3-18 脱出

「三浦くん……嘘……っ、よかった……!」

 目頭が少し熱くなり、込み上げた感情を堪えるように七瀬は言った。この学校の『外』にいるであろう人間と、初めて連絡がついたのだ。押し寄せた安堵で、胸が潰れてしまいそうだった。拓海もその場に屈み込み、「よかった……」と泣き笑いのような顔で呟いている。

『……』

 だが電話の向こうの声は、七瀬や拓海と同じように喜んではくれなかった。

 それどころか、柊吾が次に絞り出した声は、かなり硬いものだった。

『篠田。手短に話してほしい。そっちは今どういう状況だ? 連絡がついたってことは、どこかにはいるんだよな? 何が見える? どこにいる? 坂上は一緒か!? 呉野の阿呆とは、ちゃんと距離を置いてるんだろうな!』

「え? え、っと……」

 矢継早な言葉に面食らい、七瀬は言葉に詰まってしまう。

 そもそも七瀬には、柊吾が何故こんなにも焦って連絡をつけてくれたのか、理由が全く分からないのだ。こちらは状況が状況だったので一方的に喜んだが、柊吾が七瀬達と同じ類の危機感を持っているというのは、何だか少し変だった。

 とはいえ、さすがにその話ぶりから察するものがあった。

「もしかして……三浦くん、知ってるの? こっちが大変なことになってるの」

『知ってる!』

 即座に荒げた声が返ってきた。かと思えば、『あ、悪い。気をつける』などと言って声をぼそぼそと小さくするので、ますます状況が怪しい。七瀬はリアクションに困ってしまった。

「三浦、どうしたんだ? なんて言ってんの?」

 こちらの様子を怪訝に思ったのか、拓海がおずおずと訊いてくる。

「うん、三浦くん、なんでか分かんないけど、私達が危ないの、知ってるみたいで……」

『それだけじゃない。脱出方法も教えてやれる』

「え? ……えぇっ? 待って、三浦くん。私達が閉じ込められてるの、分かってるのっ?」

『ああ。分かってる。でもお前らの状況が分かんなかったら、どうアドバイスしたらいいのか分かんねえ! そっちの状況、どうなってるんだ!』

「……分かった。話す」

 なぜ柊吾が事情に通じているのかは気になるが、それは無事に帰還が叶った後で訊けばいい。相手が信頼に足るパーソナリティを持っている事くらいは、柊吾との短い会話からでも分かるのだ。七瀬は電話で繋がった他校の少年へ、息せき切って言葉をぶつけた。

「三浦くん、私達、学校に閉じ込められてるの!」

『学校っ?』

 柊吾の声が上ずる。七瀬は「学校! 私達の中学にいる!」と繰り返した。

「でも、誰もいないの! 私と坂上くんと、呉野さん以外誰もいない! それに、変なの! 学校から外に出られないの。さっきから、ずっと!」

 説明する七瀬を見守る拓海は、電話の相手が本当に柊吾だと分かってほっとした様子だったが、しきりに周囲を気にし始めた。氷花の妨害を気にかけてくれているのだ。七瀬は拓海へ頷いて見せると、心置きなく柊吾との会話に没頭した。

「階段の姿見とか、鏡がある場所を通り抜けて移動はできるんだけど、どこまで移動しても別の学校に繋がるばっかりで、学校から脱出できないの! それに、呉野さんがさっきから、私達の移動を邪魔してくる!」

『移動を邪魔ぁ? あいつ、何してるんだ!』

「学校の鏡を叩き割って回ってるの! 割れた鏡は通る事ができなくなるみたいで、逃げ続けないと私達、移動もできなくなっちゃう! このままじゃ、学校に閉じ込められちゃうの!」

『篠田。呉野が篠田と坂上の邪魔をしてくるのは、あいつが最低最悪の愉快犯で、阿呆で、変態だからだ。あいつの奇行に理由はないから、そこは気にしなくていいと思う』

 柊吾が突然、真面目くさってそう言った。奇しくも同じ感想を抱いていた七瀬は親近感を覚えたが、次に柊吾の放った台詞の所為で、そんな感慨は消し飛んだ。

『あと、お前らが閉じ込められてるっていう学校。それ、『合わせ鏡』だ』

「あ、合わせ鏡っ?」

 どきりとする。復唱する七瀬の言葉を拾った拓海が、顔色を変えた。

「もしかして、俺の予想って当たり?」

「……かもしんない」

 七瀬が言うと、『篠田、聞いてくれ』と、柊吾が淡々と言った。

『今から、脱出の方法を言う』

「脱出……できるの!?」

『できる!』

 力強い声が返ってきた。打てば響くような言葉の迷いの無さに、七瀬は放心してしまう。期待なのか、恐れなのか、期待をかけるのが恐ろしいのか、逸る鼓動を止められない。閉鎖空間の裂け目を、ようやく見つけられた気がした。拓海も、固唾を呑んで成り行きを見守っている。

