3-16 義務
「繋がらねえっ!」
柊吾は携帯を耳に当てながら、悪態を叩き出す。
すぐに和泉から「静かに」と諌められ、隣で撫子も柊吾の腕を引いた。我を忘れていた柊吾は慌てて口を噤んだが、電話が一向に繋がらない焦りは到底抑えられるものではなかった。
「騒げば教師に見つかります。君達は既に用事が済んでいるのでしょう。部外者だと知られたら、ここから速やかに追い出されますよ」
「イズミさんこそ、いつまでもここにいられるわけじゃないですよね」
柊吾は、自分と同じく携帯を耳に当てた和泉を睨んだ。
「イズミさん、しれっとここまで来たけど、本当は呉野の保護者として来たんじゃないですか? 教師ほっぽって平気なんですか」
「平気ではありませんね。僕はもうじき、先生方の前へ行かねばなりません」
和泉は、特に焦った風もなくさらりと言った。
「それまでに片をつける気で参りましたが、もし教師が廊下を通りかかれば厄介です。その場合は陽動作戦と参りましょう。僕は大人しく教師の元に行って注意を引きつけて来ますので、後の対応は柊吾君に引き継ぎます」
ぎょっとした柊吾は、携帯を落としかけた。予想もしない展開だった。
「駄目です。イズミさんが残ってる方が、こいつらの生存率が上がります」
「柊吾君。電話は、必ず繋がります。だから焦らず待ち続けて下さい。その間に、先程の話の続きと参りましょうか」
「続き?」
「篠田七瀬さんの『弱み』の話です」
「篠田の『弱み』? まだあるんですか?」
「ええ。何せ、人の弱みは一つではありませんからね。それに幸いこの『弱み』、脱出の鍵となりそうです」
「!」
息を呑む柊吾へ、和泉は諭すように続けた。
「この脱出の鍵を七瀬さんと拓海君に伝える事で、彼女達の脱出の手助けとなるはずです。僕か柊吾君のどちらかが、彼女とコンタクトを取れさえすれば良いのです。僕がここから離脱する場合は、君にその役割を託します」
「……その『弱み』、教えて下さい」
片耳に携帯を当て続けたまま、柊吾は訊く。傍らに座った撫子も、七瀬の通学鞄を抱きしめたまま、和泉の立ち姿を見上げた。
通学鞄の中には、七瀬の携帯を放り込んでいた。柊吾と和泉からの着信による振動音を誤魔化す為だが、この行動は果たして実を結ぶのだろうかと不安が過った。七瀬の携帯に電話をかけているのだから、七瀬の携帯が着信を受けて震えるのは当然だ。意識が『鏡』に囚われたという七瀬の元へ、この発信は本当に届くのだろうか。だが、信じると決めたばかりだ。他にも救出の手段があるのなら、和泉から全てを聞くべきだ。最善を尽くす為に、七瀬の『弱み』を、最後まで。
和泉はちらと窓の外を気にすると、相変わらず
「先ほど僕は、篠田七瀬さんの『弱み』は『母親を恐れる事』だと言いましたね。ここで言うもう一つの『弱み』は、その恐怖から派生したものです」
「派生?」
「ええ。親とは最も身近な教育者です。どうやら氷花さんも既に指摘したようですが、正確には『母親が恐ろしい』のではなく、『母親の教育が恐ろしい』の方がより真に迫った恐怖でしょうね。七瀬さんは、『母親』の言葉、ひいては『教育者の言葉』に対して、礼節を持って丁重に対応するよう『教育』されています。それは彼女の『義務』として、意識に刷り込まれているのでしょう」
「……? やっぱりそれは、母親が怖いって事ですよね」
「ええ。ですが、少し違います」
和泉は、形の良い眉を下げて否定した。
「彼女が機械であるかのような説明になってしまいましたね。ただ、それがやはり彼女の恐怖です。『母親』の教育方針に逆らって、怒られるのが怖い。『母親』の命令に対応できず、叱られるのが怖い。『教育者』の言葉に服従するのは彼女の『義務』です。勿論、唯々諾々と従い続けるだけの彼女ではありませんが、『義務を果たせないのが怖い』、『人に怒られるのが怖い』という感情は、誰もが持つ自然な心の動きだと思いますよ」
「……篠田は結局、何が怖いんですか?」
柊吾は、訊いた。和泉の言葉が分からないわけではないが、その説明では合理的過ぎる気がしたのだ。
七瀬について柊吾が知っていることは僅かだが、人となりについては少ない会話から嗅ぎ取れたつもりだ。和泉の説明に悪意がない事も、非常事態なので言い方に配慮ができない事も分かるが、こんなにも人間味が削げ落ちたデータのように扱われては、少なくとも柊吾なら我慢ならない。
