3-20 焔

「呉野さん。どうして、私達の邪魔をするの?」

 七瀬は、静かに問う。

 怒りが消えたわけではない。むしろ、時間の経過と共にその感情は強くなる一方だが、振り切った怒りの感情は、七瀬を不思議と冷静な心持ちにさせていた。

 きっと、拓海のおかげだろう。だからこそ今、七瀬は戦える。目の前の敵に厳然と、確固たる意志で立ち向かえる。

 さっきまでここに居た少年に支えられ、勇気づけられたことを、忘れなければ――怖いものなんて、何もない。

 一階の姿見に映る少女は、始めのうちは七瀬の問いかけに答えなかった。俯き気味の姿勢の所為で、前髪が目元を隠している。表情はほとんど読み取れないが、唇は笑みの形に吊られていた。

「……篠田七瀬。貴女、何を知っているの」

 鏡の境界越しに聞いた氷花の声は、嵐の前の静けさを感じさせる不気味な恫喝を含んでいた。どんな音色の声であろうと、七瀬がたじろぐことはない。顔を上げて平然と、異質な少女に訊き返す。

「何のこと?」

「とぼけないで……とぼけないでよ!」

 氷花が、顔を跳ね上げた。前髪で隠れていた表情があらわになり、強い怒りが爆ぜた声で、七瀬を怒鳴りつけてくる。

「あんたが、私をここに閉じ込めたんでしょ! 信じられないわ! 一人で引き籠っていればいいのに! 私まで巻き込むなんて、あんた馬鹿なのっ? 殺す……殺してやる……二人揃ってここに閉じ籠って、餓死でも何でもすればいいのよ! あんたを殺せば、十分兄さんへの当てつけになるんだから!」

「呉野さんって、ほんとに頭、大丈夫? ……気持ち悪いんだけど」

 合いの手を入れてしまった七瀬は、思わぬ情報に驚いていた。七瀬はこの怪現象を氷花の所為だと思っていたが、氷花のこの言い様だと、真相は少し違うらしい。氷花が悪いのは前提として、この状況には七瀬にも責任の一端があるようだ。

 ただ、それに対して責任という言葉を宛がうのは、やっぱり癪だと七瀬は思う。少なくとも、氷花が妙な行動を取らなければ、今の状況はなかったはずだ。互いにとって不測の事態だということは理解したが、まだ疑問は残っていた。七瀬の予想が正しいなら、氷花の奇行の理由が不明なのだ。

「呉野さん。もう一度訊くけど……どうして私達の邪魔をしてるわけ? 鏡を叩き割って、ストーカーしてきて、あんた、本当に気持ち悪いんだけど」

「何回言ったら分かるのよ! あんたを殺す為よ!」

 氷花が気炎を吐いた。七瀬はこのやり取りにかなり辟易していたが、氷花の次の一言で、気が変わった。

 こちらの覚悟が、決まったからだ。

「鏡の所為よ! 篠田さんが鏡を気にする所為で、こんな変なことになっちゃったに決まってるわ! だから、調べたのよ。移動できるって事。それに、壊したら移動できなくなる事も分かったわ。……分かったから、邪魔してやるって決めたのよ! あんた達二人、ここで生き埋めになって死ねばいいのよ!」

「――こんな所でっ、誰がっ、死ぬかあぁ! 呉野さん、いい加減にしてっ!」

 堪忍袋の緒がぶち切れた。辺りを憚ることない罵声を張り上げると、氷花がその声量におののいたのか、ぎくりと身体を仰け反らせた。

 ――やはりだった。

 氷花は七瀬達とは別行動を取る中で、鏡の破壊という暴挙に至った。その行為が七瀬と拓海の邪魔になると勘付き、金槌を入手して実行に移した。

 だが、それだけだった。それだけのことでしかなかった。皆で結託して脱出方法を模索するとか、何故帰れなくなったのか原因を探るとか、取るべき行動や考えるべき事案は幾らでもあるだろう。それらに思考を割く余裕がないのか、それとも余裕を失うほどに取り乱しているのか、はたまた前者と後者、両方なのか。この学校にいた坂上拓海の、真剣な目を七瀬は思う。抽象的ながらもきちんと考察し、堅実な行動に移してきた拓海に、氷花はまるで及ばなかった。