「っていうか、何で、三浦くんが知って……、ううん、教えて! お願い!」

『……篠田、鏡は持ってるか?』

「鏡? ……あるけど、それって、割れたやつのこと?」

『それ、捨ててくれ』

「え?」

『捨てるんだ、篠田! 頼む!』

 言われた言葉が、分からなかった。言われた瞬間に呆けて、次の瞬間には理解が及び、だが結局何も分からない。七瀬には、柊吾の言葉が分からなかった。

 そんな七瀬へ畳み掛けるように、『捨てれば終わるんだ、篠田!』と柊吾が電話越しに繰り返す。気の所為か、労りの混じる声で。焦りながらも諭すように。それでいて強く、柊吾が言う。

『篠田と坂上が今いる場所は、『合わせ鏡』だ。俺も憶測しか言えねえけど、学校が鏡の扉で連なってるのは、本当の『合わせ鏡』をした時に、いくつも自分が映る現象みたいなもんだと思う。……けど! 脱出は簡単なんだ。篠田の鏡を捨てるだけで、お前ら全員帰れるはずだ!』

「な、なんで……もう、割れちゃってるし、言われなくても捨てるつもりだったよ? なんで……!」

 七瀬は混乱し、携帯を耳に当てたまま狼狽える。「篠田さん?」と拓海が七瀬の異変に気づいたのか、怪訝そうに、そして心配そうに七瀬を気遣った。思考回路がショートしかけて返事ができないでいる七瀬に、電話の声は静かに告げた。

『……悪いと思ってる。お前が、鏡を大事にしてたってこと、俺、知ってる。聞いたんだ』

「え?」

 何? どうして? ……誰に? 疑問が次々と湧いたが、『でも、頼む』と真摯な懇願が耳朶を打ち、七瀬は口を挟めない。

『篠田が持ってる鏡は、多分、お前らが閉じ込められてる『合わせ鏡』と関係があるんだ。俺にも、上手くは言えねえけど、繋がってるんだと思う。っていうか、篠田の鏡がないと、その場所は成り立たないんだ』

「それと脱出と、どう関係するの……っ?」

『だから、捨てるだけでいいんだ!』

 もどかしさを隠そうともしない声が、七瀬を揺さぶった。

『――『この鏡は、自分の持ち物じゃない』。そんな風に思うだけでいい! 自分の『所有物』じゃない、違うって事を意識するだけでいい。それだけでお前ら全員、こっちに帰って来られるはずだ!』

「な……何っ、それ……!」

『信じろ! 篠田! 坂上も!』

 柊吾は、引き下がらなかった。七瀬を説き伏せようと、真剣に声を掛け続けている。

『篠田。鏡の破片、まだ手に持ってるんだな? 呉野の阿呆も、一欠片だけ持ってるはずだ。……坂上も。あいつに自覚はないかもしれないけど、篠田の鏡が服にでも付いてるのかもしれない。持ってると思う』

「……え?」

 意外な言葉だった。ここで拓海の名が出るとは思わなかったからだ。

『鏡を持つこと。それが、お前らが今いるっていう『鏡』の学校に存在できる、パスみたいなもんなんだと思う。だから、それを『失くす』こと、『拒絶』することで、多分、お前らは……くそっ、めちゃくちゃ言ってんの、分かってるんだ。俺だって。……悪りぃ。……けど!』

 余程言うのが辛いのか、言葉尻に苦渋が混じっている。それでも柊吾は言葉を濁さず、強い語調で叫んだ。

『お前らがそこに閉じ込められてるのは、呉野が全部悪い! けどな、脱出するのは簡単なんだ! 鏡の『所有の義務』を放棄すれば、そんなクソみたいな場所、あっさり出られるはずなんだ! 今だけでいいから、俺を信じろ!』

