3-14 和泉
「……なんだ、これ」
柊吾は、思わず呻いた。
隣では撫子が、小さく息を吸い込んで、口元に手を当てている。ここまで先導してきた呉野和泉だけが、唯一平然とした態度を保っていた。
「――成程。『鏡』ですか。さしずめ『合わせ鏡』と言ったところでしょうが……こうなってしまっては『
東袴塚学園中等部。一階、調理室。
和泉はここへ、一切の迷いが感じられない足取りで歩いてきた。そして開け放たれた扉に気づくや否や、早足で調理室に踏み込み、柊吾と撫子を招き入れ、扉をぴしゃりと閉ざした。
そうやって和泉が、廊下と調理室を分断している間に――柊吾と撫子は、眼前に広がった惨状に度肝を抜かれ、立ち尽くした。
――そこには、三人の人間が倒れていた。
篠田七瀬。
坂上拓海。
そして。
「呉野……!」
柊吾が吐き出すように叫んだ時、「あ」と撫子が声を上げた。
「! 雨宮!」
はっとした柊吾は咄嗟に撫子の手を引いたが、撫子は柊吾を見ずに、視点を一点に固定している。
「……。まだ、殺したいですか?」
床に倒れた最後の一人――呉野氷花の傍に立つ和泉が、悲しげに笑った。
「それもまた、一つの終わりとしては興味深いですが……いえ。僕の思い過ごしだったようですね。無礼をお許し下さい」
「……? イズミさん?」
柊吾は戸惑ったが、撫子を見下ろした途端に、了解した。
撫子は、和泉を見上げていたからだ。
「……雨宮……」
――『見えて』、いるのか。
柊吾を振り返った撫子は、心細そうな目をしている。和泉に告げられた言葉の意味が、分からないわけではないのだろう。ただ、何故それを目の前の人間から言われたのかが分からない。これは、そんな疑問の顔だった。
「……雨宮。あいつの事は、俺に任せろ」
「……うん。じゃあ、私は何も言わない」
撫子はもう一度、仰向けに倒れた氷花をひたと見下ろす。琥珀色の瞳に冷えた光が浮かんだのは一瞬で、撫子は首を横に振ると、柊吾の手を握り返した。
「君達を見ていると、何だか幸せな気持ちをもらえますね。個人的には、もっと君達のお話を聞きたいところですが、今はそれどころではなさそうです」
「言ってる割には、この状況を前に随分暢気に見えますけど」
すかさず言い返した柊吾は、床を再度見下ろした。
――三人が倒れた調理室の床は、かなり酷い有様だった。
拓海と七瀬、そして少し離れた所に氷花がいて、三者の間には大量の鏡の破片が
鏡の海に倒れる三人は、意識がなく、柊吾の目には眠っているように見えたが――ただの眠りでない事は明らかだった。
柊吾の経験が、その嫌な予感を何よりも証明している。生々しく湧き上がった怒りの感情が血液と共に身体を巡り、昨年の惨劇を、脳裏に描き出していく。
この光景だけで、十分だった。
異能の行使の有無は、確認するまでもなかった。
「だから、口を利くなって言ったんだ……!」
舌打ちした柊吾は屈み込み、折り重なるように倒れた男女を容赦なく引き剥がし、拓海の頬をばしばし叩いた。だが、その程度では全く起きそうにない。悔しかったが、何となく予想がついていた。七瀬の方は撫子が優しく揺すっていたが、こちらも駄目そうだった。
拓海と七瀬の顔に、苦悶の色はなかった。ゆっくりとした呼吸は規則的なもので、すう、すう、と軽い寝息が聞こえてくる。
しかし、これは果たして――目覚めのある、眠りだろうか。
「イズミさん。こいつら、どうなってるんですか」
「十中八九、氷花さんの仕業ですが……やはりこの子は詰めが甘い。相手を嵌めるつもりが、自分まで嵌っているようでは世話がありませんね」
和泉は、昏倒する妹を立ったまま見下ろして、冷淡な笑みを浮かべていた。
その様があまりに冷ややかで、柊吾はたじろぐ。揺するとか、声を掛けるとか、妹を起こす為の行動を一切取らない兄の姿は異様とも言えるものだったが、和泉の冷静さの理由に勘付いた柊吾は、説明を求めて立ち上がった。