だが、感情論で足踏みしている暇はないのだ。柊吾が和泉ほどのストイックさで事態と向き合えていないなら、和泉にもっと端的な言い方をしてもらった方がいい。そう結論を出したからこそ、柊吾は和泉に訊いたのだが――その質問に答えたのは、和泉ではなかった。
「言いつけ通りにできなかったり、相手の期待を裏切ってしまったり……それで相手を失望させてしまうことが、怖いんだと思う」
小さな声が、聞こえた。風鈴の音のように澄んだ声だ。
和泉が、青色の目をすうと瞠った。視線に晒された撫子は、通学鞄を抱きしめて座ったまま、眠る七瀬を見下ろしていた。
「怒れられる事が、怖いんじゃなくて。それもあるんだけど、義務を果たせない事自体が、多分だけど、怖いの。ちゃんとできてない自分の事も、一緒に許せなくなるから。期待をかけた相手の事も、応えられない自分の事も、どっちの事も怒りたくなるし、そういうのって、とても辛いと思うの。相手の事も考えるから、自分の分だけじゃなくて、二人分辛い。そういう辛いこと、たくさん溜め込んじゃったんじゃないかな……って。そんな気がする」
「……雨宮」
柊吾はぽつんと呼んで、撫子の頭を見下ろす。
こちらを見上げた撫子は、少しだけ悲しそうに眉を下げると、眠る七瀬へ視線を戻し、そ、と優しく髪を撫でた。
「イズミさんの説明より、こっちの方が呑み込みやすい」
「いやはや、面目ありません。精進します」
和泉は楚々と答え、二人の女子中学生を微笑ましげに見下ろした。そして、不意に口調を改めた。
「篠田七瀬さんの恐怖は、『所有の義務』です」
――所有。先程も、一度聞いた言葉だった。
「母親から『所有』を『義務』付けられた鏡を、駄目にしてしまう事が恐ろしいのです。――『鏡を肌身離さず身に着けておく』という『義務』に、彼女は未だに縛られています。鏡がこんな有様になった今でさえ、その恐怖は健在です」
和泉が、廊下へ目を凝らす。注意深く周囲の視線を気にする目は、いつの間にか先程よりも真剣なものに変わっていた。
「七瀬さんの持つ、割れた鏡。お母様から授けられ、『所有の義務』の課された鏡。その鏡にまつわる恐怖が、彼女たち全員を『鏡の向こう側』へ繋ぎ止めています。……つまり」
和泉が、すっと歩き出す。倒れ伏したままの妹、呉野氷花に背を向けて、調理室の入り口へ、足音を立てずに歩いていく。
「割れた鏡を、三人は全員『所有』しています。まず、氷花さんが一欠片。七瀬さんを挑発する為に『奪った』鏡ですね。究極的にはゴミだと思っているのでしょうが、七瀬さんに関わる間は、挑発の道具として『所有』する気でいるのでしょう。次に、拓海君。彼もおそらくは一欠片。衣服にでも付いているのかもしれません。気づいているのか、いないのか。彼だけは『所有』の認識が曖昧ですね。一番帰還は楽でしょう。そして、七瀬さんが――残りの欠片、ほとんど全て。この『所有』の認識こそが、〝言霊〟で出来上がった『合わせ鏡』の世界のルールであり……脱出の鍵です」
その話を真剣に聞いていた柊吾は、不意に――理解が天啓のように舞い降りて、息を吸い込んだ。
「イズミさん。あいつらが帰ってくる方法って、もしかして」
「おや、聡いですね。……正解ですよ、柊吾君。君は去年より、ずっと賢くなりましたね」
教え子の成長を喜ぶ教師のように、和泉は微笑んだ。
そうして、携帯を耳から離し、操作して――ぷつん、と。接続を切った。
唖然とする柊吾と撫子へ、異国の風貌を持つ男は、嫋やかに宣言した。
「安心致しました。それでは打ち合わせ通り、陽動作戦に移りましょう。……足音が近いです。僕が教師の目を引きつけますので、君達はここで七瀬さんと連絡を取り続けて下さい」
「イズミさん!」
「大丈夫です。君が今の結論をそのまま伝えて、彼等の帰還を叶えて下さい。それが出来なければ、全滅です」
――全滅。言葉の重みが、身体に重く圧し掛かった。
「……イズミさんこそ。しくじらないで下さい。こっちに誰も来ないように」
「お任せ下さい。それでは、行って参ります」
和泉は屈託のない微笑を残し、静々と音もなく退室していく。
氷花の兄。和装姿の異邦人。灰茶の髪が赤い日差しを弾き、
ぶつん。
耳に当てた携帯から、接続の切り替わる音が、武骨に響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます