3-15 探索

「開かないっ」

 がちゃがちゃと、七瀬が昇降口の扉を乱暴に押している。だが窓同様に扉も固く閉ざされたまま、拓海達の行く手を阻んでいた。

「……駄目だ。篠田さん、他の方法を考えよう」

 拓海はそう言って、躍起になって扉へ取りつく七瀬を宥めた。正攻法の突破では不可能なのだ。極めて非現実的な考え方だが、おそらく間違ってはいないだろう。そう達観していた拓海は七瀬ほど緊迫した精神状態ではなかったが、七瀬が扉をげしげしと蹴飛ばし始めたので、さすがにぎょっとして止めに入った。

「ま、待った! そんなことしても足が痛いだけだって!」

「やってみなきゃ分かんないでしょ。っていうか、これで窓割ればいいんじゃない? 坂上くん、退いてて」

 扉と七瀬の間へ割って入った拓海を、七瀬が不服そうに睨む。そして左手に握ったフライパンを、軽くこちらへ振って見せた。剣幕に気圧された拓海は、力なく項垂れた。

「それもあんまり意味ない気がするけど……じゃあ、俺がやるから。篠田さんは離れてて」

 今日二度にわたって鏡で怪我をした七瀬が、破片が飛び散りそうな領域に立つのは心臓に悪い。拓海が促すと、七瀬はやはり不服そうな表情を覗かせたが、素直に従って拓海から距離を取ってくれた。

 それを確認してから、拓海は昇降口の扉へ向き直る。木の麺棒を野球のバットの要領で構え、一度躊躇い、その躊躇いを断ち切って、一息に振りかぶった。

 ――きんっ、と。嵌め殺しの窓硝子に叩きつけられた木の麺棒が、涼やかな音を響かせた。

「……」

 硝子に木の麺棒を打ち付けたのに、音がクリア過ぎる。それに、やはり割れなかった。拓海は一応、躊躇なく振りかぶったつもりだった。普通の硝子なら割れるか、さもなくば大仰な音が響いていてもおかしくない打撃だったはずだ。

 なのに、軽い音しかしないのは――異常な事だと、拓海は思う。

「篠田さん、行こう。やっぱり、外に繋がる扉は全滅だと思う」

 七瀬は唇を噛んで扉を睨み付けていたが、つかつかとこちらへ歩いてくると、フライパンでごんっと窓を殴った。同時にきんっと再び金属を打ち鳴らしたような音も聞こえたので、重い方の音はフライパンが立てた音だろう。やはり、窓を打つにしては音が妙だった。

「……むかつく。絶対に、ここを出てやるんだから」

 憤りのこもった声で七瀬が呟き、きっ、と拓海を見上げてきた。

「坂上くん。さっき、ここが『鏡』かもしれないって言ったよね。どうしてすぐに分かったの? 私の髪とか、怪我が反転してたから?」

「うん。それに、人がいる感じが全然しなかったから」

 むっとする七瀬の権幕に相変わらず気圧されながら、たじたじと拓海は答えた。

「多分、なんだけどさ。ここには俺と、篠田さんと……呉野さんの三人しかいないんじゃないかって思うんだ。あの調理室にいたメンバーだけが、ここに飛ばされた気がする。それに、篠田さんの髪と怪我の左右が反転したまま、俺らがすんなり帰れるとも思えなかったんだ」

「そんなことって……はあ」

 七瀬は何か言いたげだったが、己の髪と怪我を見下ろしたからだろう。重い溜息を吐いて余所見をした。

「だから、武装がどうとかって言ってたの?」

「だって、危ないかもしれないじゃん」

 拓海は決まりが悪かったので、細々と喋る。我ながら過剰反応だとは思うのだが、今後氷花と遭遇する可能性がある以上、丸腰では不安だったのだ。とはいえ、手にしたこれらの調理器具で何をするわけでもないのだが。

 ただ、拓海は思うのだ。

 おそらく、拓海達は――氷花に遭遇したら、まずい。

 それは根拠のない予感でしかなかったが、拓海には引っかかっていたのだ。氷花の待ち伏せを受けた時の、七瀬の事が。

 あの時の七瀬の状態は、明らかに普通ではなかった。

 確かに氷花の指摘は七瀬にとって辛いものだっただろうし、人には誰しも触れられたくない心の傷があるだろう。それを理解していても、拓海は呑み込みにくいのだ。後に七瀬から打ち明け話を聞いたからこそ、尚更思う。

 ――その過去は、それほどまでに辛い記憶だっただろうか?