「イズミさん、もしかして。こいつらがこうなった理由とか、目を覚ます方法とか、もう分かってるんですか?」
「ええ。前者は分かっています。後者も、おそらく。ですが、難しいかもしれません。――ところで、お二人とも。携帯電話はお持ちでしょうか」
「? 俺は、持ってません」
「……私、持ってる」
二人がそれぞれ答えると、和泉は「それでは撫子さん、携帯を柊吾君へ渡して下さい」と指示を出して、袴の裾を翻し、こちらへ近寄ってくる。
撫子は携帯をブレザーのポケットから取り出したが、それを柊吾に渡そうとはせず、無言のまま、和泉の顔をじっと見上げた。
当然の反応だろう。理由を示してくれなくては、従うなど無理な話だ。抗議を込めて柊吾は和泉を睨んだが、和泉は意識のない拓海と七瀬の傍に屈んで、二人の顔を覗き込んでいた。
「撫子さん。申し訳ありませんが、篠田七瀬さんは携帯を持っているはずです。僕が彼女に触れるわけにはいきませんから、貴女に探して頂けると助かります」
「……」
撫子が、和泉から少し距離を取る。表情が希薄な白い顔に、微かな警戒の色が萌した。柊吾も我慢の限界を迎え、「イズミさん」と強い語調で呼んだ。
「俺らに、ちゃんとした説明をして下さい。もう篠田の『弱み』が何なのか、イズミさんには分かってるんですよね。イズミさんから何を聞いても、俺ら、忘れるから。篠田だって、俺らが知ったなんて分かったらヤだと思う。でも知ろうとしなかったら、どうやって助けたらいいのか分かりません」
「……君はやはり優しいですね」
和泉は柊吾を見上げて微笑むと、不意に表情を引き締めて〝言挙げ〟した。
「篠田七瀬さん。彼女の『弱み』は『母親を恐れる事』です」
「母親……っ?」
柊吾は驚く。てっきり対人関係の拗れが原因だとばかり思っていたのだ。いきなり飛び出してきた家族の話に面食らったが、和泉は先を淡々と続けた。
「教育熱心なお母様の元で、規律正しく育った少女。ただし、この言い方は適切ではありません。また、それは七瀬さん自身も正しく認識しています。家族が定めた教育方針に対して反発や葛藤を抱え込む学生は、身も蓋もない言い方ですが、ごまんといるでしょうね。それを七瀬さんは自覚しています。お母様の厳しさは、ごく一般的なものであり、けして度を越したものではないのだと。――ただ。それを僕の不肖の妹、呉野氷花が言葉にすれば、一体どういう事態を引き起こすか。君なら想像がつくと思います」
「……あいつ、やっぱり最悪だ」
「この少年も、どうやら同じことを言ったようですね。今七瀬さんが一人ではないのは、とても幸せで心強いことだと思いますよ」
和泉は話しながら、拓海の学ランの襟やポケットを観察している。昏々と眠る拓海が七瀬を庇うように倒れていた事を思い出し、柊吾は少し、はっとした。
「坂上は、どうしてこうなったんですか」
「現場に居合わせたから、巻き込まれたのでしょう。それに彼は、何度か七瀬さんの鏡を拾ってくれているようですね。あるいは、この鏡が最後に割れた時でしょうか。……おそらく彼は無意識でしょうが、『鏡』を『所有』しています」
「鏡? ……所有?」
「話を篠田七瀬さんの『弱み』に戻します。柊吾君。――彼女の『弱み』は、実は一つではありません。ですが、人とは本来そういうものです。指摘を恐れるほどの『弱み』をたった一つしか持たない人間など、果たして存在するのでしょうか? 少なくとも僕は、それほどまでに強靭な精神を備えた人間を見た事はありません。そしてそれを、強靭な精神と謳う事さえ適切ではないと考えます。強さの定義とは、なかなか難しいものですね。ともあれ、この調理室で氷花さんの待ち伏せを受けた二人は、『母親』の事を突き付けられたようですが……その〝言霊〟だけでは、これほど酷い事態にはならなかったと思います」
「どういうことですか?」
「彼女は、まだ他にもたくさんの〝言霊〟を受けていますね。氷花さんの接触は二度目なのでしょう? ……言葉の悪意で串刺しにされながら、それでも貴女は、まだ、諦めていないのですね」
