3-17 合わせ鏡

「信じらんない!」

 七瀬は悲鳴のように罵倒の言葉を叫びながら、フライパンと鏡を抱えて走った。並走する拓海も顔色が悪く、七瀬と心は同じに違いなかった。

「わけ分かんない! 何なの、呉野さんって! 変態? 変態なのっ? 普通男子トイレまで追ってくる? 最低! 最悪! 気持ち悪いっ!」

「何でもいいけど……っ、とりあえず、逃げよう! ……次っ!」

 廊下を突っ切って階段に向かい、踊り場を目指して駆け下りた。窓からの斜光で茜色にけぶる姿見目掛けて、七瀬は飛び込むようにぶつかった。

 普通ならば、手ひどく全身をぶつけて怪我をしただろう。だが鏡は七瀬の全身を呑み込んで、同じ学校風景に着地させた。ぶわりと風が全身を叩き、結った巻き髪が頬の左側で踊る。

 もう何度目か分からない変化だった。容姿が何回反転したのか、七瀬は数えるのをやめていた。狭間を行き来する途中で窓や昇降口を調べても、結果は全て同じだった。『外』への扉は頑なに、七瀬と拓海を拒絶する。

 開かない扉を前にして、策を考える隙もないままに――鏡に映る少女の笑顔が、七瀬と拓海の退路を閉ざす。

 がしゃん! と一際大きな音が、階下から聞こえてきた。

「! 坂上くん、まだ近くにいる!」

「行こう、次! ……考えるから! 今はとにかく、呉野さんから逃げるんだ!」

「うん!」

 七瀬は手荷物を抱え直し、階段の上を見据える。拓海も一つ頷いて、氷花から距離を取るように階段を一段飛ばしで駆け上がった。

 階段の各踊り場に、点々と設置された大きな鏡。異界への入り口のような鏡面へ今度は拓海から飛び込んで、すぐに七瀬も後を追う。とん、と着地したその場所で、左右がまた入れ替わる。指と太腿の包帯が、右側へと移動する。

「これって私達、同じ場所を行ったり来たりしてるの……っ?」

「多分、違う!」

 膝に片手をついて身体を折った拓海が、踊り場から一階の姿見を見下ろした。

「俺も、最初はそう思ったんだ。でも、おかしいんだ。それじゃ辻褄が合わない! さっき、呉野さんが割った鏡……一階と、トイレと、あと、他にも。全部、俺達が違う鏡を通った時には、元通りになってる!」

 確かに、氷花が叩き割ったはずの姿見は、罅一つなく壁に収まっている。拓海の言葉の正しさが、そこに証明されていた。

「俺達が移動した場所は、やっぱり違う学校なんだ。同じ学校には、一度も戻ってない。……六つとも、違う学校なんだ!」

 七瀬と違って、拓海は数えていたらしい。拓海は姿見の脇にある窓の鍵に手を掛けると、びくともしないのを確認してから、落胆を見せずに階段を下り始めた。

「篠田さん、こっちだ! 一か八か、試したいことがあるんだ!」

 拓海の呼吸は、息つく暇もない逃亡の所為で苦しげだったが、瞳には冷静で理知的な光が宿っていた。氷花から逃げ延びる間、必死に頭を回転させていたのだ。そんな同級生の横顔を見て、七瀬は胸が詰まった。

 拓海は、諦めていないのだ。現実とは思えないこの非常事態の只中で、揺るがずに知恵を絞り、懸命に戦っている。

 励まされたような気がした。そして同時に、持ち前の負けん気を刺激された。

 ――こんな所で、氷花の悪意に屈するわけにはいかないのだ。

「坂上くんっ、どこに行くのっ?」

「職員室の隣! 茶道部の部室の、畳の部屋! あそこは、運動部の夏の合宿でも使われるらしいから、多分、あれがあるはず……!」

 一階に到着した二人は、教員兼来客者用トイレの傍を横切って、夕陽の明かりが届かない廊下の薄暗がりを駆け抜けた。こんなにも全力で廊下を走るなんて初めてだ。教師が見れば泡を食うに違いない。