 ――あんな風に取り乱すほどに、痛みを伴う記憶だろうか?

 そんな風に感じた拓海が、冷たいだけかもしれない。だが、どうにも腑に落ちなかった。氷花の指摘程度で、好戦的な七瀬が取り乱すだろうか。実際に、七瀬も言っている。あれは、違うのだと。辛そうに絞り出された声が、まだ耳に残っている。

 ――七瀬を、氷花に会わせてはいけない。

 使命感にも似た何かが茫漠と胸に灯り、拓海は背筋を伸ばした。

 頼りない自分に出来るかどうかは分からないが、やるしかないのだ。

 氷花に見つからないように、この学校を出て――元の学校の調理室へ、戻る。

「呉野さんに会わないように脱出できるなら、俺はできるだけそうしたいんだ。もう今日は会わない方がいいと思う。……心配なんだ。篠田さんは呉野さんと喧嘩したいだろうけど、ごめん。俺と一緒に、呉野さんを避けながらここを出よう」

「……もう、分かった。分かったってば。そんな言い方されても、困る」

 窓から射す夕日を浴びた七瀬の髪と、顔が赤い。七瀬はぷいと目を逸らし、無人の昇降口を歩いていく。拓海が後を追って隣に並ぶと、こちらを見上げてきた七瀬は、幾分気を取り直した様子だった。

「ねえ。じゃあ私達って、どうしたら帰れるの? 坂上くん、そっちも何か考えてるんじゃないの?」

「……まだ、分からない。でも、とりあえず学校の鏡を調べてみたいんだ」

 下駄箱の前で、拓海は一階の風景を見渡した。左の廊下へ進めば調理室、右の廊下へ進めば職員室へ続く廊下は、一直線に昇降口の領域を貫いている。

「篠田さん。ここから一番近い鏡ってどこだと思う?」

「鏡? ……トイレじゃない?」

 すっと七瀬が指でさす。職員室方面へ続く右の廊下の入り口に、教員兼来客者専用トイレがあった。手前が男子トイレで、奥が女子トイレだ。拓海は、少し困って頬を掻いた。

「ん……別にトイレでもいいけど、できたら別がいい」

「じゃあ、トイレのすぐ手前。階段の始まりの所と、一階と二階の間の踊り場に、姿見が一枚ずつあるから、そこじゃない? なんでそんなのが気になるの?」

「だって、もしここが『鏡』の中なら、この学校にある『鏡』がどういうことになってるのか、ちょっと気になったんだ」

 拓海が階段の方へ足を向けると、七瀬も、ととと、と身軽な小走りで付いてきた。太腿まで怪我をしているというのに、気丈なものだ。感心と同時に配慮が足りなかった自分に気づき、拓海は歩くペースを落とした。そうやって二階へ伸びる階段の手前で、七瀬と共に立ち止まる。

「ここで呉野さんと最初に言い合いになった時には、まさかこんなことになるなんて思ってなかったなあ……」

 七瀬は感慨深げにそう言って、階段の踊り場を見上げていた。

 その視線の先には、姿見があった。同じ姿見が、拓海達の隣にもある。あまり意識したことはなかったが、この東袴塚学園中等部は鏡が多いのかもしれない。何となく薄ら寒い気持ちになりながら、拓海はすぐ傍の姿見を見て――絶句した。