和泉が、憐憫と慈愛が織り交ざった顔で七瀬を見下ろす。その眼差しは初対面の少女に向けるものとは思えないほど、優しく嫋やかなものだった。
「怖い話を好まれるご学友がいるようですね。彼女から聞いた他愛のない怪談、『合わせ鏡』。その程度の『恐れ』さえ心に刺さるほど、彼女は精神的に参っていたのではありませんか? その話を教えてくれた少女とは現在、あまり良い関係ではないのでしょう?」
「あ……」
何故、そこまで分かるのだろう。以前にも思ったが、何度だってそう思う。追及したくなったが、柊吾は敢えてそれを控えた。和泉の話を遮る事で、削れる時間が惜しいのだ。一つでも多くの真実を知る為に、もどかしさは呑み込むべきだ。
そんな柊吾の葛藤に気づいたのだろう、和泉が淡く笑った。
そして、「いつか、君にも気づく日が来ます。……それを、僕が知覚できるかどうかは未知数ですが。分かる日は、必ず来ますよ」と、謎の言葉を囁いた。
何故だか、少し寂しそうな言い方だった。柊吾はその声が妙に引っかかったが、和泉は何事もなかったかのように話を戻した。
「七瀬さんは、精神的に弱っている状態でした。学校における対人関係の問題は、結構なストレスだと思いますよ。中学生は、大人からの制約も多いですしね。そんな環境の中で、親友と呼んで差し支えないほどの友人と隔たりができたのです。その辛さは、学校に通う者であれば誰であれ、想像は容易でしょう。脆さを抱えた七瀬さんは、氷花さんの前であまりに無防備です。彼女は元来好戦的な性質で、強い人ですが……君の恩師の言葉を借りるなら、強いからって人間、何でも耐えられるわけではありませんからね」
吐息をつくように、和泉は告げる。表情は柔らかいまま、瞳にだけは抜き差しならない凄みを孕んだ青色が、柊吾と撫子に向けられた。
「この現象は、『合わせ鏡』です。『母親が恐ろしい』七瀬さんが、『家に帰らなくてもいい世界』――これらの鏡の向こう側へ、三人は消えたのです」
「……ちょっと待った。イズミさん、『これら』って何?」
「言葉通りですよ。柊吾君」
白い着物の裾を揺らして、和泉は床に散らばる破片を手で示した。
「割れてしまった七瀬さんの鏡の破片と、氷花さんが七瀬さんから奪った破片。これら全てが互いを映し合いながらできた『合わせ鏡』。ただでさえ無数の破片となった個々の鏡の欠片が、出鱈目に撒き散らされた事によって偶発的に発生した『合わせ鏡』――彼等の意識は今、そんな無限の回廊に囚われているのです」
柊吾は、黙った。和泉の説明がややこしく、すぐには理解できなかったからだ。
――それは、つまり。
七瀬の鏡が、原因は不明だが、辺りへ滅茶苦茶に飛び散った。飛び散った鏡の欠片が、同じく飛び散った鏡の欠片と、氷花の持つ鏡の欠片を映し合う。そうやって出来上がった、即興で無数の『合わせ鏡』。
そこに――いるという。
七瀬と、拓海。それに、氷花が。
「おい……。そんなのって……!」
理解が及んだ瞬間、柊吾は焦りを声に乗せて和泉にぶつけた。
「イズミさん、それっ、この破片一個一個に対して、いちいち『合わせ鏡』ができてたって事ですか? 『合わせ鏡』が、大量にできたって事ですか?」
「ええ」
「じゃあ、こいつら、どこにいるんですか!」
「この中のどれかです」
最悪の回答を、和泉はさらりと口にした。
「この無数の破片によって生み出された世界の、どこか。どれかの破片同士によって生まれた『合わせ鏡』の中に、彼等はいます。……鏡が飛び散って割れた事に関しては、本当に偶発的なものなのか、疑問の余地が残りますが。何にせよ、三人が『鏡』に囚われた事で意識を失っているのは、間違いありません」
――事の重大さに、慄然とした。
七瀬の鏡は元々は手鏡だったのだろうが、最早原型を留めていない。爪の先ほどの大きさを保つ破片ならマシな方で、半分は粉塵のような有様なのだ。だがそれらを拡大すれば、鏡としての役割を果たすものがきっと幾つもあるだろう。そんなミクロの世界を含めた全てに、発生したかもしれないという『合わせ鏡』。
