてくれたから、もう、それでいい」

 拓海は、俯いてしまった。前髪がさらりと揺れて、目元を隠していく。調理室の床に身体を寝かせた七瀬には、隠された表情が見えてしまっていた。それでも隠そうとして震える拳に、七瀬は指先で触れた。

 拓海の手は、冷たかった。手の大きさだって、七瀬とは違っている。大きく冷たい男の子の手に、熱い自分の手を重ねた。力み過ぎて白くなっている指が、ぴくりと震えた気がした。

「好き。坂上くん。状況に酔ってるって、思われても仕方ないけど、本気だから。嘘でもいいって言ったけど、嘘だったら、言わないで。……ねえ。お返事、聞かせて」

「……」

 ぽつ、ぽつ、と温かい雫が、七瀬の頬で、何度か跳ねた。やっぱり、もう死んでもいい。そのくらいに、幸せだった。言葉で返ってこなくても、十分だった。

 茜色の光の中で、拓海が七瀬の手を握り返した。七瀬が身体をそちらに傾けると、拓海が背中を支えて起こしてくれた。このまま抱きしめてくれたらいいのにと思いながら、見つめ合う。目を閉じた。

 もう怖いものなんて何もないと思っていたのに、そうやってキスを待つ間、それでも闇が怖かった。だから、唇に温度が伝わって初めて、やっと安心できた気がした。数秒、そのまま目を閉じていた。温度が遠ざかるまで、そうしていた。

「……ほんとにしてくれるって、思わなかった」

 目を開けてから囁くと、拓海はふいと余所見をした。横顔が、ほんのりと赤い。

「篠田さんは……俺で、いいの?」

「そんな風に、言わないでよ」

 七瀬は、うつらうつら呟く。まだまだ眠り足りない気がした。初めてキスをしたからだろうか。何だか身体が熱くて、意識がふわふわする。

「大体……してから言うなんて、ずるいでしょ……責任、取ってよ、ね……」

「……篠田さん?」

 はっとした顔で振り向いた拓海が、七瀬の額に手を当てて、驚いた様子で目を見開く。

「すごく熱い」

「燃やしたから、かなあ……あ、れ? 私……服、着てる?」

「……へっ? 服っ? いや、何暢気なこと、言ってるんだよ……!」

 拓海は七瀬を床に横たえると、学ランのボタンを急いで上から外していき、ばさりと毛布代わりに掛けてくれた。熱いのに、と七瀬は思ったが、気遣いが嬉しかったから、退けたくなかった。

「暢気とか、なんで、坂上くんに、言われなくちゃ、いけないの。……ん、ごめん……ちょっと、眠いかも」

「……困る。寝ちゃ駄目だ」

 慌てた拓海が、七瀬の肩を揺すってくる。だが七瀬はもう眠くて仕方がなく、うとうとと、瞼を閉じようとしたのだが――次の瞬間、眠気はおろか、甘美な雰囲気もろとも消し飛ばされることになる。

「……あー。その……もういいか?」

 明らかな狼狽を帯びた、少年の声が聞こえたのだ。

「……。はあっ?」

 七瀬は、がばと跳ね起きる。そして、拓海の背後の黒板前に立った存在に気づき、目が点になった。

 三浦柊吾がいた。傍らには、柊吾が連れていたあの少女もいる。

 柊吾は目のやり場に困ったのか、視線を斜め下辺りに這わせていた。傍らの少女は目を瞬いて、口元に手を当てている。

「……」

 妙な、間が空いた。そして次の瞬間には、七瀬は声の限りに叫んでいた。

「きゃあぁぁ! 信じらんない! 三浦くんの覗き!」

「誤解を招くようなことを大声で言うな!」

 真っ赤になった柊吾が、大声で反論してきた。真っ赤になっているのはこちらも同じで、元々熱っぽい身体が、さらに油を注いで点火されたかのように火照っていく。頬に両手を当てた七瀬はわなわなと震え、思わず拓海を振り返った。

