3-23 言挙げ

「篠田さん! 篠田さん! 返事してくれ! 起きてくれ! ……こんなの、嫌なんだ! 頼むから……!」

 携帯に叫び続ける拓海から、柊吾が辛そうに目を背けて、辺りの様子を窺っている。人目を気にしていると分かっていたが、拓海は声量を絞れなかった。

 七瀬が、急に、応答をやめた。

 沈黙する携帯からは、ノイズだけが聞こえてくる。時折獣の唸り声に似た風の音が聞こえるばかりで、どんなに耳を澄ませても、他には何も聞こえない。

「坂上……。篠田、どうした」

「……出ない。声、聞こえなくなった。……ものすごく、疲れてた。やっぱり、無茶、してたんだ」

 七瀬の声は、か細かった。今にも命を手放してしまいそうな小さな声で、拓海を呼んで、笑っていた。

 知らない七瀬だった。そんな七瀬を知るのは辛かった。疲弊した声だけしか拓海の元に届かなくても、もう七瀬の命がどれほど追い込まれているかは分かるのだ。七瀬は『こちら』で失くした意識を、『向こう』でさらに手放してしまった。そうなれば、どうなる?

 考えが、纏まらなかった。こんな土壇場で、冷静に思考など出来なかった。今の拓海でも、はっきり分かることは一つだけだ。『鏡』の炎上がもたらした七瀬の消耗を突き付けられて、ようやく拓海は気づいたのだ。

 拓海は――七瀬の事が、好きなのだ。

 苦手だった。だが、気になっていた。

 怖いと思っていた。だが、会話は簡単に成立した。

 強いと思っていた。だが、その弱さを知ってしまった。

 自分には笑わないと思っていた。

 だが、笑ってくれた。七瀬は、拓海に、笑ってくれた。

 何を考え、何を見て、何を大切にしているのか。何も知らなかったはずなのに、気づけばこんなにも知っていた。七瀬と他人同士だった頃の、今朝までの自分を思い出す。無数の鏡に映るたくさんの七瀬に別々の個性を見出すようだった、かつての自分。一人一人が違う顔を持っている、知らない顔の少女達。

 全て、七瀬だった。実像も鏡像も、違いなど何もないのだ。同じ人間だった。篠田七瀬だった。その一人一人と向き合ってようやく、全てが一人の少女だったと知った。こんなにも切羽詰まった状況で自覚したこの感情が、本当に恋愛感情なのか、拓海自身よく分かっていない。それでも、七瀬は拓海を好きだと言った。きっとその感情と同じくらいには、拓海も七瀬が好きなのだ。それだけは、絶対に嘘ではなかった。

「篠田さん……返事、してくれ。でないと俺、篠田さんが聞いててくれないと……返事が、できない」

 携帯に向かって、目の前の七瀬に向かって、掠れた声で囁いた。不意に視界が滲んでいき、拓海は突然のことに驚いた。熱い涙が頬を伝い、見下ろす七瀬の顔がぼやけていく。それが拓海には不思議で仕方なかった。

 だが、それは全然驚くようなことではないのだ。それくらいに今、悲しかった。七瀬がここで眠ったままで、そんな七瀬に好きだと言われた事が、抉るような痛みを胸に残し、その痛みが消えないのだ。

「篠田さん」

 拓海は、七瀬を揺する。七瀬の瞼は、動かない。揺さぶられた髪が乱れて、うなじからふわりと落ちただけだった。死んでいるように穏やかな寝顔だと思った時、心が耐えられなくなった。もう何度目かも分からない呼び掛けを、拓海が叫びかけた時だった。

