3-24 毬
七瀬ちゃんは、弛んでなんかいません。
七瀬ちゃんは、遊んでなんかいません。
七瀬ちゃんは、真面目です。真面目にやっています。お稽古が終わったら私とお喋りしてるけど、お稽古中は真面目なんです。がんばっているんです。どうして、そんな風に、言うんですか。七瀬ちゃんは、遊んでなんか、いません。
辞めさせないで下さい。七瀬ちゃんを、続けさせてあげて下さい。
私は、七瀬ちゃんが一生懸命なのを知っています。七瀬ちゃんが私と話すのが嫌なら、私にそう言って下さい。私が、道場に来られないようにしてくれた方が、いいです。七瀬ちゃんが弛んでて、遊んでるっていうのなら、私だって、弛んでるし、遊んでます。
七瀬ちゃんを、怒らないで下さい。お願いします。怒らないで下さい。
お願いします。続けさせて下さい。
私はもっと、七瀬ちゃんと一緒にいたいです。
七瀬ちゃん。
辞めないで。
最後の台詞は、まるで悲鳴のような声だった。涙で潰れて、掠れていた。
それでも、聞こえた。七瀬には全部、聞こえていた。
ショートボブの黒髪の少女は、言い切った瞬間に全ての支えと力を失ったように、わあっと大声を張り上げて泣き出した。両手で、顔を覆っている。涙が、ぼろぼろ零れていく。この子がこんなにも感情を露わにしたところを、七瀬は今まで、知らなかった。大人しい子なのだ。思わず守ってあげたくなるくらいに繊細で、脆いところのある子なのだ。
だから、七瀬は驚いていた。
――中学一年生の春に、小学六年生の終わり頃から始めた少林寺拳法の道場を、母に突然、辞めさせられた。
母はその日、稽古場にいきなりやって来た。
稽古場に私服の見学者が現れるのは、特段珍しいことではない。だからその人物が稽古場へ足を踏み入れた時、門弟達はちらりと視線を寄越したが、それ以上気にかける者は少なかった。
だが、その人物は――七瀬の母は、ぽかんとする七瀬を見つけるや否や、つかつかと真っ直ぐにやって来て、出し抜けに七瀬の頬を
『今日で、おしまいだから。帰るわよ、七瀬』
そして、突然に、こう言われた。
『ここで作った友達とちゃらちゃら遊ばせる為に、道場に通わせたんじゃありません』
七瀬はその時、どんな反応を母に返しただろう。あまり、覚えていなかった。
確か、母に掴みかかった。どうして、と。そう訊いた。
ああ。そうだった。
訊いた途端に、もう一発殴られたのだ。
最初に叩かれた方と反対側の頬を叩かれそうになり、七瀬はそれを身軽に
殴っては、いけない。いや、殴ってもいいのかもしれない。それほどに殴られた。殴り返しても、よかったのかもしれない。母に手をあげた事などなかったが、状況が状況だった。七瀬は、殴りたかった。やられた分を、やり返したかった。ぶつけられた理不尽を、同じ形で返したかった。
心が、濁っていく。言われた内容の非情さで、頭の芯が熱くなる。打たれた頬と同じ痛みで、眩暈がするほど燃えていく。まるで炎のようだった。
だが、それでも七瀬は殴れなかった。殴って抵抗すれば、その瞬間に待っているのは破滅だった。七瀬は、ここに居られなくなる。少林寺の道場を、本当に辞めさせられてしまう。その認識だけが唯一の歯止めとなって、七瀬の理性をぎりぎりで繋ぎ止めていた。
辞めたくなかった。
続けたかった。
だから、耐えて――謝った。
唇を、血が滲むほど噛みしめた。噛みしめて、怒りを堪えた。堪えた怒りを手の平で握り潰し、殺せない痛みで涙が流れる。その顔を隠しもせずに、睨む顔をなんとか整え、ごめんなさいと繰り返した。
分かっていた。母が、何故怒るのか。そんな誤解が、何故生まれたのか。
単純な話だった。七瀬の成績が、あまり良くなかったからだ。
今までに七瀬は、稽古を終えた後の食卓で、綱田毬の話をした。最近になって道場に通い始めた、
それを聞く母の顔は、最初は明るいものだった。良かったわね、と楽しげに笑ってくれた。嫌々始めたはずの道場について娘が楽しそうに話すのが、嬉しかったのかもしれなかった。