「坂上くんだって、知ってたんでしょ! 知ってたのにしたのっ? なんで言ってくれないの! ひどい!」

「ご、ごめん……その、あっち向いててくれてたし、えっと、ごめん……」

 途端に、もごもごと拓海が狼狽え始めた。すっかり挙動不審の坂上拓海に戻っている。おまけにこちらも顔が真っ赤だ。いくら挙動不審だろうが赤面していようが、分かっていて応じた分、三者の誰よりも罪は重い。由々しき事態だった。三人でかしましく騒ぎ合っていると、一人だけ黙っていた少女が、不意に後ずさった。

 こつん、と華奢な背中が、黒板にぶつかる。柊吾が「雨宮?」と呼んで表情を変えた事で、七瀬も少女の異変に気がついた。

「さっきの子、だよね。……どうしたの?」

 七瀬はおそるおそる訊ねたが、少女は返事をしなかった。黒板に背中をぶつけた姿勢のまま、ぴくりとも動かない。

「……?」

 まるで、何かに怯えているようだった。拓海も同じ印象を持ったようで、「どうしたんだ?」と首を傾げている。すると、少女がふらふらと蹲ってしまった。

「あ」

 びっくりした七瀬は立ち上がろうとしたが、身体が鉛のように重く、一人では動けない。「篠田さん、ゆっくりしてて」と制した拓海が、代わりに立ち上がろうとする。そんな拓海を、さらに制したのは柊吾だった。

「坂上も、篠田も、いいから。動かなくていい」

 落ち着いた声音で言うや否や、すとんとしゃがんだ柊吾は、少女の目を覗き込んで、「雨宮」と声をかけた。

 雨宮と呼ばれた少女は、柊吾の声に応えない。代わりに、どことなく心細そうな動きでスカートのポケットに手を入れて、中からプラスチック製のピルケースを取り出した。

「……?」

 不思議に思って手元を注視していると、柊吾が少女からピルケースを取り上げて、ぱちんと手慣れた様子で蓋を開けたので、ああ、と七瀬は合点がいった。

 きっと中身は薬だろう。少女がパニックを起こしたので、症状を和らげるものに違いない。不自由を抱えているという少女に対する認識が、七瀬にそんな予想をさせていた。

 だが、その予想は百八十度裏切られた。

 柊吾がケースから取り出したのは、絆創膏だったのだ。

 オレンジや水色の他に、赤や青の原色もある。色とりどりの絆創膏がぴらりと一枚、柊吾の手から離れてこちらの方まで飛んできた。七瀬はぽかんとその様を見ていたが、同じく呆然の顔をした拓海が、その絆創膏を拾い上げる。

 ピンク色。デフォルメされたウサギ柄。

「……」

 視線を戻すと、柊吾は絆創膏の包装をめくっていた。頬に始まり、続いて左右の手の甲へ、怪我一つしていない皮膚に、ぺたぺたとたくさん貼っていく。来客者専用スリッパの爪先にまでちょこんと貼り付けたのを見た七瀬は、さすがにぎょっとして「ちょっ、三浦くん、何してるのっ?」と思わず呼び掛けた。