「坂上くん?」

 七瀬が振り向き、拓海の視線を追って気づいたらしい。目を見開いて固まった。

「……これ、ほんとに鏡?」

 七瀬がそんな風に言うのも、無理はなかった。

 階段の手前に設置された姿見は、拓海の身長よりも高さがあり、校舎一階の風景を精緻に映し込んでいる。

 しかし、対面の『鏡』は、鏡としての役割を果たしていなかった。

 階段、手すり、自動販売機、下駄箱、左側の廊下の果て――鏡像の学校風景の中に、人の姿は見当たらない。明らかな歪みを抱えた『鏡』は、拓海と七瀬の姿を透過して、背後の風景を映すのみだ。

 拓海は恐る恐る手を伸ばし、冷たい鏡面に触れた。こんこんとノックすると、澄んだ音が返ってくる。さっき窓硝子を殴った時と、音が似ていた。

「……なんで俺ら、映ってないんだ?」

「坂上くんに分かんないのに、私に分かるわけないでしょ」

 唇を尖らせた七瀬も、鏡面に指先を乗せた。それから首を傾けて「ねえ」と心細そうに言う。

「坂上くんが言うには、ここって『鏡』なんでしょ? だったら、ここの鏡を叩き壊したら、そこから脱出できるとか、そういうのって考えられない?」

「叩き壊すって……」

 拓海は苦笑したが、あながちその考えが的外れなものでもないように思え、ふと目の前の鏡を見つめ直した、その時だった。

「! わっ!」

 ずっ、と鏡に置いていた手が沈んだ。

 鏡を触る左手に、身体の重心を預けていたらしい。身体が前のめりになっていき――左腕が鏡に沈んでいくのを目の当たりにした拓海は、愕然とした。足がもつれ、支えを求めて伸ばした右手も左手の後を追う。鏡面という遮蔽物を乗り越えた両手が、鏡の向こうへ、水面に手を差し入れるかのように吸い込まれていく。

「ちょっ、坂上くんっ!?」

 七瀬の慌てた声が聞こえ、腕が強く引かれた。だが女子の腕力では無様に転んでいく男子の体躯を支えられず、七瀬の短い悲鳴が聞こえ、二人で鏡に呑み込まれてしまった。どんっ、と床に倒れ込んだ時、涼やかな金属音が聞こえた気がした。傍らに倒れた七瀬との顔の近さに、拓海は大いに狼狽えた。

「あ、ごめんっ、怪我はっ」

「それより!」

 がばと起き上がった七瀬が、背後を振り返る。その時には拓海にも、状況が把握できていた。鏡を見上げた拓海も、七瀬に倣って身体を起こし、笑った。

「……壊すのが正しいのかは分かんないけど。この学校の『鏡』って、通り道になるって考えていいみたいだ」

 姿見には相変わらず、拓海も七瀬も映っていない。

 だが、拓海の隣にいる七瀬の姿は、先程までと明確に違っていた。

 七瀬は髪を右側で結い、右手と右太腿に包帯を巻いていたのだ。『鏡』に迷い込む前と同じ、正常な立ち姿だった。七瀬も自分の身に起こった変化に気づいたらしく、驚き一色に染まった顔に、みるみる喜色が浮かび上がる。

「……戻った? 戻って来れたの……?」

「帰ろう、篠田さん」

 逸る気持ちに衝き動かされるように、拓海は言った。仄見えた希望で、目の前が明るく広がった気がした。

「本当に戻って来れたなら、扉はちゃんと開くと思う。昇降口に行くか、職員室まで行って、先生がいるか、確認、して……」

 言いながら、台詞が途切れた。

 気づいたのだ。校舎が、静か過ぎるという事に。先程までと全く同じ静寂が、場にひしひしと満ちている事に。希望の光が、吹き消された蝋燭のように冷えていく。ぬか喜びだったと、もう既に気づいていた。