 ――気づいていないのだ。

 目の前に立つ仇敵、呉野氷花は――ここが『鏡』である事に気づいていない。それどころか、七瀬達の邪魔に一生懸命になるあまり、この緊急事態で取るべき行動を、完全に履き違えていた。自分の身に何が起こっているのかさえ、ほとんど把握していないらしい。

 だからこそ――これは、強みだった。

 やっと分かったのだ。戦い方が。目の前の少女に対抗する為に、七瀬に出来ることが何なのか。これは、今まで氷花の悪意と奇行に翻弄され続けた七瀬が、やっと掴んだ武器だった。

 ――『お前らがそこに閉じ込められてるのは、呉野が全部悪い! けどな、脱出するのは簡単なんだ! 鏡の『所有の義務』を放棄すれば、そんなクソみたいな場所、あっさり出られるはずなんだ! 今だけでいいから、俺を信じろ!』

 柊吾の言葉が、頭をよぎる。七瀬は、氷花の全身を隈なく見つめた。

 視線に気づいた氷花が、何かを隠すように軽く片足を引いたことで、スカートのポケットに目が留まり、悟る。

 ――まだ、『所有』している。

 ゴミ呼ばわりしておきながら、それでも『所有』をやめない辺り、大した執念だと七瀬は思う。七瀬を不機嫌にさせる為だけに、そこまで出来るのはかなり凄い。敵ながら、なかなか見上げた根性だ。同時に馬鹿だとも思ったが、喧嘩の相手として不足はなかった。

 何せ、こちらも相手も同じ女子なのだ。きっと七瀬たち女子生徒の遺伝子には、喧嘩の相手を完膚なきまでに叩き潰さなければ気が済まない、陰険で業の深い闘争心が織り込まれているに違いないのだから。

 幸い、教師もいないので邪魔は入らない。壊せる対象もたくさんある。ストレス発散の道具と罵倒された七瀬だったが、今初めてこの状況が愉快に思えた。柊吾と拓海のおかげで、理論は頭に入っている。成功するかどうかは未知数だが、方法に間違いはないはずだ。

「……呉野さん。一応、訊くだけ訊いてみるけど。あんたさ、私と協力してここから脱出しようとか、そういうことを考えないの? 脱出方法、分からないんでしょ?」

「協力ぅ? 篠田さん、何を言っているの」

 氷花は、きゃらきゃらと笑い声を上げた。

「状況分かってる? 私は貴女を殺そうとしてるのよ? 貴女は寂しい学校で、寂しく孤独に死ねばいいのよ。良かったわね、坂上君がいてくれて。餓死するにしたって、一人じゃないわよ? ……そういえば、姿が見えないみたいだけど……ねえ。あんた、何を企んでいるの?」

「……そ。分かった。呉野さんは、私に協力する気がない。……よく分かった」

「……何よ、改まっちゃって。気に入らないわね」

 氷花が悪態をいたが、七瀬はもう氷花など見てはいなかった。その場に屈んで薄いブルーのハンカチを足元に置くと、粉々に割れた鏡の欠片が、触れ合って涼やかに鳴り響く。この学校を叩いた時と、同じ音色だ。

 ――『単純に『鏡』の中の世界、っていうより、ここ自体が『鏡』っていう物質そのものなんだと思う』

 ――『俺達が今いる場所は『合わせ鏡』の中で……この場所と、この鏡の破片って、多分だけどリンクしてるんだ』

 拓海は、言っていた。始めは自信なさそうに、それでも真摯に真剣に、いつしか堂々と懸命に。七瀬を導いてきた、言葉の中で――今も輝く、一つの希望。

 ――『どこかには、出口があるんじゃないかな』

 七瀬は、床に片膝をつき、こうべを垂れる。

 そして――手を、合わせた。

「篠田さん、何してるの? お祈り? あははっ、ばっかじゃないの?」と氷花が嘲笑ってきたが、七瀬は一顧いっこだにしない。そんな邪悪は邪魔なだけだ。揶揄に腹を立てる荒削りな感情さえ、この瞬間にはよこしまだ。