「所有の……義務?」

 七瀬は、その言葉をぽつんと小さく復唱した。

 本当に意外な言葉だったからだ。その言葉をまさか、今日会ったばかりの他校の少年の口から聞かされる事になるとは思わなかったのだ。

 ――所有の義務。

 そんな言葉が胸を絞め上げるのは、今日で二度目だ。一度目がいつだったのか、はっきりと七瀬は覚えている。

 ――氷花の、待ち伏せを受けた時だ。

 内面をナイフで切りつけられたような痛みに喘ぎ、血塗れの心で七瀬はあの時、母の顔を思い出していた。七瀬の心に『所有の義務』を刻んだ、理不尽で厳しい母の顔を。

 だが、その反面、母には優しい顔もあった。理不尽で厳しいからこそ、余計にそう思ったのかもしれない。最初は当番制の朝食作りだって面倒臭くて嫌だったが、作った卵焼きや味噌汁の味を褒められた時は、嬉しかった。

 褒めて欲しいというその気持ちが、子供っぽい幼稚な甘えだと、自分でもどこかで気づいている。それでも認めてもらえたことは誇らしく、七瀬にとってそれが母との付き合い方の形だった。言い合いに発展することも日常茶飯事だが、憎めなかった。反発が憎悪に繋がるほどに、七瀬は母を嫌いになれない。

 何故だろう。不思議だった。嫌いになってもおかしくない。現に道場の件は相当根に持っていた。友人と師範。得難い絆を無理やり裂かれて、何も思わないわけがない。七瀬はあの時、母が許せなかった。

 だから、七瀬は――喧嘩を、覚えていったのだろうか。母の教育があったからこそ、周囲との軋轢を恐れない性格が、育っていったのだろうか。何だか、苦笑してしまう。結局今の七瀬があるのは、母のおかげといっても過言ではないのだ。素直に認めるのは少し癪だが、やっぱり憎めない。多分それは、一生無理だ。

 それは、家族だからだろうか。それが、愛着だからだろうか。

 葉月の顔を、思い出す。毬の顔も、思い出す。様々な顔が、次々と頭に浮かんでいく。和音もいた。夏美とミユキ、他の友人の顔もいた。七瀬が今まで生きてきた中で、好きだと思った人達の顔が、走馬灯のように脳裏で煌めきながら駆け巡った。

 そして――もう一人。七瀬は、気づけば俯き気味になっていた姿勢を正し、目の前に立つ少年を見る。

 昨日までは、他人だった。では、今は何だろう?

 決まっていた。友達だ。

「……三浦くん。その方法で、帰れるなら。私、ここで捨てる。……元々、家で処分するつもりだったしね」

『篠田。……言いにくいけど、言う。お前だけは、一番帰還が難しいと思う』

 柊吾は、躊躇いを覗かせながらも、はっきり言った。

『お前はその鏡を、本当に捨てられるか? さっき、俺が言ったみたいな意味で。単に手放すだけじゃ、多分駄目なんだ。心から、これは要らないって思えるか? 自分のものじゃないんだって、執着みたいなもの、全部、捨てられるか? ……頼む。それでも捨ててくれ。……時間が、ないんだ』

 苦しげに掠れた声を受けて、七瀬は刹那、言葉に詰まる。

 執着は、愛着だ。捨てろと言われて、二つ返事で手放せるようなものではない。柊吾はそれを承知の上で、七瀬に声を掛けているのだろうか。だとしたら、柊吾は本当に優しい人間だ。

