3-21 弔い

「燃えてる……」

 雨宮と呼ばれていた少女が呟いた時、愕然とする拓海の隣で、柊吾がすっくと立ち上がった。つかつかと流し台に直行して蛇口を捻り、火の粉を散らせる二つの欠片へ、柊吾は手で受けた水をびしゃりとかけた。

 じゅっと熱い水蒸気が立ち込める。だが、何も変わらない。熱した鉄に似た灼熱の輝きが、濡れた床で赤々と燃え盛るばかりだった。

「どうなってるんだ、一体……!」

 悪態をいて床を蹴飛ばす柊吾の傍で、少女は茫然自失といった体で、眼前の怪現象を見下ろしていた。

 見れば、指には赤い傷。この輝く鏡に先程触れてしまったらしかった。「大丈夫?」と思わず拓海が声を掛けると、少女はこくんと頷いた。

「……」

 二つの欠片が噴き上げる、赤い火の粉――最悪の確信が、拓海の頭から血の気を引かせた。すぐさま、制服のポケットに手を入れた。

 ――ない。

 記憶違いでは絶対にない。ということは、『こちら側』に引き継げなかったということだろう。立ち上がった拓海は、黒板の隣、調理準備室に駆け寄ったが、扉の施錠に阻まれ、立ち尽くす。

 あの『鏡』の学校でも、ここには鍵が掛かっていた。振り返れば、七瀬が倒れている床には、鏡の破片やハンカチの他に、調理室の鍵も落ちている。

 そこまで確認できれば、もう現物を検める意味はなかった。

 この扉の向こうには――マッチ箱がある。

 夢では、ないのだ。――夢であれば、よかったのに。

「おい、坂上っ? 何やってるんだ?」

「……三浦。俺、分かったかもしんない」

「? 何がだ」

「なんで、燃えてるのか。……篠田さんは多分、呉野さんと喧嘩してるんだ」

「喧嘩ぁ? 篠田と呉野が?」

「三浦、俺達のいた『鏡』の学校は、『合わせ鏡』なんだよな。それは、ここだったんだ。この燃える欠片で出来た『合わせ鏡』に、俺達はいたんだ」

 柊吾が、驚いた顔になる。拓海が状況をある程度把握している事に驚いたのかもしれない。拓海は七瀬達の元へ戻ってくると、二つの破片を見下ろした。

「篠田さんは多分、割れた鏡を燃やしたんだ。でも鏡は燃えないから、周りで何か別のものが燃えてるんだと思う。……鏡を、炎の中に放り込んだんだ。篠田さんは、マッチを、使ったんだと思う」

「……おい! それで何が変わるって言うんだ!」

 柊吾も、鬼気迫る表情で鏡を見下ろした。その内に閉じ込めた火炎の強さを表すように、赤い輝きが一層強くなる。

「篠田の奴、鏡を燃やしてどうする気なんだ! 捨てろとは言ったけど燃やせなんて言った覚えはねえぞ! 燃やしたところで、どうにかなるもんでもないだろ!」

「それも、何となく分かる。俺は、『合わせ鏡』の学校自体が、この割れた鏡とリンクしてるんじゃないかって考えてた。その憶測も、篠田さんに話したんだ。だから……あの『鏡』を燃やせば、火の海になる。篠田さんはそう考えて、実際にやったのかもしれない。邪魔してくる呉野さんを、攻撃する為に。……それで合ってると思う」

「おい……それ、捨て身じゃねえかっ!」

 頭を抱えた柊吾が、怒りと呆れがない交ぜになった声で呻いた。

「坂上の推測が正しいなら、今あいつらどうなってるんだ! 向こうが火の海なら、呉野だけじゃなくて篠田もヤバいだろ! 火傷じゃ済まないぞ! これ!」

「……。もしかしたら、大丈夫かもしれない」

「? なんでだ?」

「鏡だから。……火を映す、だけだと思う。本体の鏡が燃えたり割れたりしない限りは、火傷とかは……ごめん三浦、やっぱり俺にも分かんない。ごめん」

 耐えきれなくなって、拓海はすぐに謝った。何しろこんなにも赤々と熱せられているのだ。たとえ直接的な炎上を免れたとしても、熱伝導は苛烈を極めるだろう。そんな殺人的な熱地獄の中で、人間の身体は、どこまで耐えられるのだろう? ――考えるだけで、怖くなってしまった。

「篠田さん……何やってんだよ……やり過ぎだ……!」

 状況が、急激に悪化していた。それは本当に文字通り、火を見るより明らかだ。

 確実に、七瀬は鏡を火にくべた。

 そして――――戦っているのだ。

 脱出と意地、命。己の全てを賭した全力で、あの学校で戦っている。

 だが、それはあまりに無謀で、無茶以外の何ものでもなかった。

 ――七瀬。

 勝気そうに笑って拓海を振り返る、篠田七瀬の笑み。眩しい快活さを思い出し、拓海は隣を見下ろした。

 表情もなく昏々と眠る、篠田七瀬の白い頬。人形のように動かない七瀬の姿を見た途端、込み上げた切なさに臓腑を引き絞られて、息が苦しくなった。

「生きていてくれ、篠田さん……頼むから……もう、無茶、しないでくれ……!」

 強く俯きながら、拓海は声を絞り出す。狭窄する視野の端に入った、燃える二つの欠片を見るうちに――居ても立っても居られなくなり、『炎』を映す鏡へ手を伸ばした。

「そうだ……この欠片で、『合わせ鏡』をすれば……!」

「! 坂上、やめろ! 素手で触んな!」

 指が欠片に届く前に、血相を変えた柊吾によって、拓海は羽交い絞めにされた。「離してくれ! 出口が作れるかもしれないんだ!」と叫び返した拓海は、柊吾の腕をがむしゃらに振り解く。