 不思議と、敬虔けいけんな気持ちだった。少しだけ切なく、寂しかった。

 ――お葬式みたいだね。

 綱田毬の言葉を、七瀬は思う。『大人しい』少女が紡いだ美しい言葉を、十字架のように胸に刻んで、七瀬は瞳をそっと閉じる。

 声には、出さなかった。心の中で、小さく、本当に小さく呟いた。

 ――今まで、ありがとう。

 七瀬は今から目的の為に、この割れた鏡に酷いことをしようとしている。非道な行いに対する許しを請う為だけに、七瀬は短い黙祷もくとうを捧げている。毬の言ったお葬式を、七瀬はこの鏡にしてあげられない。それを悲しいと思うほどに、いつしか大切に思っていた。

 執着は、愛着だ。たとえ強制された所有物でも、その執着が歪んでいても、七瀬にとって大切にしてきた物を弔うのは当然のことで、くだらない迷信だとか、鏡といういわくのある物への恐れだとか、そういった物は全てどうでもよかった。ただ、お礼を言いたかった。そしてお別れの形を成り立たせたかった。それをきちんとできない事が、七瀬はただ寂しいのだ。そんな礼儀正しさを、七瀬は母から、友人から、今までの時間をかけて、学んできたのだから。納得ずくの行為だったが、閉じていた瞼を開いた時、ああ、やっぱり、とは思ってしまった。

 七瀬では、駄目だった。この方法ではまだ足りないのだ。ごめんね、と柊吾に心の中で謝った。

 愛着に区切りをつけることは、難しいものだと思う。

「ちょっと篠田さん、茶番はいい加減にしてくれる? 退屈なのよ。あんたがいつまでもそんな調子なら、こっちにだって考えがあるわ。今から坂上君を探し出して、あの優男を脅かしてやるんだから。隠れたって無駄よ、絶対に見つけてやるわ」

「……坂上くん、もういないよ」

「? 何、聞こえなかったわ。もう一度言って」

 七瀬は返事をせずに立ち上がると「言いなさいってば」としつこく食い下がる氷花を尻目に、スカートを少したくし上げて、下に履いていた体操着の半ズボンを脱いだ。

 氷花が、黙る。驚いたのか声も出ない様子の氷花をよそに、七瀬は黄色のタイを緩めてほどき、セーラー服にも手を掛けると、脇腹のチャックを上げて両手でまくり、ぱっと頭から脱ぎ捨てた。軽く畳んだ衣服をハンカチの包みの上に被せると、七瀬は軽装で氷花に向き直る。

 寒がりが幸いして、制服の下にTシャツを着こんでいたので恥ずかしさはない。半ズボンを脱いだ所為で腿の辺りがひんやりするのは気になったが、スカートがめくれたところで、ここにはこの変人しかいないのだ。見られて困ることはない。

 それに、七瀬は勉強は不出来だが――体育には、そこそこ自信がある。身体を動かすのは好きなのだ。それもきっと、強みのうちの一つだろう。

「篠田さん、何やってるの……貴女、まさか変態だったの?」

「変態はそっちでしょ。男子トイレでにたにたしてたの、すごく気持ち悪かったんだから。それより、呉野さんも薄着になった方がいいんじゃない? まあ、やせ我慢するなら止めないけど?」

「はあっ?」

 氷花が、不可解を露わに語尾を跳ね上げた。七瀬は床に置きっぱなしにしていたフライパンを通学鞄にすと、代わりにそこへ無造作に入れていた物を取り出して、相手に見えやすい高さに掲げてやった。氷花が七瀬の鏡にした仕打ちになぞらえて、ゆらゆらと、挑発するように。

