3-22 祈り

「はあ……はあ……、う……」

 足を引き摺って歩く度に、ざらざらと音がした。煤を踏む音だと気づいていたが、もしかしたら粉塵と化した鏡かもしれない。どちらでもよかった。赤黒い世界の中で、区別など無為だった。

 歩きたくはなかった。もっと走っていたかった。

 だが、それも、ここまでらしい。

 からん、とフライパンが、階段の踊り場に落ちる。耳障りな金属音が打ち鳴らされ、聴覚に鋭敏に突き刺さる。くらっとした眩暈に襲われ、剥き出しの肩から通学鞄がずり落ちた。チャックを開けていた所為で、中身がばさばさと雪崩れ落ちていく。

 拾わなくちゃ、と緩慢に思ったが、上手くいかない。身体がスローモーションで倒れていき、色とりどりの教科書が階段に撒き散らされるのを目で追いながら、足が段差を踏み外した。

 腿の傷に、階段の段差が思いきりぶつかる。その痛みにあっと喘いだ時、身体が数段分落ちていく。強く右腿を擦りつけた痛みで「あ、あ、あっ……」と悲鳴が喉から飛び出して、唇を噛んで無理やり殺した。

 落ちる身体を階段にしがみついて引き留めると、なんとか一階と二階の中間辺りで止まれた。右太腿を、布の感触がさらさらと撫でていく。包帯が解けたのだ。傷口が熱いのは痛み故か、この場所全体の熱さ故か、火照った身体ではもう判断できなかった。

 ぬるりと、生ぬるい液体が腿を伝う。顔を傾けると、煤と血で酷い色をしたスカートが目に飛び込んできた。傷口が、開いてしまっていた。本当に経血のようだと思うと、情けなくて泣きたくなる。だが、心はそれ以上動かなかった。

 ふらりと立ち上がり、のろのろと通学鞄を拾って、肩に提げた。フライパンは拾ったが、教科書は放置した。もう拾っても意味がない気がしたからだ。

 階段をゆっくり上がる度、解けた包帯がするする伸びて、右足に絡みつく。このままでは、また転ぶ。直そうと手を伸ばしたら目が霞み、目を擦ろうとした手の平も煤と擦り傷で汚れていて、何も出来ないでいるうちに、今度は足がもつれてしまった。巻き損ねた包帯に、結局足を取られたのだ。

 手すりを掴むとか、踏み止まるとか、そんな抵抗ができるほど、体力も精神力も残っていない。ああ、また落ちる、と思っていたら、本当に身体が階段に叩きつけられた。今度は止まれず、下の階まで落ちていく。結構凄い音がした。痛みと音を身体に直接叩き込まれたかのようだった。倒れたまま動けないでいると、高飛車な掠れ声が聞こえてきた。

「……あはははは。無様ね。篠田七瀬」

「……」

 七瀬は、うつ伏せの姿勢のまま顔を上げた。セミロングの髪がゆるゆると頬にかかり、片目を隠す。そんな最悪の視界の中央に、校舎一階の姿見を見つけた。

 今もまだ熾火おきびのような赤色がじわじわと灯る、煤でくすんだ姿見の向こうに、無様にもこちらと大差ない体勢で頽れる、仇の醜態を見つけた。

「……お互い様でしょ。頭、鳥の巣みたいになってるんだけど。自慢のストレートヘアー、台無しになった気分、聞かせてよ」

「……死ね」

 罵倒が返ってきた。厭味で返してくるかと思っていたので、少し拍子抜けだった。だが、これで良かったのかもしれない。口喧嘩を無闇に繰り返したところで、互いの体力が削れるだけだ。

 氷花の姿は、こちらに負けず劣らず酷いものだった。セーラー服はいつの間にか消えていて、白いキャミソールとスカートだけになっている。靴下は履いていたが、煤で汚れて真っ黒だ。素肌も同様に煤まみれで、完全に白いままの場所はほとんど残っていなかった。長髪も激しく乱れていて、表情は全く窺えない。まるで有名なホラー映画のようだと思うと、少しだけ笑えてきた。忍び笑いが聞こえたのか、「死ね……」と呪詛が返ってくる。相変わらずの小物っぷりだ。七瀬は笑いを収めると、皮肉を込めて氷花に言った。