「その方法じゃ無理だ! 出口はないって散々言っただろ! それにイズミさんだって、今さら俺らが『合わせ鏡』をしたところで、篠田の『出口』を用意できないって、言って……!」

「やってみないと、分からないだろっ!」

 自分のものとは思えない怒声が、喉から迸った。柊吾の瞼が、驚きで震えたのが分かる。拓海自身も、あまりに直向ひたむきに響いた己の声に、はっとした。

 こんなにも、切実な情熱が――自分の中にあったなんて、知らなかった。

 束の間流れた、沈黙。窓からの赤い斜光の中で、交錯した激情の間を縫うように、「ねえ」と小さな呼び声が聞こえたのは、その時だ。

 振り向くと、小柄の少女が、拓海をじっと見つめていた。

「どうして鏡、処分しなかったの?」

「え?」

 どきりとする。人形のように坐する少女から話しかけられた驚きもあったが、それ以上に、その台詞に不意を打たれたからだ。

「え、と。どうして、って……なんで?」

「鏡」

 す、と少女の視線が床に落ちる。粉々の鏡と、破片にまみれた拓海のハンカチを見下ろしている。

「ハンカチに包んでたってことは、この調理室に来た時にはもう割れてたんでしょう? 割れた時に捨てないで、持って帰ろうとしたの、なんでかなって。ずっと気になってた。……理由、あるの?」

 本当に、不意を打たれた気分だった。

 ……考えてみれば、そうだった。

 校舎一階の階段前で、七瀬の鏡が割れた時。呉野氷花が、七瀬の鏡の欠片を持ち去った。あの時七瀬は、それをひどく気にしていた。

 割れた鏡。捨てる鏡。七瀬の鏡の残骸は、拓海が回収していなければ、教師が不燃ゴミとして処分しただろう。七瀬の心情を知っているだけに、ゴミと見做すのは気が引ける。だが周りから見れば、用を為さない鏡はやはり処分すべき物だ。

 それに、七瀬自身も言っていた。

 ――坂上くんまで。何気にしてるの? 元々捨てるつもりだったって言ったじゃん。うちで処分する気だったんだから、そんなの気にしないで。


 うちで、処分、する気だったんだから。


「……あ」

 今。ようやく分かった気がした。

 学校での処分を拒み、持ち帰る事へ拘る、その理由が。

 ――毬。

 面識のない少女の名を思い出した時、天啓のように理解が閃き、予想が確信に飛躍した。

「そう言えば妙だな。なんで篠田は、鏡を捨てなかったんだ?」

「葬式」

「は?」

「分かった。葬式だ、三浦!」

「さっぱり分かんねえ」

 柊吾は胡乱げに睨んできたが、拓海が「篠田さん、帰って来られるかもしれない」と早口で告げると、色めき立って顔色を変えた。

「鏡を学校で捨てなかったのは、家で処分したかったからだ。塩をかけてから捨てたかったから、学校じゃ駄目だったんだ」

「は? 塩? 鏡に?」

 怪訝そうに首を捻る柊吾へ、「お塩をかけて、お浄めをしてから捨てる人もいるんだよ」と隣で少女が囁いた。柊吾が余計に複雑な顔になったので、拓海も「葬式帰りとかにも、塩をかけるとか、あるじゃん。雰囲気はそんな感じ」と補足する。すると少女が、再び拓海を見つめた。

「坂上くん。それは、私達がやってもいい事なの?」

 初めて拓海を呼んだ少女に問われ、拓海は言葉に詰まる。少女の言葉の意味が、瞬時に汲み取れたからだ。

「篠田さんの、鏡でしょう? 私達が篠田さんの知らない所で、お塩をかけて、お浄めをしても。篠田さんは、納得できない気がするの」

「でも……っ」

 それどころではない。咄嗟にそう言い返しかけたが、出来なかった。辛かったが、少女の言った感情の動きは、拓海にだって分かるのだ。

「お浄めをしてからさよならするのは、その物に対して、ありがとうって感謝を伝える為でしょう?」

 少女の言葉が、胸に突き刺さる。残酷なまでに、それは七瀬の台詞と同じだった。

「お世話になったのは自分なのに、そこを人任せにしちゃうこと、複雑だと思う。それなのに私達が勝手にお浄めをしても、気持ちがついて来れないから、このままじゃ帰って来られない気がするの」

「……」

「だから、言ってあげて」

「……え?」

 携帯電話が、拓海の目の前に差し出された。

 画面に表示された、通話時間は――十五分四十八秒。

 まさか。はっとした。

 七瀬が通話を終えた、あの時。

 通学鞄に携帯を仕舞った、あの時から、ずっと。

「友達がいいよって言ってくれたら、少しだけでも軽くなると思うの。それに、やっぱり嬉しいと思うの。……お願い。説得して。坂上くんにしかできない」

 柊吾が驚きの目で、少女の携帯を見下ろしている。すっかり忘れていたのかもしれない。

 ――そんな様を、視界の端に捉えながら。

 拓海は強く頷くと、携帯を受け取って、耳に当てて――友達の名前を呼ぶ為に、すっと息を吸い込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る