とんでもないスケールの話だった。ただでさえ鏡と鏡を映し合えば、虚構の眺めは無限の奥行を見せるのだ。鏡の向こうに、世界などない。『こちら側』を精緻に映すだけで、『あちら側』など存在しない。そんな柊吾の常識を超えた非常識に、どう干渉し、戦えばいいのか。今の柊吾にはまだ分からなかった。
「イズミさん。でも、篠田の鏡が飛び散って『合わせ鏡』ができたんだとしても、今は全部、欠片は床に落ちてます。向き合って『合わせ鏡』の状態をキープできてる欠片は、ほとんどないと思います」
「本当にそう思いますか? 目に見えないほどの大きさの鏡一つ一つが、本当に、向き合っていないと」
柊吾の精一杯の反駁を、和泉は希望ごと一蹴した。
「それに、一つ誤解があります。現時点でこれらの欠片が『合わせ鏡』の状態かどうかは、さして重要な問題ではありません。これは氷花さんの〝言霊〟発動時に『合わせ鏡』が起こったが故に勃発した怪現象であり、彼女達が迷い込むに至った『入り口』が発生しただけの話です。僕達が今更同じように『合わせ鏡』をしたところで、彼女達が帰って来られるわけでもないでしょう。……残念ながら。僕達は彼女達の『出口』を、用意する事ができません」
はっきりと、和泉は断言する。その言葉は事実上の敗北宣言のように柊吾には聞こえ、奥歯をきつく噛みしめた。
「何か、方法はないんですか。……今の俺じゃ、まだどうやって呉野に太刀打ちすればいいのか分かりません。だから教えて下さい。イズミさんが知ってる事を、全部」
懇願を吐き出す柊吾へ、和泉はゆるく頭を振って制してきた。
屈んだままこちらを見上げる表情は、普段と変わらず穏やかだ。緊迫した状況を忘れさせるほど悠長な笑みに、柊吾は毒気を抜かれた気分になる。
「……一説では、鏡は魂を映すとも言います。夜になると鏡面を布で覆い隠すのは、剥き出しの魂が『向こう』へ攫われるのを防ぐ為。江戸川乱歩の怪奇幻想小説『鏡地獄』でも、『合わせ鏡』について描写がありますね。文学作品に限らず、鏡にまつわる怪談や迷信は、数多く世に流布しています。――果たして、攫われた生身の魂は、突如として今までに一度も生きた事のない未知の世界へ放り込まれて、どれだけ耐えられるでしょうか? 魂が壊れずに、己の正気を保てるでしょうか? ……推測に過ぎませんが、今回の〝言霊〟によって発生した『合わせ鏡』、タイムリミットの存在を覚悟した方がいいでしょう。『鏡』に取り込まれた七瀬さんと拓海君の精神が、正常なまま維持できる時間は……おそらく、そう長くはありません。中学三年生の子供の精神が異常な環境の中で強靭さを保てるとは、僕には到底思えません。彼女達の魂が、異質な世界で擦り切れて、発狂してしまう前に、救出を急ぐ必要があります」
「は……っ、発狂っ?」
柊吾は目を剥いたが、和泉は真剣だった。冗談抜きで、本気で言っている。それが分かったからこそ、余計に食い下がらずにはいられなかった。
「それって……何ですか。篠田と坂上、どうなるんですか。気が狂うって、イズミさんはそう言ってるんですか」
「分かりませんよ。どう転ぶかは。事実は小説より奇なりと言いますしね」
明らかに気休めだった。しかも気休めである事を、隠そうともしていない。
すぐ傍では撫子も、顔色を青くしていた。穏やかに眠る初対面の少年少女と、彼等が発狂するかもしれないと告げた初対面の和装の男を、緊張の面持ちで見つめている。
「七瀬さんや拓海君の精神力に関わらず、時間をかければかけるほど、先に待つのは破滅です。もし解決までに数時間もかけるような事になれば……たとえ帰還が叶ったとしても、彼等にとっても僕達にとっても、悲しいことになります」
「……っ、どうしてそうなるって、言い切れるんですか!」
「何となく、分かるのですよ。僕は氷花さんの兄ですからね」