 拓海はまず職員室の扉を開け放つと、壁に鈴なりにぶら下がる鍵の中から一つを掴み取った。がらんどうの室内に背を向けて、職員室と突き当りの壁に挟まれた扉を開錠してなだれ込むと、窓からの眩い西日に出迎えられた。拓海は六畳一間の和室には目もくれず、部屋に入ってすぐ左の扉へ飛び込んでいく。

「何して……あっ」

 後を追った七瀬が踏み込んだ場所は、小さなシャワールームだった。姿見の半分程度の大きさの鏡と、壁に据え付けられたシャワーが一つだけある。学校にこんな空間があるなんて知らなかった七瀬は驚いたが、拓海がシャワーでタイルの床に水を撒き始めたので、もっと驚いた。

「篠田さん、今入ってきた扉は全開にして。向こうの窓の日差しが入るように」

「坂上くん、もしかして……『鏡』を、作ろうとしてるのっ?」

 ざあああ……とシャワーの筋が、灰色のタイルを暗く染めていく。遠くの窓から零れる日差しが、波紋で忙しなく揺らめく水面に、茜の輝きを与えていた。

「もしこの方法で、移動が出来るなら。最悪、呉野さんに鏡を全部割られても、次の『学校』への道は残る! まずは、俺が試してみて……」

「ううん。試すなら、私も一緒に行く!」

 七瀬は荷物一式を抱え直し、拓海が投げ出していた通学鞄も代わりに持つと、水を打つ拓海の隣に並んだ。

「どこにいたって、危険なのは変わらないよ。だったら、一緒に行こう!」

「……分かった」

 拓海は覚悟を決めた顔で、カランを捻って水を止めた。排水溝で渦を作る透明な水溜まりが、狭いシャワールームに立つ七瀬達の姿を映し出す。

「どこかに落ちるかもしれないから、俺に掴まって。せーので行こう!」

「うん! せーの!」

 荷物を受け取った拓海の腕を掴み、七瀬達は合図と同時に、即興の水鏡へ飛び込んだが――この試みは、成功しなかった。

 ばしゃん、と派手な音を立てて、水飛沫が上がる。タイルに着地した両足に、冷えた水がうっすら染みた。二人の制服と手元もしたたか濡れて――急激に体感温度が下がった気がして、七瀬はびっくりして少しよろけた。

「ひゃっ……何っ?」

「っ……『偽物』の鏡じゃ駄目か。でも、今のは一体……。ごめん、時間をロスした。とにかく、今は移動しよう!」

 拓海に導かれてシャワールームの鏡のトンネルをくぐり抜けると、からりと乾いた同じ部屋に降り立った。「階段に戻ろう! あそこが一番、鏡が多い!」と叫ぶ声に、七瀬も「うん!」と応えて、もう一度二人で廊下を駆け抜けた。

「篠田さん。俺、分かったかもしんない」

 教員兼来客者用トイレを通り過ぎ、階段前の姿見まで戻ったところで、拓海が言った。そして緊張でやや強張った顔で、学校風景を一望した。

「ここは、やっぱり『鏡』だ」

「でもそれって、さっきも言ってなかった?」

「ううん、違うんだ。さっきも言ったけど、少し、違う。単純に『鏡』の中の世界、っていうより、ここ自体が『鏡』っていう物質そのものなんだと思う」

「ん……?」

 首を傾げていると、「それ」と拓海は言って、七瀬の持つハンカチを指さした。

「あの調理室で、鏡ってこれしかなかったじゃん。俺は、やっぱりこれがきっかけなんじゃないかって、考えてるんだ」

「それって……でも、やっぱり通れないよ。この鏡から入るなんて、無理だよ」

「出来るか出来ないかとかじゃ、ないんだと思う。篠田さん、俺、今からめちゃくちゃ変なこと言うけど、笑わないで聞いてくれる?」

 愁眉を開いた拓海は、躊躇いを振り切るように微笑んだ。

「俺はこの場所を『鏡』かもしれないって言った。でも多分、それだけじゃないんだ。鏡は鏡でも、ただの鏡じゃないと思う」

「ただの鏡じゃない? どういうこと?」

「だって篠田さんの左右が、鏡を越える度に変わるから」

 現在は左側で結われた七瀬の髪を、拓海は手の平で示した。

「容姿の左右が入れ替わっても、『外』に出られないって制約は変わらない。でも割れた鏡が復元してるから、前にいた場所と同じって考え方もおかしい。別の新しい『学校』に移動していってるのは間違いないのに、篠田さんの左右だけが、移動の度に変わってる……多分、どこまで行っても、この光景は変わらないんだ。俺達は、その鏡からここに来て、その入り口から、遠い所にいるんだと思う」

