3-13 傷痕

 あの時、何が起こったのか。

 坂上拓海には、何も分からなかった。

 眩い光が炸裂した調理室で――七瀬の鏡が、また割れた。

 涼やかな破砕音がエコーした瞬間、空間にびしりと亀裂が入った。そんな風にしか形容できない〝罅〟のようなひずみが電磁波となって空間に走り、叩き割られた窓硝子を踏みしだく音に似たノイズを伴い、何かが重く、不穏に軋んだ。

 ――あの時、何が起こったのか。

 坂上拓海には、何も分からなかった。

 ただ、調理室が白い輝きに呑み尽くされる刹那――拓海は、見た。

 挑発的な笑みを終始崩さなかった氷花の顔が、はっきりとした驚きに染まるのを、見た。


     *


「篠田さん! しっかり!」

 声を掛けて両肩を揺さぶると、左側で結われた巻き髪がふわふわ揺れて、頬と項にゆるく掛かる。申し訳ないと思いながら頬をぱちぱち叩いたが、閉ざされた瞼は動かない。調理室の床へ仰向けに倒れた七瀬は、苦しそうに喘いでいる。呼吸が不規則なものになっていき、拓海は焦る。過呼吸になるかもしれない。

「篠田さん! 起きてくれ! 篠田さん!」

「……て」

「……え?」

「たす、け、て……いたい……痛いよ、う……」

 焦りで空回る思考が止まり、声の切なさに息が詰まる。

 七瀬は今まで、誰かに弱音を吐いただろうか? 助けが欲しい時は、誰かに助けを求めただろうか? 考えるまでもなく、できていない。保健室から調理室へ戻った時に、スカートを引っ張って怪我を隠した仕草を思い出す。混濁した意識の中で呟いた切望の正体は、やはり一之瀬葉月への執着だろうか。胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 何故だろう。今、自分を頼ってもらえないことを辛いと思ったのだ。だが、打ちのめされている場合ではなかった。拓海は無力だが、拓海に七瀬を救えないなら、せめて七瀬を診られる教師を一刻も早く連れて来るべきだ。

「篠田さん、すぐに先生、呼んでくるから!」

 立ち上がった拓海は、鏡の破片が散らばる調理室から飛び出したが――廊下を満たす異様な静けさに、不安を覚えて立ち止まった。

「……」

 窓から斜めに入る茜の光が、閑散とした廊下を照らしている。床や壁に反射した輝きは、放課後の見慣れた校舎を赤く彩り、肌寒さと生暖かさがない交ぜになった黄昏の空気を、茫洋と霧のように漂わせていた。

 ――人の気配が、まるでしない。物音ひとつ、聞こえない。

 呉野氷花の失踪を受けて、全ての生徒達は下校した。よって校舎に人気ひとけがないこと自体は不審ではないが、それにしても静かすぎる。人間の存在感が丸ごと欠損したような余所余所しさが肌に痛く、極まった静寂は耳鳴りを呼んだ。

 そんな異常な世界に身を置きながら、拓海の心は不思議と平静を保っていた。無人の廊下の果てを見つめてから、数秒で決断して踵を返す。

 ――職員室には、行かない。七瀬の元に、残る。

 おそらく、行っても意味がないからだ。拓海の予想が正しいなら、職員室も無人の可能性が高い。職員室だけでなく、二階も、三階も、校舎のどこにも、この東袴塚学園中等部には、誰もいない。拓海と七瀬、そして姿の見えないもう一人の存在を除いては。

 普通に考えれば、あり得ない思考の飛躍だろう。ゲームに影響された妄想だと馬鹿にされても仕方がないが、この考えの正しさを拓海は疑っていなかった。

 何故なら拓海は、あの瞬間に見ていたからだ。

 白い光に照らし出された、調理室で。鏡の破砕と共に空気までもが罅割れた、あの狂乱の中で。意識を失った七瀬を支えながら、拓海はその光景を瞳に焼き付けて立っていた。拓海は七瀬とは違い、はっきりと意識があったのだ。白い光が晴れた今も、こうして思考が続くように。

 そして、拓海は見た。

 あの時、鏡をこちらに振り翳していた氷花の目が、強い驚きに見開かれて――のを。

 手品としか思えない現象だった。拓海が唖然とした瞬間、万華鏡の中身をぶちまけたような鏡の欠片の煌めきが、美しい光を映し合って――床に転んだ拓海と七瀬だけが、気づけば調理室に残されていた。

 氷花は、いなくなっていた。

 そうして――校舎からも、人の気配が失せている。

 たった二人だけなのだ。離れない方がいい。それは単純に七瀬の為でもあったが、異常な状況下での一人歩きがどれだけリスクの高いものなのか、ゲームや漫画で学んでいたからかもしれない。

 そう冷静に判断した拓海だったが、室内に戻った途端に七瀬の不規則な呼吸が耳に入り、達観が消し飛んで狼狽えた。ハンカチでも湿らせて額に乗せようかと考えたが、拓海のハンカチは足元に落ちている上に、鏡の破片まみれで使い物にならない。拓海は七瀬の傍に膝をつき、覚束ない手つきで額に触れた。