「行こっ、坂上くん。先に昇降口に!」

 笑った七瀬が、小走りで昇降口に向かった。拓海が思わず「篠田さん!」と強く呼び止めると、七瀬がびっくりした顔で振り返った。

「どうしたの?」

「あ……、ごめん、でかい声だして。その……まだ、喜ぶには早い気がする」

「……?」

「一緒に行こう。まだ離れちゃ駄目だ」

 拓海は戸惑う七瀬との間に開いた距離を詰めると、二人で足並みを揃えて昇降口の扉へ向かう。そして、扉を押し開けようとした。

 ――がちっ、と。硬い音がした。

「……」

 七瀬の顔から、表情が消える。言葉を発する代わりにフライパンを持ち上げて、おもむろに窓を殴りつけた。きぃん、と耳障りな金属音が、高らかな余韻を残していく。

「……ここ、まだ『鏡』だ」

 吐き出すように、拓海は言う。

「私の髪も、怪我も……元通りなのに」

 七瀬が、悔しそうに唇を噛んだ。

「さっきの場所が『鏡』で、もし、ここもまだ『鏡』なんだとしたら……私達、どうやって帰ればいいんだろう」

「とりあえず、もう一度鏡を調べてみよう」

「また、さっきの所を通るの?」

「今度は、階段の踊り場にしよう。違う鏡を調べてみたいんだ」

 言いながら振り向いた拓海は、目を瞬いた。ハンカチを胸に抱いた七瀬の眼差しは不安で揺れていたが、目が合うと少しだけ笑ってくれたからだ。

「坂上くん、冷静なんだね。ちょっとだけ意外だった」

「そう見える? これでも怖いんだ」

 直球な言葉に動揺したが、結局本音を零して、拓海はほろ苦く笑った。

「怖いけど、でも、……そういうとこ、直さないとなって思うし」

「直す必要、あるの?」

 七瀬が、怪訝そうに言う。拓海は階段の方へ足を向けながら、少し照れ臭くなって小声で言った。

「俺、よく挙動不審って言われるんだ」

「うん。分かる気がする」

「そんなに分かりやすい?」

「うん」

 躊躇なく頷かれたので、心にぐさりと刺さった。拓海は悄然と項垂れたが、七瀬がくすりと笑ったので、少し驚いた。何となく、優しい笑い方だったからだ。

「坂上くん。私が葉月とか友達の事、色々坂上くんに話したからって、別に気にしないで。無理して言いたくないことを言わなくてもいいよ」

「え? いや、俺、別にそんなつもりじゃ……えっと、ごめん」

「どうして謝るの」

 階段の一段目に足を掛けた七瀬は、ちらと姿見を一瞥したが、拓海が踊り場のものを調べたいと言ったからだろう。拘泥せずに通り過ぎた。

「私、別に直すことなんてないと思う。別に、挙動不審の坂上くんでもいいんじゃない?」

「な、なんで……?」

「だって。そんなの、個性みたいなもんでしょ?」

 あっけらかんと言って、七瀬が振り向いた。

「まあ、最初は面白くなかったけどね。避けられてるみたいで、傷つくし。でも、ああ、この人こういう人なんだなーって分かったから、もう気にしてないよ」

「こういう人?」

「だって坂上くん、優しいでしょ。モテそうな人だなって、最初から思ってた。ちょっとくらい行動が変でも、多分みんな、坂上くんの事が好きだよ」

 びっくりしてしまい、拓海は返事が出来なくなった。七瀬がそんな風に、自分の事を思っていたとは思いがけなかった。

「……やだ、何。何か言ってよ」

 階段の半ばで呆けてしまった拓海を、七瀬がじろりと睨んでくる。横顔を、赤さを増した夕陽が照らしていた。

「……。俺、女子が苦手だったんだ。っていうか、怖かった。今もちょっと、怖いと思ってる」

「……はっ? 女子?」

「えっと、色々あって……だから、避けてたっぽい態度、色んな人に取ってたけど……ごめんな。違うんだ。悪気とかないし、反射で避けてただけだから……」

 目が点になる七瀬から、拓海は目を逸らす。詳細など情けなさ過ぎて言えないが、こんな話をしようという気になったのは、七瀬が言うように気を遣ったという理由が全てではないのだ。

 多分だが、拓海はやはり、七瀬と友達になりたいのかもしれない。単純にもっと仲良くなりたいと思ったから、自分の事を話そうとしているのかもしれない。あまりにふわふわとした動機なので自分でも上手く掴めないが、この少しだけ温かい手触りの動機こそが、拓海の素直な本心なのだ。

 そんな日常を、これからも築いていく為にも――拓海は、七瀬を無事に連れて帰らなくてはならないのだと思う。

「篠田さん、ここが『鏡』の中なら、俺らってどこからここに来たんだろう?」

「……そうだね」

 七瀬はまだ先程の話の意味を考えていた様子だったが、こちらの真剣さが伝播したのか、整えられた眉を気難しげに寄せた。

「呉野さんに、わけ分かんないことをいっぱい言われて……気づいたら、左右が入れ替わってた。気づいたら『鏡』の中に移動してたって事だよね……」

「……それなんだけどさ」

 拓海が言った時、階段の踊り場に辿り着いた。目の前の姿見も、拓海と七瀬の姿を映さずに、風景のみを映している。

「もしかしたら、だけど。俺、篠田さんの持ってるその『鏡』を疑ってるんだ」

「え? ……これを?」

 七瀬が驚いて、胸に抱くハンカチの包みを見下ろす。少し揺れたのか、しゃり、と軽い音を奏でた破片を少しだけ警戒しながら、拓海は姿見の方へ手を伸ばした。

 鏡面に手を当てると、冷たい温度だけが伝わってくる。しかし別の鏡では通過が可能だったのだ。これが鏡を模した扉だという事は、既に証明済みだ。

 軽く押してみると、拓海の手は抵抗なく、鏡にとぷんと浸かった。コップに注いだ水の表面張力が決壊するように、破られた均衡の小波さざなみが、拓海の手を包んでいく。まさに手を水に浸した時と相違ない感覚だった。指先が冷たく、水面に当たるであろう鏡面に触れた手首が、もぞもぞとむず痒い。手を引き抜くと、全く濡れていない乾いた手が、こちら側に戻ってきた。七瀬も隣で「すごいね」と呟いて、拓海の手を見つめている。

「ここの『鏡』が、別の所に繋がってるのは分かった。ここでは『鏡』が学校から学校への通り道として使えるんだ」

「それが、どうして私の鏡と関係あるの?」

「だって、俺らがいた調理室に、鏡はなかったと思うから」

 拓海は、自信がないながらも自論を述べた。

「だから、多分、なんだけど……俺らって、この『鏡』から来たんじゃないか?」

「はあぁ? ここ?」

 七瀬が、唖然の顔でハンカチを見下ろした。

「坂上くん、でも……確かに私達、姿見なら通れるみたいだけど。この鏡はさすがに無理でしょ。大きさ的に」

「それなんだよなあ……」

 拓海は髪に手をやりながら、天井を仰いだ。

 何故、拓海と七瀬はこのような場所へ飛ばされたのだろう。氷花との衝突が引き金になったのだろうが、謎があまりに多すぎた。

「坂上くんは呉野さんに会わないでって、言ってくれたけど。もしかしたら、あの子が何か知ってるんじゃない?」

 まるで拓海の思考を読んだかのように、七瀬が言う。それは拓海も一応検討していたが、結局は首を横に振った。

「駄目だ。やっぱり呉野さんは避けよう。何か知ってるかもしれないけど、危険だ。それに……また、ああなったら、大変じゃん」

 言いにくかったが、なんとか言った。さすがに七瀬も言葉に詰まっている。「でも」と声を絞り出した七瀬は、鏡像の学校風景をひたと睨んだ。

「今日は、もう呉野さんとは会わないけど。別の日に学校で会ったら、絶対に容赦しないんだから」

 氷花も、喧嘩の相手が悪かったものだ。その点においてのみ、氷花に同情する拓海だった。

「ねえ。結局今分かってることって何だっけ。状況、ちょっと整理しない?」

「えっと。じゃあ、分かってること、一つ目。『さっきまで俺らがいたのは、鏡の中』。これは、篠田さんの怪我とかが反転してるのが根拠。二つ目は、『ここも鏡の中』。ただ、ここでは篠田さんの怪我とかの反転は起こってないから、本当に『鏡』なのかどうかは、根拠がないな」