「坂上」

 柊吾の呼び声が、それを阻んだ。

 静かな声だった。先程までと、僅かだが違う声だった。何かを覚悟したような、言葉に芯が通った声だった。

「……で。いいんだな?」

「……?」

 拓海は、柊吾を振り返る。そして、柊吾の立ち姿を見て目を瞠った。

「三浦、それ」

「許可、取り付けられたんだな? 俺らがやっていいんだな?」

「え、その、うん……鏡は、任せたって……三浦っ?」

 柊吾の背後、黒板の隣で――調理準備室の扉が開いていた。扉には鍵が刺さったままになっている。拓海が携帯で話している間に、柊吾達が開けたのだ。

 拓海を見下ろす柊吾の手には、小さなプラスチックケースが握られていた。黒い蓋が載った透明なケースには、同色の黒い取っ手がついている。

 その中身は。

「塩……っ?」

「坂上! 行くぞ!」

 柊吾はケースの蓋を剥ぎ取って放り投げると、中に入った白く細やかな粒子を鷲掴みにする。そして呆気に取られる拓海に構わず、塩を床に叩きつけて撒き散らした。

 新雪が、どっと屋根から落ちるような、重く湿った音がした。さっき柊吾が撒いた水と混じったのだ。拓海は咄嗟に七瀬を庇うべきか迷い、結局されるがままに塩をかぶった。頭から塩にまみれた拓海へ、柊吾がすぐさまげきを飛ばした。

「起こせ坂上! 篠田の阿呆に声掛けんの、やめんな!」

「え、あ……、分かった!」

 拓海は、表情をきっと引き締める。流れるに任せていた涙を手の甲でぐいと拭い、毅然と七瀬を見下ろした。

「篠田さん。もう終わるから。気にすることなんて何もないんだ。安心していいんだ。もう、帰ってきたらいいんだ! 帰ってきてくれ! 早く!」

 床に両手をついて、祈りの言葉をかけ続ける拓海の指が、撒かれた白い粒に触れた。ざらりと、手触りが尖っている。鏡の欠片も混じっていた。近くに落ちた、赤い破片が熱い。七瀬。早く。早く!

「くそっ、なんで塩かけてんのに起きねえんだ!」

 柊吾が悔しげに呻き、塩を撒き続ける。次第に悠長さが我慢できなくなったのか、プラスチックケースを鏡の破片目掛けて逆さにし、ばさばさと塩を残らず床へ落とした。ざららっ、と塩の一粒一粒が、夕日を照り返す床で細やかに跳ねた。

「坂上っ、篠田は鏡を捨ててるんだよな? 手には持ってないんだよなっ? ……塩をかけて愛着に区切りを付けるのを、無理矢理にでも一応〝言挙げ〟で人に託してるのに、ここまでして、何で篠田は帰って来ないんだ……!」

「言挙げ……っ?」

 藪から棒に飛び出してきた言葉に、拓海は面食らう。柊吾は沈痛な面持ちで、床の惨状と目覚めない七瀬を睨んでいた。

「……っ、駄目だ。これ以上は、もう。時間をどれだけ掛けたらヤバいのかも分かんねえし、こうなったら、先生にバレるのを覚悟で、イズミさんを呼ぶしか」

「……待って。三浦くん」

 少女が、柊吾を呼ぶ声が聞こえた。

 柊吾が「ん?」と少女の声に応じ、直後、何故かぴたりと黙った。

「? 三浦?」

 唐突な沈黙に驚き、拓海はそちらを振り返り――柊吾同様に、過ちに気づかされて、黙ることになる。

 今まで七瀬の傍について離れなかった少女が、立ち上がっていた。

 手には、プラスチックケース。柊吾の手にしたケースと形は同じだが、蓋の色が違っていた。薄い青みを帯びた白い蓋は、黒い蓋と対を為すような色だった。

 何ということだろう。今日、この調理室でのドーナツ作りで使ったというのに。それも六時間目の授業。ついさっきの事なのだ。

 それなのに、本気で間違えていた。

「三浦くんのそれ、お砂糖。……お塩は、こっち」

 少女には、躊躇いというものが一切なかった。

「ごめんね」

 小さな声で謝る少女の手が、プラスチックケースの蓋を外した。慣れた手つきで開け放たれた白い蓋が、ぱこんと軽い音を立てる。

 人形のように表情を変えない少女が、その一瞬だけ、表情を毅然としたものに変えて――腕の高さに持ち上げたケースを逆さにして、床に、鏡に、拓海に、七瀬に、丸ごと中身をぶちまけた。

 視界が、白一色に埋め尽くされた。

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