和やかな時間を持てたのは、あくまで最初の頃だけだった。
次第に、母は無表情になった。『そう』とか『ふうん』という相槌が、七瀬の言葉の途中で刺さる。毬や和音の名を聞くだけで、眉間に微かな皺が寄った。その変化に気づいてからは、話すのを控えていた。
だが、もう遅かった。七瀬は、母を敵に回していた。自分の大好きな居場所を守る為に、器用にやり過ごさなければならないはずの荒波に、気づくのが遅れていた。だから今、こうなっている。回避しようと思えば出来たはずなのに、その努力を怠ったから。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
気が狂うほどの数言った。そうでなければ死ぬと思った。大げさではなかった。本当に死ぬ気がした。友人との接点を断たれて、繋がりを断たれて、隔絶された環境の中で、自分が呼吸できる事が信じられなかったからだ。
生きる為に、すべき事。それが、七瀬にとっての謝罪だった。怒りを殺すことで居場所を守り、代わりに心を削りながら、死にもの狂いで我を殺し、七瀬は謝り続けていた。
だが、そんな苦行の時間は――実際には、一分にも満たなかった。
『七瀬ちゃんは、遊んでなんかいません』
声が、割り込んだからだ。
――綱田毬だった。
胴着の裾を揺らせて、顔面を蒼白にして、がたがたと一目で分かるほど全身を震わせながら、色のない唇を薄く開けて、こちらをじっと見つめていた。大きな瞳に溜まった涙が一筋、泣き
『七瀬ちゃんを、殴らないで』
大きな声だった。普段の会話でも、そんな声は聞いた事がない。
毬は両手をきつく握り込んで、七瀬と母の元まで真っ直ぐ歩いてきた。そして、度肝を抜かれた様子で七瀬の襟首を離した母を、きっ、と悲壮な表情で睨んだ。
毬が、怒っている。それを、七瀬は、ようやく知った。
『私が邪魔なら、私にそう言って下さい。邪魔な私に邪魔だって言わないで、七瀬ちゃんを殴るのはひどいことです。七瀬ちゃんは、悪くありません。七瀬ちゃんは、真面目です。真面目にやっています。お稽古が終わったら私とお喋りしてるけど、お稽古中は真面目なんです。がんばっているんです。どうして、そんな風に、言うんですか。七瀬ちゃんは、遊んでなんか、いません。辞めさせないで下さい。七瀬ちゃんを、続けさせてあげて下さい』
そんな魂の叫びを聞いた時、七瀬は声も出なかった。息をするのさえ忘れていたかもしれなかった。黙ったまま二人を見つめて、そして静かに泣いていた。
激しい怒りと恨みから流れていたはずの涙の質が、いつの間にか変わっていた。毬の言葉で、清らかに洗われていたのだ。
口を挟まずに成り行きを見守っていた師範が、やがてゆっくりと近づいてきた。そして、泣きじゃくる毬と、そんな毬を支える為に歩いてきた佐々木和音、篠田母子の全員を見回して、はらはらとやり取りを見つめていた他の門弟達に、少し待っているように告げてから――柔和な面立ちに浮かぶ穏やかな表情はそのままに、瞳には真剣な光を携えて、七瀬の母と向き合った。
『篠田さん。此処では何ですから、別室に来て頂けませんか。道場での七瀬さんの態度は、綱田さんが述べた通りだと私も思います。是非、私の口からも、お話をさせて頂けませんか?』
母は最初渋ったが、門弟達の倦厭や恐怖の眼差しが痛かったのか、それとも毬の言葉がショックだったのか、居心地悪そうに俯きながら、師範と共に扉の向こうへ消えていった。
そうなってようやく、毬はその場に泣き崩れた。七瀬は一緒になってフローリングにへたり込むと、毬の短い髪を首ごと抱くようにして、同じく声を上げて泣き始めた。
辛かった。腹が立った。憎かった。母なんか大嫌いだった。だが、この時七瀬の胸に満ちた感情は、憎悪だけではなかった。
嬉しかった。
七瀬は、嬉しかったのだ。毬の事を、好きだと思った。毬の事が、大好きになっていた。