 氷花が、気づく。息を呑む声が、聞こえた。

「篠田さん、それ……、あんた、何する気なのっ? そんな物で、何が出来るっていうのよ!」

「見たら分かるでしょ? ……呉野さん。もう一度訊くけど。今から私と協力して、出口を探す努力、してくれる?」

「嫌よ! 絶対嫌! 誰があんたなんかと!」

「じゃあ、言い方を変える」

 ――しゅ、と。擦過音が、手元で響く。

 一回目でかず、もう一度擦った。今度は手応えがあった。胸をすくような点火の音とともに、小さな火が、ぼうっと灯る。噴き上げた煙が、細く立ち上った。

 この方法を選ぶことが、正しくなくても構わない。目的は、脱出なのだから。出口を、目指したいだけなのだから。その為なら、目の前の不愉快な少女の邪魔を排斥し、文字通りき付ける為の作業など、何ということも、なかった。

 七瀬は、マッチ箱を足元へ落とした。

 ぽすん、と軽い音を立てて、マッチ箱は脱いだ衣服の上に着地する。その先達せんだつの後を追わせるように、七瀬は手中の小さな炎を、もう一度これ見よがしに掲げて見せた。

「何してるのよ、篠田さん……! 何、する気なの! 答えなさいよ!」

 七瀬の行動にただならぬものを感じたのか、氷花の声が悲鳴混じりになり、慌てたようにこちらへ足を踏み出そうとした。

 七瀬は、待たなかった。


「私と協力しない? っていうお誘いじゃなくて。――出口、探して。今から、死ぬ気で」


 氷花の足が、姿見の境目さかいめを踏み越えるよりも、ずっと早く、七瀬の手から、燃えるマッチが落ちていき――衣服とハンカチの上で、滑らかに燃え広がった。

 ――瞬間。最初に訪れた変化は、色彩だった。

 校舎に射し込む夕焼け色が、すうと濃くなっていき、明度を下げて、黒く、重く、濁っていく。高温で煮詰めた飴のように濃縮された世界の色の反転は、一秒もしないうちに到来した。

 急激に、明度が上がり始めたのだ。退廃的な夕日色に、鮮烈な赤色がじりじり混じる。燦然と輝いていく様は、予熱を終えたオーブンのようだった。「何っ! 何なの!」と氷花が叫び、鏡越しに向き合う二人の間に、ゆらりと陽炎かげろうが立ち上った。床から、壁へ、壁から、天井へ。燃える夕日の色彩が、学校の色を変えていく。

 炎の色に、変えていく。

 ――ぱきん。

 涼やかな破砕音が、エコーする。それが、決壊の合図となった。


 灼熱の炎が、荒々しい旋風となって、二人の間に巻き起こった。


 火の粉が躍り、血の色に染まった風が爆発する。獣の遠吠えに似たとどろきに呼応するように、触れるだけで火傷しそうな熱風がたけり狂い、剥き出しの太腿を、手の平を、うなじを、頬を、二人の全身を炙っていく。みるみる体感温度が上昇し、サウナに放り込まれたかのようだった。

「きゃあぁぁ!」と氷花が絹を裂くような悲鳴を上げる姿を、七瀬は両腕を交差させて顔を庇い、隙間から激しくめつけた。だが七瀬とて状況は氷花と変わらないのだ。暴風が身体を凄い速さでなぶっていき、スカートがはためき、髪をくくるゴムがぶつんと音を立てて千切れ飛ぶ。束ねた巻き髪が帯のようにほどけていき、背に流れることもなく風に遊ばれ、燃え盛る炎と同じ灼熱のつやを弾いていく。

 氷花は鏡の向こうでうずくまり、熱い空気そのものから逃れようとするように、出鱈目に暴れ、もがき、髪を振り乱していた。

 まるで鬼のようだった。人間とは思えないその様は、火炙りに処されているかのようだった。暴れた拍子に、氷花が金槌を取り落とす。鏡という物質で構成された床が、突然降ってきた鈍器で叩かれ、きぃんっ、と澄んだ音を響かせた。