「分からないよ……! それって、何! どうなってるの!」

「合わせ鏡」

「え?」

 思わぬ言葉に驚く七瀬へ、「合わせ鏡だと思う」と拓海はしゃがれた声で、同じ結論を繰り返した。

「そう考えたら、辻褄が合うんだ。左右が入れ替わる事も。どこまで行っても『鏡』だって事も。合わせ鏡をしたら、まず一つ目に自分の顔が映って、次は後ろ姿が映る。その組み合わせが、どこまでも広がっていく……篠田さん、呉野さんに言われたんだよな? 『合わせ鏡』って。それが鍵なんじゃないかって考えたんだ」

 言われて、はっとした。

 ――『合わせ鏡』

 篠田七瀬は、鏡が怖い。それを前提にして、出鱈目にぶつけられた言葉の一つ。他愛のない怪談。呉野氷花の悪意。一之瀬葉月との会話の記憶。

 そして――その言葉を突き付けられた瞬間に、身体を巡った、あの怖気。

「……そんなのって……!」

 七瀬は、頭を振って叫んだ。拓海の言葉は、理性的とは到底言い難い世迷言だ。これほどの非現実を突き付けられて尚、現実を盾にして理解を拒絶したくなる。もし拓海の推測が当たりなら、七瀬達はとんでもない場所へ迷い込んだ事になる。

 鏡の中に。それも、合わせ鏡の中に――鏡の無限ループの中に、閉じ込められた事になる。

 それに、まだ謎は残っていた。一体何が、こんな事態を引き起こしたというのだろう。拓海の推理は結果を言い当てたかもしれないが、原因は不明のままだ。

「俺にだって分かんないけど、でもこれで合ってると思う。呉野さんが何かしたのと、あとは篠田さんの鏡がきっかけで、俺達はここにいるんだ。あの時、篠田さんの鏡で『合わせ鏡』ができたのかもしれない。俺達が今いる場所は『合わせ鏡』の中で……この場所と、この鏡の破片って、多分だけどリンクしてるんだ」

「ちょっと、やだ……でも、根拠は?」

「根拠も、さっき一つ見つけられた。篠田さん、シャワールームで『鏡』を作ろうとした時に、少しだけひやっとした感じがしなかった? 跳ねた水が、そのハンカチに掠ったからだって考えたら、筋が通る」

「あ……ほんとだ」

 薄いブルーのハンカチは、隅の方だけ濃い青色に湿っている。水の冷たさを精緻に映したのだとしたら、あの現象にも納得できる。

 だが、七瀬の割れた鏡が――この学校という『鏡』とリンクしていることが分かっても、脱出の糸口は見つからない。

「俺達は、きっと……ここのどこかに、いるんだ。篠田さんの鏡の、どこかに」

「じゃあ、どうしたらいいの……どうしたら、私達帰れるの」

 七瀬は、唇をきつく噛みしめる。

 悔しかった。理不尽だった。七瀬の世界は今朝までは普通だったのだ。友人間でのトラブルを抱えてはいたものの、最早そんなものは些事だった。放課後に、毬と会う。それを心からの楽しみと支えにしながら、胸を弾ませて登校した学校で、まさか得体のしれない場所に幽閉されて、出口の所在さえ分からない怪現象に巻き込まれるなど、予想だにしなかった。

 こうしている間にも、二人の元へ氷花の魔の手が迫っている。異常事態を引き起こした張本人と思しき少女が、学校の形を取った鏡の閉鎖空間へ、今まさに七瀬と拓海を生き埋めにしようと奔走している。七瀬は、拳を強く握り込んだ。左手に場所を変えた切り傷が、鈍い痛みで疼くほどに。