「『鏡』じゃなかったら、何だって言うの? 人もいないし、学校から出られないし。さっきまでいた『鏡』と同じだって思うのが、自然な気がするけど」

「ん、『鏡』で間違いないとは思うんだけど、確証が欲しいところだなあ……」

「坂上くんって、こういうの考えるの得意なの?」

「得意ってほどでもないけど……割と好きな方」

 突然の質問に面食らったが、拓海は頷く。

「昔からパズルとかクイズとかも好きだったし、あとは、ゲームも好き」

「あ。やっぱり。何となくゲーム脳だなって思ってた。武装とか言ってたのも、実はゲームの影響なんじゃないの?」

 七瀬が頬を膨らませて、拓海をじっとりと睨んできた。余計なことまで喋り過ぎた拓海は「ご、ごめん」と情けなく謝り、しゅんと肩を落とした。

「まあ、いいけど。坂上くんのおかげで、だいぶ助かってるんだし。じゃあ、他にも分かることは……『学校の鏡を通って移動ができる』こと?」

「うん。それが三つ目だと思う」

 気を取り直して、拓海は答えた。

「ただ……この『鏡』、どこに繋がってるんだろうなって、それがちょっと怖い。ここで何もせずに留まり続けるよりは、移動して情報収集した方がいいんだろうけど……どうなんだろうな」

「……また、別の学校があったりして」

 七瀬が、囁いた。冗談を言っている風ではなく、声音は硬いものだった。

「……うん。それを覚悟した方がいいと思う」

「ねえ。ここを通って、もし、また昇降口が閉まってたら……私達、また別の鏡を通ったらいいのかな」

「……。どこかには、出口があるんじゃないかな」

 根拠はなかったが、拓海はぽつりとそう言った。

 半分は七瀬を励ます為だったが、半分は本気だった。拓海達がここへやって来るに至った『入り口』の所在は不明だが、少なくとも『入り口』があるのなら、『出口』だってどこかにあるに違いない。