「何! 何なのっ! 篠田さん、あんた、何したの! 答えなさいよ! 何したの! 何、したのよおぉ……!」

 氷花が激昂した途端、学校を取り巻く変化はさらに劇的なものに変わった。かっと赤い光の明度が増したのだ。火勢が強くなっている。七瀬の足元で、畳んだセーラー服が、火達磨ひだるまになっていた。

 ――結構、火のまわりが早い。

 正直、これほどとは思わなかった。だが後悔はなかった。予想が的中した達成感と、もう後戻りは出来ないというスリルが全てだった。七瀬は赤い風の中で、焼かれて形を失くしていく亡骸を、最期のその輝きを、瞳に継承するように目をすがめずに睨みつけた。あらゆる激情を戦意に変えて、熱地獄と化した校舎に、挑むように立ち続けた。

 校舎に吹き荒れる業火は、瞬く間に『鏡』の世界を包んだが――この『炎』には、熱さはあったが痛みはなかった。

 七瀬の衣服や髪を何度も赤い旋風が撫でていくのに、燃え移る気配が全くない。火焔は何も燃やさずに、ただただ熱と煌めきだけを、その激しさとは裏腹な静けさでもって、無限の『合わせ鏡』に分け隔てなく映していた。

 本物の痛みを帯びる、現実の『炎』は――やはり、たったの一つだけだった。

 七瀬の足元で黒煙を噴き上げて、ひたすらに燃え続ける衣服。その中に埋められた、割れた鏡。この場所とリンクしているという、母の鏡。

 ――この幻の『炎』の仕組みを、目の前の鬼は分かっていない。こうなって尚、未だに分かっていないのだ。

「手伝ってよ! 呉野さん!」

 七瀬は凛と前を向き、情けなく蹲って頭を抱える氷花に近づいていく。フライパンで姿見の鏡面をごんごん叩き、怯える氷花を傲然ごうぜんと見下ろすと、ありったけの怒りを込めて、強く命じた。

「燃える学校の中で私と心中するか、それとも移動を続けて出口を探すか! 選んでよ、呉野さん! さあ、早く!」

「いっ、嫌よ! 誰があんたなんかと、心中なんかっ!」

「ごちゃごちゃ言ってる暇があるなら早く探せって言ってんの、まだ分かんないのっ!?」

 七瀬はフライパンを、目の前の姿見へ叩きつけた。澄んだ轟音が爆発し、ひっ、と氷花が短い悲鳴を上げた。七瀬はその腑抜けた声を、ごうごうと唸る火炎で視覚も聴覚も触覚も馬鹿になりそうな状況で、かろうじて聞き取った。

 ぱらぱらと、破片が剥落する。鏡面に落ちた落雷のような罅割れの向こうで、氷花が身体を震わせて、七瀬の姿を見上げていた。罅の所為で表情は窺えないが、そんな有様であっても氷花が愕然としているのが伝わってくる。先程まで自分が圧倒的優位に立って翻弄していたはずの弱者の姿を、堪らなく恐ろしく思っているのが伝わってくる。少しだけ気分の晴れた七瀬だが、余韻に浸る暇はなかった。急がなければ最悪、本当にこの変態と心中だ。自分から提案しておきながら酷いと思うが、それだけはたとえ死んでも御免だった。

「私、違う鏡から探すから。呉野さんも、早くそこから移動しなよ。そっちの学校も、出口がないんでしょ?」

「あ……あんた、何が目的なのよ……何が、したいのよ!」

 氷花が、よろよろと立ち上がる。鏡面の罅割れが酷く、やはり顔色は読めなかった。そんな仇敵の姿に一瞥を寄越すと、七瀬は身を翻し、階段へと向き直る。

「そんなの、決まってるでしょ。帰りたいから。それ以外の理由なんてない!」

「あんたは帰れないわ! 篠田七瀬!」

 氷花が憎悪を盛り返したのか、七瀬へ挑発的に叫んできた。

「あんたの所為でこうなったのよ! その張本人が、あっさり帰れるわけないでしょ! 『篠田七瀬はここでっ、たった一人で死ぬのよ!』 このまま、焼かれて! 『坂上拓海にも会えずに、寂しく一人で死んでいくのよ!』」