「……最悪。呉野さん、制服どうしたの? 下着を見せられても、全然嬉しくないんだけど。あれだけ強がってたくせに、脱いだわけ……?」

「……こっちの台詞よ。似たような格好してるくせに……篠田さん、パンツ見えてるわよ。本当に最悪だわ。引っ張って隠しなさいよ……はしたない……」

「頭が爆発してる人に言われたくない……大体、先にパンツ見せたの、そっちでしょ……知ってるんだから。保健室で、スカート捲って逃げたっていうの……」

 結局、ねちねちした口喧嘩になった。互いに物言いがあけすけだが、拓海はいないのだから別にいいか、と思う。一応指摘を受けた七瀬がスカートを引っ張ると、氷花も髪の指摘が余程ショックだったのか、こそこそと乱れた髪に手櫛を入れて直している。

 互いに、動きは酷く緩慢だった。会話が途絶えると、おおん……と唸る風の音が、鼓膜を不気味に震わせていく。身体をつけた床が、微かに振動した気がした。世界が、揺れているのだろうか。気にはなったが、どうでもよかった。どの道、炎は自然な鎮火を迎えている。熱さは依然として『学校』を蝕んでいたが、先程よりは遙かにマシだ。

「ねえ、呉野さん……お兄さんが、いるの?」

 何とはなしに、七瀬は訊く。氷花が、「いるわ」とあっさり答えた。

 返事を期待していなかった七瀬は驚いたが、「でも、嫌いよ」と氷花が続けたので、もっと驚いた。

「私、兄さんが大嫌いなの。殺してしまいたいくらい。いいえ、殺したいの……でも、殺せないのよね。どうして、かしら」

「……家族だから、じゃないの?」

「家族」

 せせら笑う声が返ってきた。むっとしたが、感情を返すのも億劫なので、七瀬は黙る。氷花も笑うのが体力的に辛かったと見えて、すぐに笑い声は萎んでいった。

「……いつか、私は兄さんを殺すわ。それが、私の夢なのよ……」

「どうして、そんなに……憎むことが、できるの」

 七瀬は、夢うつつの意識を懸命に繋ぎ止め、訊いた。その感情は、七瀬には理解できないものだったからだ。

 だが、訊く前から、訊いてはいけない質問だと分かっていた。

 理解してはいけない感情の、存在。それを、感覚的に理解していたのだ。そんな不穏なものを嗅ぎ取っていながら訊いてしまった七瀬は、やはり意識が朦朧としていたのだろう。ぼんやりと、そう理由付けた。

「そんなの……決まってるじゃない」

 氷花が、気怠く、そして馬鹿にするように言う。

「許せない、から」

「……何が?」

「ぜんぶ」

 氷花の声が、沈んでいく。

「……兄さんは、嘘つきなのよ。本当に、嘘ばかり。あの人の魂は、きっと欠けているんだわ。おかしいもの。優しすぎて……『愛』なわけ、ないわ。あんなの、『拒絶』の間違いよ。人が好きだって言いながら、同じ口で、人を拒絶しているのよ。……だから、許せないのよ。私、あんな人、知らないもの。……大嫌いよ。あんな人。お兄様では、ないんだわ……」

「……くれのさん」

 七瀬は、呼ぶ。今の言葉で少しだけ、目が覚めた気がしたのだ。

「それ、あんた、お兄さんのこと、好きなんじゃないの?」

「寝言は、寝て言いなさいな。篠田七瀬。……滑稽だわ」

 氷花が、笑う。顔は見えなかったが、言葉は笑みを含んでいた。

「……『愛』なんて、知らないわ。『憎しみ』があってこそよ、兄さん……あなた、やっぱり、人でなし」

 言葉が、ぷつんと、そこで途切れた。

「……呉野さん……?」

 怪訝に思って呼びかけると、氷花の手から、くたりと力が抜けていた。眠っているのか、体力が尽きて気絶したのか。ともかく、意識がないらしい。

「……」

 七瀬は、よろよろと立ち上がる。皮膚に擦れる通学鞄の肩紐を掛け直して、ふらふらと歩き、姿見の前に立った。

 考えてみれば今まで、氷花側に立つ事だけは、一度もしてこなかった。そんな風にふと気づいたが、今なら特に、抵抗はなかった。姿見の銀色の淵をすっと跨ぐと、鏡面は七瀬の身体を受け入れて、すんなりと向こう側へ着地させた。そうして七瀬は、ついに氷花の前に立つ。

 氷花は、目を閉じていた。すう、すう、と規則的に胸元が上下している。これで髪がぼさぼさに爆発していなければ妖艶と言えたかもしれないが、煤まみれなのでどの道厳しかっただろう。七瀬は呆れながら、眠る氷花を見下ろした。