 ただ、憶測は憶測だ。自信がないままごにょごにょと呟く拓海を見上げた七瀬が、不意に小さく吹き出した。突然笑われてぽかんとする拓海をよそに、七瀬は明るく笑っていた。

「行こ。坂上くん。出口、さっさと探そうよ」

 そう言って、拓海の学ランの腕を軽く引っ張ってくる。

「私も、早く毬に会いたいし。一時間くらいで見つけようよ。出口。それで、早く三浦くんに会わないと。これ以上待ちぼうけさせちゃったら可哀想でしょ」

「……そうだよな。弱気になってごめん」

「謝ってばっかり」

 七瀬が、また笑った。近い距離で向けられた屈託のない笑顔を見ていると、肩から少しだけ力が抜けた。励ましているつもりが、励まされている。

「……うん。帰ろう。篠田さん」

「うん」

 拓海と七瀬は、笑い合った。

 どことなく温かな空気が、人気ひとけのない校舎の一角で、親密に流れた。

 怒りも焦りも恐怖も、今だけは忘れられた。覚悟を新たに、穏やかな心持ちで、二人で笑い合った時――


 こん。


 硬い音が、小さく聞こえた。

「……」

 拓海と七瀬は、そちらを見た。

 首の向きを、少し変えるだけ。それだけで、真正面にあるものが見える。

 ――姿見。階段の踊り場に据えられた、無人の校舎を映す鏡。

 そこへ、二人の視線が、そろりと吸い寄せられて、止まった。

「え……?」

 七瀬が、茫然といった様子で声を上げた。

 拓海の方は、声にもならなかった。理解を超えた現象を前に、意識に言葉は上らない。驚愕で声を失ったまま、目の前の姿見を凝視した。


 水面のような鏡を隔てた、向こう側で――その人物は、笑った。


 白いセーラー服に、紺色のスカート。紺色のソックスを履いた足に、上履きはない。長い黒髪を背中へ優美に流した少女が、姿見の向こうで笑っていた。

 朗らかで、無邪気に。嫋やかな光を目に湛えて、慈悲深く。

 にっこりと、笑っていた。


 ――呉野氷花。


 名前が意識で弾けた瞬間、氷花の立ち姿に異様なものを感じた。

 何故、すぐに気づかなかったのだろう。簡単だった。両手が後ろで組まれていたからだ。鏡の前に立つ氷花の手元が、背中に隠れて見えなかったからだ。

 その遅れは、一瞬で致命的なものになった。

 あまりに純真無垢で、淑やかな笑顔を前に、拓海と七瀬が何の反応もできずに、立ち尽くす前で――氷花の左手が、すっと動いた。

 手には、金槌が握られていた。明らかに技術室から失敬してきたと思しき、柄が茶色く重い金槌は、拓海も七瀬も技術の授業で使った事がある。

「! やめっ……!」

 見た瞬間、条件反射で声が出た。

 だが、氷花は止めなかった。

 金槌を握った両手が、頭上に振り上げられて――鏡面に叩きつけられた。


 凄まじい破砕音が轟き渡った。


 耳が壊れそうな程の轟音だった。破砕音の落雷が落ちた瞬間、白い罅が金槌の一撃を起点として、蜘蛛の巣状に走っていく。縦横無尽に走る亀裂は、まるであの瞬間に調理室の空気を変えた、氷花の言葉のようだった。一瞬にして姿見に走った亀裂が、氷花の姿を掻き消していき、その一瞬の後には盛大に爆散し、欠片が辺りへ出鱈目に弾け飛んだ。

「危ない!」

 拓海は七瀬に体当たりするようにぶつかり、床を転がる。鏡のひょうが、服に、髪に、降り注ぐ。学ランの襟から入り込んだ微細な欠片はひやりと冷たく、氷を首筋に流し込まれたような悪寒に戦慄しながら転がり続け、どんっ、と壁に強く背中をぶつけて止まった。抱えた七瀬が、腕の中で小さく呻いた。