七瀬の為に、戦ってくれた。無理をしてくれた。心が削れたのは七瀬だけではなかった。毬もまた削れたのだ。怖かったと思う。本当に、とても怖かったと思う。毬は泣きながら震えていた。きっと今も怖いのだ。その恐怖を振り切って、弱気を全部かなぐり捨てて、そこまでしてくれた友達の勇気が、胸に痛くてどうしようもなかった。
だから、七瀬は――葉月にも、同じものを求めたのだろうか。
もしそうだとしたら、きっと、これは七瀬の我儘だ。だが、仕方がない我儘だと自分では思っている。それくらいに鮮烈な思い出だったのだ。親友のグレードが多少上がっても、相手にそれを期待してしまったとしても、それに応えて欲しいと思う気持ちは、七瀬と切り離せないものなのだ。そのエゴを心から捨ててしまったら、多分、七瀬は、面白くなくなる。人間味が欠損して、話していてもつまらなくなる。毬が大切に想ってくれた、篠田七瀬ではなくなってしまう。自分を正当化しているだけかもしれないが、そんな気がするのだ。
毬が、泣きながら七瀬の母と戦った、あの日。
師範と母は、長い間話し続けた。
そして、三十分ほどが経った時――七瀬は母に連れられて、家に帰る事になってしまった。
それきり、道場にも門弟という形では行けなくなった。遊びにはよく行ったが、門弟ではなくなってしまった。
ああ、負けてしまった。屈してしまった。あの時はそう感じてしまい、内心穏やかとは言い難かった。その日の帰り道で母からもらった鏡は、いわば七瀬の機嫌を取る為の物だと思ったくらいだ。毬に鏡を褒められなければ、この愛着は憎悪にすり変わっていたかもしれない。
――『絶対に、身に着けていないと駄目よ』
母は、何でも七瀬に強制してしまう。その怒りを愚痴にして、師範にぶつけてみた事がある。稽古が休みの日に師範の家へ遊びに行き、日溜まりの縁側でアイスクリームを舐めながら告げ口したのだ。
七瀬の話に耳を傾ける師範の目は、不思議なほどに優しかった。春のぽかぽかした陽気に包まれた七瀬は、手入れの行き届いた庭に咲く薄紅色の
膝に乗せた鏡を睨むように見つめた七瀬を、師範は慈愛の目で見下ろした。
そして、骨ばった硬い手で七瀬の髪をぽんぽんと撫でながら、唄うように節をつけて、七瀬へ、不意に、こう言った。
――『鏡よ鏡。世界で一番美しいのは、だあれ?』
唐突な言葉に、七瀬は面食らった。それからすぐに頬を膨らませて、師範にむくれて見せた。面白くなかったからだ。七瀬は人から可愛いと言われた事は確かにあるが、それと同じ数かそれ以上に、派手で怖いとも言われてきた。喧嘩っ早いからかもしれない。鏡に問いかけて可愛さを確かめる行為になんて、何の興味も感じなかった。
まるで、白雪姫。意地悪な
七瀬にはまだ分からない願いのこもったその言葉を、
鏡に映ったかのようだった。ぶすっ垂れた顔で睨む七瀬が、今、脳裏に映し出された。一度でもそんな自分と目が合ってしまうと、何だか余計に面白くなかった。からかわれた気がしたのだ。
だから、師範に言い返した。『別に可愛くなんてなくてもいいし、綺麗だと思われなくてもいい』と、生意気にも言い返したのだ。
すると、師範は飄々と笑って、こう続けた。
――『けれど私は、笑っている七瀬さんの方が、とても可愛くて素敵だと思いますよ』
師範は、いつもそうだった。子供がみんな可愛いのだ。誰に対しても同じように言うのは知っていたが、少し嬉しくなった七瀬の心は、この日の空のように清々しく晴れ渡った。
『ありがとう、師範』
そう言って、稽古場に隣り合って建つ一軒家から立ち去る時、七瀬はふと、師範の名前を思い出した。
『ねえ、師範。師範はもう私の師範じゃないけど、それでも私は師範のこと、師範って呼んでもいいですか?』
訊きながら、答えは分かっていた。
案の定、相好を崩した師範は、嬉しそうに七瀬に答えた。
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