「分かった。三浦くん。今から試す。……お願いがあるんだけど、通話はこのまま切らないで。後でまた、声を聞きたいから」

『……おい、篠田。待て。お前は』

「じゃあ、ちょっとだけ待ってて」

 携帯の通話越しに、息を呑む声が聞こえた。『篠田!』と強く叫ばれたが、七瀬は返事をしない。それは、後ですればいい事だと思った。だから、今はいいのだ。

 七瀬は、携帯を鞄へ落とす。有事の今はポケットに入れておきたいが、底が破れているので使えない。そんな七瀬を、拓海が放心の顔で見つめていた。

「脱出、できるんだ……。よかった、のか……? なあ、篠田さん、三浦は何て言ってたんだ? 捨てるって、鏡を?」

「うん。私の鏡を捨てたら、みんな帰れるんだって」

 七瀬が答えると、拓海の目に驚きと、それをも超える希望が明るく灯った。

「なんで三浦が知って……いや、今はいい。よかった……やった! 俺ら、帰れるんだな!」

 無邪気に笑った拓海は歓声を上げたが、ふと思案気に表情を陰らせ、喜色をそっと引っ込めて訊いてきた。

「篠田さん、その……えっと、鏡……」

「坂上くんまで。何気にしてるの? 元々捨てるつもりだったって言ったじゃん。うちで処分する気だったんだから、そんなの気にしないで。……それより、坂上くん」

 七瀬は、通学鞄を床にもう一度下ろした。

「学ラン、鏡の破片まみれだよ。さっき呉野さんが鏡を割った時に、破片かぶってたでしょ。払ったげる」

「え? あ、ああ、うん。……えっと?」

 拓海は七瀬が距離を詰めたので、少し面食らったようだった。途端におろおろと後退して、「い、いいっ、大丈夫」と妙な慌て方を見せてくる。

 拓海について何も知らなかった今朝の事を、七瀬は不意に思い出した。

 桜が咲き誇る昇降口前で転んだ時、最初に相手を避けたのは七瀬だった。拓海の手を借りずに逃げてしまったのは、七瀬の方が先だった。

 ――手、素直に借りればよかった。

 少しだけ、後悔してしまう。だから、もう同じ後悔は、したくない。

「坂上くんってば。逃げたら払えないでしょ。じゃあ触らないから。その学ラン、一回脱いでくれない? 破片まみれで、見ててはらはらする」

「あ……うん、ごめん」

 拓海は相変わらず狼狽していたが、七瀬の言葉に従って、学ランのボタンを上から順に外し始めた。

 その様子を、七瀬はそれとなく目で追う。拓海が見られた事に気づいて、視線を斜め下に逸らした。ちょっとした可愛らしさを感じて微笑んだ七瀬は、拓海の立ち姿を観察した。

 髪、学ラン、ズボン、靴――明確な区別は付かないが、おおよその当たりは付けている。七瀬は、拓海にもう一歩近づいた。

「……私、払うから。それ、少しちょうだい」

「え? いいって。危ないから、俺、自分でやるよ」

「いいってば。やらせてよ。……私が、そうしたいだけなんだから」

 拓海が、驚いたような顔になる。

「篠田さん……?」

「坂上くん。あのね……私、一人じゃなくて本当に良かった。こんな所に、たった一人だけだったら……心細くて、怖くて、呉野さんのいないところで、隠れて泣いちゃってたかもしれない。一緒にいてくれて、嬉しかった。……ありがとう。坂上くん。それから……巻き込んじゃって、ごめんね」

 七瀬は、笑った。そして、


「じゃあね。坂上くん」


 目を見開く拓海の手から、学ランをさっと奪い取った。

 ――ばさり、と。七瀬の手に残った重い布の感触が、翻って羽ばたいた。

 重力を失ったようだった。砂が崩れるように、空気に分解されて溶けるように、ごわついた学ランの布地の感触が消え去った。まるで魔法のようだったが、同じ魔法なら既に何度も見せられている。驚くことなんて、何もなかった。安心した、だけだった。

 持ち主を失った麺棒が、床でころころと弾む。ゆっくりとした動きでそれは転がり、こつん、と七瀬のつま先にぶつかり、止まる。

 こん、と。遅れて何か、小さなものが落下した。

 七瀬は、それを拾い上げる。

 ――マッチ箱。

 拓海の学ランに入っていたものだ。思えば拓海は、麺棒の他にも調理室で武器になりそうなものを物色していた。その時に失敬した物なのだろう。

 全く、このアイテムで一体何をする気だったのだろう。拓海はここをダンジョンだとでも思っていたのだろうか。呆れるほどのゲーム脳だ。思わず笑ってしまった時、視界がほんの少しだけ滲んで、七瀬は自分でも驚いた。

 それほど辛い別れだなんて、考えもしなかった。

「……ごめんね。何も言わないで、こんなことして。でも、後は……私一人で、頑張るから。……見ててよね。負けないから」

 通学鞄から取り出した携帯に耳を当てて囁いたが、応答はなかった。ただ、柊吾が慌ただしく拓海の名を呼ぶ声だけが耳に届き、ああ、と安堵した七瀬が、目の前の姿見へ、視線を戻した時。


 そこには、一人の少女の姿が映っていた。


 薄い鏡一枚を隔てて、七瀬は少女と対峙する。

 そして、がらんどうの校舎でたった一人、戦いの場に寂然と立ちながら――背筋を伸ばして身構えると、仇敵の姿を、ひたと睨んだ。

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