 全ての元凶と思しき、悪意の申し子。こんなにもぼろぼろの姿に身を窶して尚、脱出の糸口やこの世界について、何の知識も得られなかった仇の姿。

 七瀬は屈み込むと、氷花のスカートに触れた。ポケットに入った鋭利な物質は、この場所の熱気が嘘のように冷たい。この破片は炎上とは関係がなかったのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。

 七瀬はそれを手中に収め、氷花のポケットから引き抜いた。

「……さよなら、呉野さん。学校で会ったら許さない」

 呟いた七瀬は、立ち上がる。そして誰もいなくなった姿見前から離れると、次の鏡を求めて二階を目指し、不自由な歩行を再開させた。

 恨みが、潰えたわけではない。むしろまだ、収まりきらない。

 だが、この辺りが潮時だ。引き際を誤れば、七瀬も氷花と同じになる。本当はあんな復讐さえ、きっとすべきではなかったのだ。

 だから、今。七瀬がこんな姿で学校を彷徨い歩くのは、当然の帰結なのだろう。人を呪わば穴二つ。憎悪に憎悪で対抗すれば、無事では済まないという先人の教えを、道場の師範からいくつか聞いたことがある。師範の事を思い出すと、ふと、毬の顔を思い出した。

 今は、一体何時だろう。六時間目が終わってから、三十分は確実に経っている。四時半を過ぎくらいだろうか。

 だとしたら、五時の待ち合わせには、何とかぎりぎりで、まだ間に合う。そんな風に、考えた時――ブラとスカートだけを身に着けて、ほつれた髪を風に流した自分の姿が目に入り、七瀬は掠れた声で笑った。こんな格好になってもまだ、毬と会う事を諦めていない。そんな自分が、少し可笑しかったのだ。

 こんな窮状を知られたら、きっと心配されてしまう。毬は優しいから、泣いてしまうかもしれない。七瀬の怪我を自分の怪我のように受け止めて、傷ついてしまうだろう。そんな顔は、させたくなかった。

 会いたかったが、会ってはいけない。こんな姿では、もう会えない。

「……毬、ごめんね。待ちぼうけ、させたくなかったのに……わたし、今日は……会いに、いけない……ごめん、ね……」

 足が、またもつれた。倒れないようにしたかったが、やっぱり駄目だった。

 壁に、身体がぶつかる。ぶつかった身体がよろけて、階段の中ほどから階下に向かって、傾いでいく。いい加減に、身体をぶつけ過ぎて死ぬ気がした。だが、それでもいい気がした。

 ここで、終わるなら。もう、終わりでいいと思った。

 ――葉月。

 綱田毬に似た、顔が過る。

 怒りが湧くかと思った。情愛が湧くかと思った。

 だが、違った。どちらも、違った。

 別の顔を、思い出していたからだ。

「……。坂上くん。……ごめんなさい」

 ぽつんと、それだけを言い残して――落下に身を任せた七瀬が、目を閉じた時だった。


 ――――。


 何かが、聞こえた。

 その音を声だと認識した瞬間、はっと目が開いた。反射的に手すりへ手を伸ばし、ニスの塗られた木製の表面をがりりと引っ掻き、何とか掴む。通学鞄が肩から抜けて、踏み止まった七瀬の代わりに、大仰な音を響かせながら、階下へ転がり落ちて弾んでいく。中に入れていた物が一つ、青白い流星のように飛び出した。

「あ……」

 ――忘れて、いた。

 橙色の陽炎が、足元でまだ燻っている。赤と黒と橙でぐちゃぐちゃになった校舎風景の一階で、別の色彩が光っていた。

 ひんやりと無機質な電子機器の放つ光は、一階の姿見の傍に落ちている。

 青白い光を、焔のように灯した――携帯の液晶。

 通話、切らないで。そんな、自分の言葉を、思い出す。

 接続の残った携帯へ、七瀬は誘われるように、ふらふら歩いた。

 感情は、分からなかった。何を思い、何を感じ、何の為に動いているのか、もう、七瀬には、よく分からなかった。疲れ過ぎたのかもしれない。とにかく、眠りたかった。氷花の後を追うように。

 だが、多分、まだ駄目だ。今眠ってしまったら、七瀬は本当に帰れなくなる。何となく、そんな気がするのだ。

 ああ、と思う。まだ、諦めていないのだ。この期に及んで、まだ。

 一歩、一歩、階段を下りる。もっと早く、話せばよかった。それを後悔だとまでは思わないが、少しだけ申し訳なかった。必死過ぎて、忘れていた。自分で全て、何とかできるとでも、七瀬は思っていたのだろうか。とんだ思い上がりだった。相手も多分、携帯の向こうで、同じことを思っている。