「知るかあぁ!」

 七瀬は振り返り様に、フライパンで再び鏡面を殴打した。ばりばりと姿見を抉る凄まじい音が炸裂し、氷花の臆した声が向こう側から聞こえてきた。

 人を挑発しておきながら、何という様だろう。この程度の牽制で、氷花は簡単に怯えてしまうのだ。七瀬の喧嘩相手は、こんなにも仕様のない小物こものだったのだ。思わず強く歯噛みした。七瀬にとって呉野氷花は、得体の知れない存在で、意味不明な罵倒の数々も、偏執的なまでの悪意による行いも、総じて気味が悪かった。

 だが、もう思わない。ここにいるのは、七瀬と同じ歳の少女だった。悪辣な態度と厭味な言葉で己を強く見せているだけの、一人の人間がいるだけだった。

 他愛ない。はっきりとそう思った。

 そして同時に――やはり、許せなかった。

 こんな相手に、自分がこれほどおとしめられた。それを許したままこの戦いの場から逃げるのは、誰が許したとしても七瀬だけは許せなかった。

「呉野さん。あんた帰りたくないの? 帰って、会いたい人とかいないの? 私はいる。会いたい人、たくさんいる。会ってたくさん話したくて、全部ぶちまけて喧嘩したい人がいる。そういうの、あんたにはないの? 呉野さんって、人のことを何だと思ってるの? 人間だと思ってないんでしょ! そういうの、本当に最低! 気持ち悪い!」

「会いたい人……、それって『坂上拓海』の事かしら!」

 氷花が、笑った。だが、震えた笑みだった。虚勢で無理やり覆ったような、継当てだらけの嘲笑だった。

「『坂上拓海に二度と会えないかもしれない事が怖い』のね! がさつな女だと思ったら、結構かわいいとこあるじゃない! まあ、もう会えないでしょうけどね! 『閉じ込められた篠田七瀬は、もう、坂上』」

「うるせえって言ってんのがまだ分かんないの、あんたは!」

 言葉遣いが滅茶苦茶に乱れた。フライパンを三度みたび、渾身の力でフルスイングした。乱舞する火の粉もばちばちと爆ぜ、鏡面にめり込んだフライパンから、ぼろっと大きく破片が崩れる。「あ、わわ、わああ」と氷花が激しく狼狽する声が、性懲りもなく聞こえてきた。

「わ、割らないでよ! 野蛮人!」

「それはあんたも同じでしょ! 野蛮人!」

 四度目も殴りつけた。鏡は最早ほとんど残っていない。肌を撫でる空気も熱い。こんな所で立ち止まっている場合ではないと分かっていたが、それでも殴った。殴りつけた。七度、八度とまだ殴る。だが足りない。まだ足りない。まだまだ全然殴り足りない。殴る度に、もう一発目を切望する。それほどまでに殴打しても、一向に殴り足りなかった。まだまだ、全然、気が済まないのだ。

「坂上くんは! 私に! 怒っていいって言ってくれた! 私は、怒らなかった! 怒るべきじゃないって思ってた! ……でも! いいって言ってもらえたんだから! 帰ったら、真っ先に喧嘩しに行く! 簡単に許す気なんか、ないんだから! ……呉野さん、まだ私の邪魔をするつもり? あんたが私と坂上くんを閉じ込める為にやった事、私にもできるって事を忘れてるんじゃないの? 私、あんたよりは絶対に運動できるからね? 足、速いからね? この怪我、大したことないからね? ハンデにはならないからね? 先に学校の姿見を全部叩き割って、あんたの逃げ道、残らずぶっ潰せるんだからね? ……協力、してよ? ねえ! 死ぬ気で! ほら! 早く! ……出来ないんなら、ここで死ねえええぇぇぇ!」