 我慢ならなかった。少なくとも七瀬は氷花の怨恨を買った覚えはないのだ。にもかかわらず氷花は一方的な悪意を振り撒き、七瀬のみならず拓海も巻き込み、二人の窮状を嗤っている。標的がたとえ自分一人でも許せないのは同じだが、迷惑を被ったのは二人なのだ。そうなれば俄然、怒りも二人分湧いてくる。七瀬はフライパンの柄を握り直し、氷花の悪意の具現であるかのような無人の学校風景を、仇のように睨み据えた。

「……脱出、するんだから。呉野さんの思い通りになんて、させないんだから!」

 震える声を絞り出すと、拓海の目に、ふ、と穏やかな優しさが灯る。そして「うん、出よう」と七瀬を労わるように、朗らかな声音で言った。

「移動を続けよう。入り口があったんだ。出口だって、きっとどこかにあると思う。呉野さんがなんで俺らの邪魔をするのか分かんないけど、逃げ切らないと」

「私達の邪魔をするのは、あの子が変態だからでしょ」

 反射で噛みついた七瀬は、拓海の腕をぐいと引いた。

「帰ろう。坂上くん。絶対、一緒に帰るんだから!」

「うん。行こう!」

 拓海が決然と言い放ち、今まさに二人で姿見へ飛び込もうと、足を踏み出した時――その音は、聞こえた。

「……?」

 小さな音だった。だが、静かな校舎だからこそ、簡単に知覚できる音だった。

 ぶぶぶ……と微かな振動が、通学鞄の生地越しに、七瀬の脇腹に伝わってくる。

 これは、マナーモードにした携帯の音だ。

 携帯……携帯?

「携帯!」

 叫んだ七瀬は、しゃがみ込むなり荷物を全て床に下ろした。「へっ? えっ? 携帯っ?」と不意を衝かれた顔になる拓海を尻目に、もどかしい手つきで通学鞄のポケットをまさぐった。

 携帯の振動は、今も切れずに続いている。この長さは、メールではないだろう。

 電話だ。今、この瞬間に、誰かが――七瀬の携帯に、電話をかけている。

 考えてみればこの時まで、携帯の存在など忘れていた。怪我の反転や鏡による怪異のインパクトが凄まじく、すっかり失念していたのだ。まともな判断力の欠落を思い知らされたが、反省は後回しだ。七瀬は探り当てた携帯を取り出した。

「篠田さん、携帯持ってたんだ……ごめん、失念してた」

「そんなの、今はいいからっ」

 忘れていた事に対する申し訳なさや引け目も手伝って荒っぽい言い方になってしまったが、とにかく今は携帯だ。しかし、携帯を見下ろした七瀬は、画面に表示された発信者番号を見て、驚くことになる。

「? あれっ?」

 知らない番号だった。首を捻っている間にも、携帯は震え続けている。既に相当待たせているはずなのに、切れる気配は全くない。悪戯ならばそのうち諦めるだろうが、これは明らかに篠田七瀬を待っている。

 出るべきか、少し迷った。だがたとえ悪戯電話であったとしても、これはようやく得られた外部との接点だ。脱出の糸口になるのなら、と不安を振り切った七瀬は、筐体を耳に当てた。

「もしも」

『篠田か!』

 大きな声が、鼓膜を貫いた。

「ひゃあ!」

 悲鳴を上げて耳から携帯を離すと、『あ、悪りぃ』と焦った様子で声量を絞る少年の声が聞こえてきた。そうなって初めて、七瀬はこの声に聞き覚えがある事に気づく。思わず、弾かれたように拓海を見た。

 ――まさか。

 信じられなかった。連絡先は交換していない。けれど、現実的な疑問などどうでもいい。それでも咄嗟には言葉が何も出て来ず、唇が少し震えてしまった。

「篠田さん、どうしたんだ?」

 只事ではないと思ったのか、拓海の表情が気遣わしげなものになる。そんな拓海にも聞こえるように、七瀬は携帯に叫んだ。

「もしかして……三浦くん? 三浦くんなのっ!?」

 拓海の目が、見開かれた。緊張と驚きと強い安堵が、瞳の奥で揺れている。七瀬と同じなのだ。胸に迫った感情が、声の邪魔をして言葉にならない。

「三浦?」と拓海が訊くのとほぼ同時に、『ああ』と携帯の向こうで、少年の声が――三浦柊吾の声が、朴訥な返事を寄越してきた。

『三浦だ。お前は、本当に……篠田なんだな……?』

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