和泉は、何故だか悲しげに笑った。
「ただし、勝算はあります。僕の妹は見栄と体裁の為に学校の勉強をとても頑張りますが、なかなかどうして阿呆なもので。おそらくは自分の身に何が起こっているのか、まだ把握できていない可能性が高いかと」
「呉野も、その『合わせ鏡』に巻き込まれてるんですよね?」
「ええ。鏡で映し合った景色の中には、彼女の姿も映っています。つまり、タイムリミットの制約と破滅は、氷花さんにも適応されます」
「はっ? 呉野も?」
「ええ。驚くことはありませんよ? あの子も人間ですからね。発狂する時は発狂しますし、死ぬ時は死にますよ」
あっさりと、えげつない事を言う。歯に衣着せぬ言い様に柊吾は呆れたが、そんな風に呆れたことで、少しだけ冷静さを取り戻せた。和泉の説明が存外に長かったので忘れかけていたが、和泉は先程、柊吾と撫子に妙な要求をしていた。
果たしてそれは、現状の突破口になるのだろうか。疑りながら、柊吾は訊いた。
「……それで。なんで俺らの携帯が要るんですか」
「単純なことですよ。連絡を取る為です」
「誰と?」
「篠田七瀬さんとです」
「……はあっ?」
柊吾は思わず叫んだが、和泉は飄々としたものだった。
「きっと繋がりますよ。ただし、撫子さんではいけません。電話をかけるのは僕か、柊吾君の役割になります」
「……それは別に、いいですけど。たかが電話くらいで、なんで雨宮が駄目なんですか」
「撫子さんでは、無防備過ぎるからですよ」
無防備と言われた撫子が、不思議そうに小首を傾げる。柊吾も首を捻ると、和泉が優しい笑みを浮かべた。
「鏡は様々な
「……俺は大丈夫なんですか? なんで?」
ふと疑問に思って柊吾は訊いたが、「ええ、君なら大丈夫でしょう」と和泉は軽く請け負うだけで、理由については触れなかった。
「脱出の為に必要な知識を、あの三人は誰も持っていません。鏡によって閉ざされた異界で飢えて死ぬか。それとも僕の妹の悪意に屈するか。はたまた時間切れとなって、氷花さんも含めて全滅するか。どれも悪趣味で、面白くはないでしょう?」
「当たり前だ。冗談じゃない」
「もちろん。僕もです」
微笑む和泉の顔を、窓からの斜光が赤々と染め上げた。鏡のように澄んだ青い瞳には、人間離れした美貌に畏怖の念を掻き立てられた、柊吾の顔が映っている。
「僕は、これからきっと七瀬さんと会う事になるでしょう。今とはまた、違った形で。その為にも、彼女には無事に帰ってきて頂かなくては困るのです。僕は元気な彼女にお会いしたいのです。心からの笑顔を取り戻した彼女と、再びお会いしたいのです。彼女達が生きてここへ戻れるように、僕はできる限りの事をしたいのですよ。その為に、ここへ馳せ参じた心算です」
和泉の言葉は、本当に滅茶苦茶だった。到底信じられる内容ではない上に、過度な飛躍と憶測が入り混じっている。昨年の件がなかったなら、狂人の戯言として相手にしなかっただろう。
だが、柊吾は信じる。信じるしかないのだ。
――そういう〝モノ〟と戦う為に、柊吾はここにいるのだから。
撫子はまだ戸惑いの表情を浮かべていたが、先程のような不信感はそこになかった。呉野和泉の纏う博愛的とも言うべき雰囲気と感情が、撫子の胸にも届いたのだろうか。撫子はすとんとしゃがみ込むと、七瀬のスカートに触れて、それから通学鞄のポケットをぽんぽんと触った。そうして探し当てた七瀬の携帯を取り出すと、てきぱきと操作して、もう片方の手に自分の携帯を持ち、今調べたばかりの電話番号を打ち込み、立ち上がり――柊吾を、振り返った。
「三浦くん。……信じて、いいの?」
「……ああ。信じよう」
柊吾は、携帯を受け取った。
「では。――脱出劇のお手伝いと参りましょうか」
その言葉を皮切りに、柊吾は携帯の通話ボタンへ、力強く指を乗せた。
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