 幻の炎が、一際大きくごおうと唸る。その風に乗せた威嚇の咆哮に、氷花の気配がはっきり竦み上がった。七瀬が執拗に殴打し続けた所為で姿見には欠片がほとんど残っていないが、かろうじて貼り付いた僅かな鏡に、氷花の黒髪が見えた。へたり込む足が見えた。声もなく、抵抗もなく、がたがた震える身体が見えた。

 これほど威嚇して、それでも駄目なら仕方ない。ふい、と七瀬は踵を返した。

「私、行くからね。呉野さん。後でね」

「……探すわよ、探せばいいんでしょ! もう、嫌よ! こんなのばっかり! なんであんた達って揃いも揃って野蛮なの! 皆まとめて死ねばいいのに!」

 氷花が、怒りと屈辱と涙が混じったような声で喚き、さらりと揺れた黒髪が、姿見の破片の中から消えた。去りゆく姿を見届けた時、ぱきんと足元で何かが爆ぜる音がした。

 七瀬が音に振り向くと、ばきばきと大きな破砕音がそこら中から聞こえてきて、赤い空間に白い罅の稲妻が、ノイズのように入り乱れ始めた。

 まるで、硝子の罅割れ。目の前にある、姿見のような。あるいは、七瀬の鏡のような。このまま、この空間が壊れてしまえばいい。そんな風にも思ったが、鏡は多分、燃え残る。知識は薄かったが、不燃ゴミに分類されるはずだった。たとえ外部からの刺激や熱でさらに細かく割れたとしても、脱出の助けにはならないだろう。逃げ道を困難にするだけだ。

 最後にもう一度だけ、『炎』を見下ろした。

「……。ごめんなさい。お母さん」

 小さな声で呟くと、それを最後に、見るのをやめた。

 背中を、向ける。鏡から、そこにある執着から、愛着から、絆から――そして、そのまま駆け出した。

 通学鞄を揺らし、フライパンを携えて、階段を数段飛ばしで駆け上がる身体に、吹きつける風がまだ熱い。どこもかしこも赤い世界で、七瀬は高揚する感情に混じる強い怒りに衝き動かされて、次の鏡へ向かっていった。

 まだ、絶対に諦めない。氷花が一応、味方についた。このまま二人で総当たりして、調べられる所まで調べ尽くす。こんな所で、死ぬ気はなかった。


 ――葉月!


 七瀬は、名を呼ぶ。心の中で、その名を叫ぶ。

 七瀬の親友。『大人しい』少女。去年からずっと一緒にいて、今は他人のように余所余所しい。そんな関係に甘んじた、怒らない自分を詰りたかった。

 何故、怒らなかったのか。理由はもう分かっていた。

 拓海に言われて、分かったのだ。

 ――『理由は分かんないけど……怒っていいと思う。それ』

 ――『ひどいじゃん。ちょっとくらい文句も言いたくなるよ』

 その通りだ。だが、違うのだ。七瀬は怒れる。ミユキや夏美とも今日は一度険悪になった。衝突を恐れてはいないのだ。

 それでも七瀬は、葉月が相手では駄目だった。一ノ瀬葉月は、ミユキや夏美たちと一体何が違うのだろう? 『大人しさ』も『派手さ』も関係ないはずなのだ。七瀬は葉月と喧嘩をした事はなかったが、それは衝突を避けていたわけではない。偶然今まで衝突しなかっただけの話だ。

 喧嘩を避けた理由だって、今ならはっきり分かっている。

 そもそも――前提が、違ったのだから。

 七瀬は、怒りたかったのではない。


 ――怒って、欲しかったのだ。


 新学期になって、新しい友人を紹介されたあの日。『大人しい』少女達から一斉に向けられた、排除と倦厭と拒絶の目。異分子を排斥しようとする眼差しに射竦められた七瀬を見て、驚いた顔をする葉月。七瀬が彼女達と実のない会話を続ける間、ずっと固まっていた七瀬の親友。