「あははははははっ」

 声が笑っている。氷花の声だ。ばたばたと走り去る足音が聞こえ、拓海の腕の中から七瀬が跳ね起きた。

「呉野さんっ!」

「駄目だ、篠田さん! 待って!」

 鏡へ飛び込もうとする七瀬を、すんでのところで拓海は止める。左腕を引っ掴まれた七瀬が弾かれたように振り返った。

 包帯の巻かれた右手の指は、姿見に触れていたが――鏡面は、酷い有様だった。

 一面に亀裂が入り、鏡の半分が剥落してしまっている。その上残った鏡も罅だらけで真っ白にけぶり、きちんと真正面を映す欠片は僅かだった。

 ――人間を映さなかったはずの鏡が、突然に呉野氷花の姿を映し出した。

 しかし今、崩れかけの姿見のどこにも、たった今鏡を叩き割った同級生の姿はなかった。足音が聞こえた事実を思い出し、理解した拓海は叫んだ。

「呉野さん、この鏡の『向こう側』の学校にいるんだ!」

「でも、坂上くん!」

 七瀬が拓海を助け起こしながら、目に焦りを浮かべて叫び返した。

「この鏡、おかしいの! ……通れない!」

「えっ?」

「さっきは通れたのに、変なの! 手が入らないっ。いくら押しても、通れない……!」

「そんな……!」

 拓海も、急いで鏡に手を当てた。大半が剥がれ、黒いコンクリートが剥き出しになった姿見に残った欠片を強く押して、現実を突き付けられて息を呑む。

 ――七瀬の言う通りだった。先程は抵抗なく拓海の腕を受け入れた鏡は、今や全く動かない。ただの静物として存在しているだけだった。

「……割れると……通れなくなる?」

 拓海が、ぽつんとそう呟いた時だった。

 がしゃん! と耳を劈く破砕音が、今度は階下から聞こえてきた。

「! ああ!」

 七瀬が叫び、拓海も音のみなもとを振り返った。

 次は一階だった。階段の始まり、自動販売機の真正面の姿見が、まるで内側から突然破裂したかのように、大量の鏡の欠片を吐き出している。

 ――先程、拓海と七瀬が出てきた姿見だった。

 割れた姿見から剥落せずに残った鏡の一部に、特徴的な長い黒髪が翻るのを、目に留めた瞬間――本当の理解が心に押し寄せ、拓海は青ざめた。

「篠田さん! やばい! ……鏡っ! どこでもいいから、鏡のある所に行かないと、まずい!」

「えっ、坂上くんっ?」

 フライパンやハンカチの包みを抱え直している七瀬の腕を掴み、拓海は急いで階段を駆け下り始めた。普段の坂上拓海らしからぬ強引さに狼狽えたのか、七瀬が小さな悲鳴を上げて「やっ、離してっ、痛い」と懇願する。個性が逆になったかのようだった。はっとしたが、止めるわけにはいかなかった。「ごめん! でも早くっ!」と叫んで、拓海は七瀬を引っ張り続ける。

「どうしたのっ? ねえ!」

「俺ら、閉じ込められる! 呉野さんに!」

「え?」

 拓海はざっと周囲を見回し、瞬時に行先を決めて教員兼来客者用トイレへ走った。場所を選ぶ余裕はなかった。男子トイレでも女子トイレでもどちらでもいい。七瀬と拓海が通り抜けられるほどの大きさを保持しているなら、贅沢など言っていられなかった。

「この学校の鏡……っ! 『壊す』と使い物にならなくなるんだ!」

「! じゃあ……!」

 七瀬も、悟ったらしい。顔色が変わった。

 同時に、女子トイレの方から破砕音ががちゃがちゃと響いてきた。

 ――やられたのだ。

 逃げ道が狭まった事を理解して、拓海の身体に焦りがぞくぞくと駆け抜けた。

「もし、この学校の中の、通り抜けられる大きさの『鏡』、全部割られたら……! 俺達、どこにも移動できなくなる!」

「呉野さん、まさか、嘘でしょ……っ?」

 七瀬の頬に、焦りより強い怒りの朱色がさっと差した。

「私達を、この学校に閉じ込めて、どうする気なの……!?」

「行こう! こっちだ!」

 拓海は迷わず、男子トイレの扉を引き開けた。腕を引かれたままの七瀬は一瞬表情を硬くしたが、緊急事態だからだろう、抵抗を見せない足取りで拓海に続き、踏み込んだ。

 だが、洗面台の大きな鏡の前に立った拓海と七瀬は、そこで再び絶句し、立ち止まる事になる。


 そこには既に、氷花がいた。


 男子トイレに躊躇なく踏み込んで、無垢に笑う、美貌の少女がいた。

 邪気のない笑顔は、果てしなく透明なものだった。ここがどこで、一体どういう状況なのか、現実を直視する事をやめてしまいたくなるほどに、純真無垢な微笑だった。

 その手には、やはり金槌。

 無骨な鈍器が、ゆっくりと、頭上へ掲げられていく。歪な鏡の向こう側で、一切の躊躇と恥じらいを捨てた少女の手が、鏡を叩き割る為に掲げられていく。

 隣では七瀬が、顔面蒼白になっていた。そこまでして拓海と七瀬の行く手を阻む、もう何者なのかも分からない謎の少女の奇行を前に、はっきりと表情を引き攣らせて固まっていた。

 そして、それは拓海も同じだった。

「……あの、ここ、男子トイレなんだけど……」

 思わず、茫然と指摘した。

 そんな拓海の暢気さを、嘲笑うように――淑やかに笑う少女の手が、金槌を勢いよく、鏡面に叩きつけた。

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