「……説明はできない」

 柊吾は少し恥ずかしそうに顔を赤らめて、ついっと七瀬から目を逸らした。

「だって、本当に何してるの。気になるでしょ」

「……じゃあ、こいつがいいって言ったら。でないと説明はしたくないんだ。俺が変な奴なんだって思ってくれてたらいいから。……できたら、忘れてくれ」

「……っ?」

 七瀬は混乱したが、少女が柊吾の手を握ったのでもっと混乱した。怖々と握っているように見えたのだ。石橋を叩いて渡ろうとしているような注意深さを、何となく感じた。

「あと、篠田。分かってると思うけど、お前に怒ってるの、坂上だけじゃないからな。……けど、今日はもういい。さっさと帰って休め」

「……。三浦くん、助けてくれたんだよね。ありがとう」

 もう少し色々と訊いてみたいが、それよりも優先すべきことがある。七瀬はふらつく頭を押さえて居住まいを正すと、柊吾に軽く頭を下げた。

 顔を上げた時、少しだけ意外そうな顔をする柊吾と目が合う。七瀬がきちんと謝ったり礼を言ったりすると、大抵の者はこんな反応をする。失礼な話だと思う。

「礼儀正しいって聞いてたけど、ほんとなんだな」

「何言ってるの。普通でしょ。助けてもらったんだから」

 当然とばかりに七瀬が言うと、柊吾は微かな笑みを覗かせた。普段からもっと笑えばいいのに、と七瀬は思う。少し勿体ない気がした。

 だが、そんな風に思った時――くらっと強い眩暈で頭が揺れて、七瀬は床に突っ伏した。

「篠田さん!?」

 すぐさま拓海に助け起こされた七瀬へ、「おい、篠田、無理すんな」と柊吾も泡を食った様子で声を掛けてきた。だが、七瀬は答えるどころではなくなっていた。

 今、思い出したからだ。それに、現在の七瀬の姿は、心底不思議な変化だが、見た目としては何ら問題がない。酷くしたはずの太腿の傷も癒えている。

 ならば、急ぐべきだった。七瀬は、黒板の上に据えられた壁掛け時計を、ばっと振り仰ぎ――絶望から、歯を食いしばった。

 ――四時、五十五分。

「……行かないと」

 よろけながら立ち上がろうとすると、「駄目だって!」と拓海に止められ、両肩に手を置かれた。抵抗しようとしたが、力が強い。それに七瀬は腕に力が入らなかった。「離して、行かなきゃ」と言って身体を捩ると、「駄目だ」と先程よりも強く言われてしまった。拓海にそんな声を掛けられた事も驚きだったが、顔が近い所為で、さっきのキスを思い出す。思い出した途端にそれ以上の抵抗ができなくなってしまい、七瀬は俯いて唇を噛んだ。

「……毬が、待ってるの。待ちぼうけになっちゃう。連絡、取れないのに……会いに、行かないと……」

「相手だって、分かってくれるって。仕方ないじゃん」

 労わるように、拓海が言う。「だって」と七瀬がごねると、柊吾も事情を察したらしい。顔色が曇った。

「坂上の言う通りだ。お前がそんなへろへろのまま会いに行っても、相手は喜ばねえと思う。連絡して謝っとけ」

「だめ、携帯持ってない子なの。だから、ちょっとだけでも、行かなくちゃ。今日寒いのに。待ちぼうけなんて、だめ……」

 言いながら、言葉尻がぼやけてくる。

 ……眩暈が、先程よりも酷い。長湯でのぼせたような熱と眩暈が、七瀬の呂律を怪しくする。

「相手が携帯を持ってないなら、緊急の時はどうする気だったんだ」

 柊吾の声音まで、労わりの色が濃くなった。やはり傍から見ても、今の七瀬の状態は普通ではないようだ。答えようとしたが、口が開いただけで声が出ない。「六時半が、タイムアップ、って、決めてる」とかろうじて言葉を絞り出した時、柊吾は拓海と顔を見合わせた。

「……ほっといても、まあ、一応問題なさそうだけど……」

「だめ、だってば。行くの……行かなきゃ……」

「……篠田。それ、待ち合わせ場所はどこだ?」

「……。こづか、にし、駅」

「袴塚西駅」

 復唱した柊吾が、こくりと頷く。続けて「相手の名前は? 特徴も」と矢継早に訊かれたので、七瀬はもう考える事も上手くできず、言われるままに、細々と喋った。

「つなた……まり。歳が、いっしょの子。袴塚中の子だから、黒っぽいブレザーで、リボンは緑で、スカートも、緑のチェック柄で……左のほっぺたに、泣きぼくろがあって、髪は……はづきに、にてるの」

「ハヅキ?」

「うん、ああ、はづきとも、けんか、しに行かなきゃ。……許さないんだから。ぜったいに、ゆるさないんだから」

 七瀬はうなされるように、怒りの言葉を吐き出しながら……身体から力が抜ける感覚と共に、意識をゆっくりと手放していった。

「……ハヅキっていうのは、篠田さんの、こっちの友達。……えっと。髪型はショートボブ」

 拓海の補足の言葉に柊吾が頷いて、「なんだ、俺のとこの最寄駅か」と軽い調子で呟いたのを、意識を失う寸前に、耳が拾ったような気がした。

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