 怒って、欲しかったのだ。七瀬は、葉月に、彼女達を。

 自分の友達が今、目の前で攻撃を受けた。葉月はそれを、黙って見ていた。明らかな倦厭に対して言い返せずに、黙ったまま、葉月はただ見ていただけだった。七瀬は、葉月に見過ごされていた。

 何がショックだったのか分かった。それがショックだったのだ。七瀬が葉月を怒りたいのではない。ましてや新参者の外野など始めから眼中になかった。相手は葉月だ。葉月しかいない。七瀬は怒って欲しかった。それを葉月に求めていたから、衝突したくなかったのだ。

 待っていたのかもしれない。葉月が、怒るのを。だから七瀬は、上辺を取り繕った実のない会話を繰り返した。そうやって待っている間、ついに葉月は怒らなかった。

 それが――怒れない原因の、全てだった。

 先に怒って欲しかった。七瀬が怒るよりも早く、葉月に怒って欲しかった。それを切望したからこそ、七瀬は耐えた。笑顔で、上辺を、取り繕って。怒れないまま、こんなにも時間を費やしてしまった。こんな風に気づくまで、七瀬は葉月を待っていた。

 馬鹿馬鹿しかった。最悪だった。しかも葉月は、それを分かっていないかもしれない。七瀬が待っていた事を知らないで、七瀬が身を引いたとしか思っていなくて、七瀬の避ける行為で勝手に傷つき、隔絶感で切ない気分にでもなっているかもしれない。だとしたら、やっぱり馬鹿馬鹿しくて最悪だった。

 喧嘩がしたかった。今すぐ。葉月と。本気で。詰り合いのようなものでいい。どんなに醜くても構わない。この感情をぶつけたかった。暴力のようだとどこかで気づいている。それでも受け止めて欲しかった。何をされても受け止めるから、代わりに本音を聞いて欲しい。そうやってぐちゃぐちゃに傷つけ合いたかった。それほどに七瀬は葉月が許せないのだ。一度自覚して火がついた怒りに、もう歯止めが利かなかった。

 そして、やっぱり好きだと思った。

 分かっているのだ。これ程の怒りに身を焼かれても、芯は何も変わっていない。

 この怒りの感情は――葉月が好きでなければ、生まれないものだからだ。


 ――葉月の馬鹿!


 声に出さない代わりに、涙がぼろぼろ零れてきた。ぐいと熱い手の甲で雫をぬぐい、七瀬は熱気で揺らめく風を切って、踊り場の鏡へ飛び込んだ。

 葉月に会いたい。怒っても良かったのだ。もっと早く怒れば良かった。何をずるずるしていたのだろう。七瀬もまた馬鹿だったのだ。好きなら一緒にいればいい。拓海に二度も言われていた。一緒にいれば良かったのだ。

 だから、それが叶わないまま死ぬのは嫌だった。

 やり残したことがたくさんあった。毬との約束も果たせていない。葉月と喧嘩もできないで、十四歳で、無知なまま、これから積んでいく経験とか、将来とか、恋人の存在とか、そういったもの全てが丸ごと奪い去られて、半端な七瀬のまま死ぬわけにはいかなかった。七瀬は葉月の好きな人だって知らないのだ。何度訊いても誤魔化されてばかりだった。もっとそんな話をしたかった。葉月が恋をしているなら、その話を聞かせてほしい。七瀬はまだ恋だってしていない。キスもセックスも知らないままで、このままここで死ぬのは嫌だ。絶対に嫌だった。

 まだ死ねない。

 死にたくない。

 ああ、違う。


 生きたい。


 すとんとシンプルに、言葉が胸に落ちる。余分な情動が削ぎ落されて、冴え渡った本能を胸に、七瀬は階段を駆け上がる。

 走った先には、新たな鏡。

 ただ生きることだけを渇望しながら、七瀬はほどけた髪を風に靡かせて――次の学校へ繋がる赤い鏡に向かって、全身で飛び込んでいった。

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