 怒られるかな、と。ぼんやり思う。この人でも、怒るだろうか。

 それでもいいや、と。やっぱりぼんやり思う。

 声が、聴ける。それだけで、もう、何も、望まなかった。

 階段の最後の一段を下り切ると、膝から力が抜けた。身体を支える糸が切れたように、七瀬は倒れる。携帯の灯りが、投げ出した指先で光っていた。声が、微かに、聞こえてくる。

 ノイズが、酷い。けれど、声で分かった。手を伸ばして、やっとの思いで手繰り寄せた携帯を、耳に宛がう。

 そして、相手が何かを言うより先に、七瀬は言った。

「坂上くん」

 電話の向こうが、一瞬沈黙する。

 すると『篠田さんは、馬鹿だ!』と、泣き出しそうな声で叫ばれてしまった。

 坂上拓海から、そんな罵声を聞かされるとは、さすがに思ってもみなかった。「ごめんね」と七瀬が謝ると、相手はまた、黙ってしまう。吸い込む息遣いが、微かに聞こえた。もっと怒らせてしまったのだろうか。それとも、泣いてくれているのだろうか。そんな呼吸まで、何だか愛しい気がした。愛しいと思った自分に、七瀬はとてもびっくりした。

『身体はっ? 火傷してない? 怪我はっ……』

「どうして……分かるの? ……坂上くん、すごいね」

『答えてくれ!』

 怒鳴られてしまった。

「……。動けない。ごめんなさい」

『……篠田さんは、馬鹿だ』

 もう一度、拓海が言う。声が、震えていた。怒鳴る声も、張りつめた感情で震える声も、初めて耳にする声だった。七瀬の知らない坂上拓海が、鏡を隔ててそこにいる。それを何故嬉しいと思うのか、七瀬はもう、知っている。

『篠田さん、何やらかしたかは大体分かってる。何で、こんな無茶するんだ』

「……ごめんね」

 七瀬は、笑う。耳からずり落ちそうになる携帯を必死に支え、床につけた煤だらけの頬に涙を伝わせながら、それでも笑ってしまった。

 何だか、もう、死んでしまってもいい気がした。

「……坂上くん。私、今、幸せかもしれない」

『何、言ってるんだよ……何、言ってるんだよ!』

「……うん、そうだよね。……ごめん」

『……』

 電話の向こうは、いよいよ沈黙してしまった。

「ねえ。……何か、話してよ。なんでも、いいから」

『……俺が、やるから』

「……え?」

『鏡。一之瀬さんと、篠田さんの友達が言ってた、塩をかけて、捨てるって話。俺が、やるから。こっちで、俺が、ちゃんとやるから。篠田さんの代わりに、俺がやるから……帰って、きてほしい』

「こっち? ……そっちに、鏡、あるの」

『ある。だから、安心していいんだ。人がやるから駄目とか、そういうの、気にしなくていいんだ。篠田さんの分まで、俺がやる。だから』

「坂上くん」

『何?』

「……帰り方、分からない」

『……』

「どうしたら、帰れるんだろ。三浦くんが、教えて、くれたのに。……ごめんね。捨てたけど、駄目だった。坂上くんの時も、呉野さんの時も、帰れるのに、私だけは、駄目みたい。……分からなくて、ごめん。どうしたらいいのか、分からない」

『……』

「……でも、帰りたい。帰りたいって、ちゃんと、思ってる」

『……帰って、きてくれ。お願いだから。……嫌なんだ! こんなの! 頼むから!』

「……ごめんね。優しい坂上くんに、そんな風に、いわせて」

『……』

「私……坂上くんのこと、好きになったのかもしれない」

 息を呑むような声が、聞こえた。その声を記憶に刻んで、七瀬は言った。

「お返事、きかせて。嘘でも、いい、から……」

 煤で汚れた、手が滑った。かつん――と硬質の音が響き渡り、涼やかなエコーに消されない大声で『篠田さん!』と強く拓海に呼ばれて、ああ、やっぱり、もう死んでもいいや、と。またしてもそんな風に思ってしまった。

「鏡、ありがとう。……任せる、から」

 視界が、暗くなっていく。意識の緞帳どんちょうが、下りていく。本当に死ぬかもしれないと、漠然と思った。あれだけ生きたいと切望したのに、不思議なものだと思う。今が幸せだから、麻痺してしまったのかもしれない。

 少し、眠ろう。起きた時に、拓海が傍にいてくれたらいい。

 そんな夢を、見られたなら……もう、それで十分だった。

 闇色に呑まれていく世界の隅で、かすかに光る、火焔かえん色をした姿見へ、小さな願いをかけながら――七瀬は静かに、目を閉じた。

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