 熱は、ない気がする。拓海は空いた左手で自分の額を触ったが、このやり方で熱を測っても、体温の違いは分からなかった。

 本当に、拓海には分からないことだらけだった。

 七瀬の事。氷花の事。拓海達の置かれた現状の事。答えの一端を知っているかもしれない柊吾とは、果たして合流できるだろうか。

 考え込んでいる間に、七瀬の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。苦悶の表情も和らいでいく。

 とりあえずは、大丈夫かもしれない。穏やかに上下する胸元を見下ろした拓海は安堵して、七瀬の額から手を外そうとしたが――ぴた、と。冷たい指が、拓海の手を引き留めた。

「……外さないで」

「……」

「……坂上くん。話、少しだけでいいから……聞いてくれる?」

 拓海は返事をしようとしたが、絞り出した声は掠れていて、声の形を成していない。床に倒れたままの七瀬には、そんな拓海の慌てようは見えていないようだった。拓海の手が邪魔なのだ。拓海からも、七瀬の目元はよく見えない。拓海の手に触れる七瀬の手が、互いの表情を隠している。

「……私。小学六年の時に、少林寺拳法を、ちょっとだけ習いに行ってたの。始めたきっかけは、お母さんの命令。呉野さん、なんで知ってたんだろ。うちのお母さんが、ちょっと厳しいこと」

 張りを失くした声で、七瀬は言う。淡々とした声から伝わる虚無が、拓海から声を奪っていた。相槌がなくても構わずに、七瀬は訥々と先を語った。

「昔から、いつも言われてたんだ。きちんとしなさいとか、礼儀正しくとか。そう言う風に言われる時、私、嫌だなって思ってた。思ってたけど……そんなに、気にしてなかったと思う。……だって。お母さんって、そういうものでしょ?」

「……」

「少林寺の道場、行きなさいって言われた時……面倒臭いからやだなって、最初思った。自分の身を自分で守れるくらいの強さを身につけろ、みたいなこと、言われたけど、そういうのってあんまり、ぴんと来なくて。危ない目ってなんだろうって、思ってた。……でも、行ってみたら、楽しかったんだよね。師範がすごくいい人で。子供が大好きな人で、話が面白くて。私、師範に教えてもらうの、楽しかった。毬と、和音ちゃんにも会えたし」

「……」

「でもね、辞めさせられちゃった。三か月経った時に。私があんまり楽しそうだったから、真剣にやってないんでしょ……って、お母さんに怒られちゃって。遊んでるとか、弛んでるって、そんな風に、思われたみたい」

「……そんなのって」

 拓海は思わず呻いたが、七瀬は「別に、もういいし」と素っ気なく笑った。七瀬という少女には似合わない、乾いた笑い方だった。

「結局、親にお金出してもらえるから、通える道場なんだから。お母さんが駄目って言ったら、やっぱり駄目なんだよ。最初はそんな風には思えなかったから、めちゃくちゃ反発、しちゃったけど。毬と、和音ちゃんと、師範に会えなくなるのは、寂しいって、思ったから」

「俺……納得できないよ」

 その理不尽は、ありふれたものかもしれない。どこの家庭でも一つは抱えていそうな、家族間の軋轢かもしれない。実際に七瀬も、母親とはそういうものだと言い切った。それでも理不尽だと、拓海は思う。始まりを決めたのは母親で、終わりを決めたのも母親で、七瀬の意思など、どこにも介在していない。

 決めつけられた方針の中で、それでも芽生えた、やり甲斐と楽しさ。

 それを、あっさり挫かれた。

「俺の家は、えっと……こんなの話すの、変だけど……家族、そんなに怖くないと思う。多分、暢気なんだと思う。でも、やっぱりゲームの量減らせとか、全く言われないわけじゃないし……えっと」

「……いいよ。坂上くん。私に合わせて、そんなこと言わなくても。私、お母さんの事、嫌いってわけじゃないし。さっきも言ったけど、お母さんは、そういうものなんだと思う。……道場の事、正直に言うと、根に持ってた。もっと、続けたかったし。でもね、もういいって思ってた。だって、毬にはこれからも会えるし。師範にだって、何回か会いに行ってる。だから本当に、私は……道場の事で、お母さんを恨んだりなんて、してないよ。……なのに。もう、いいって思ってたはずなのに。呉野さんに、色々言われて、なんか、一気に、たくさん思い出しちゃって……でも、こんなの、違うの」

「違う?」

「違うの」

 拓海の手に触れた、七瀬の手が震えた。

「……怖くなんてないのに。なのに、お母さんの事が、すごく怖くなった。おかしいよね。怖がる理由なんて、ないのに。なのに、呉野さんにそれを言われた時に、ぐちゃぐちゃになって、頭が、真っ白になって……お母さんの事が、すごく怖くなったの。……そんなわけ、ないのに。なんであんなに、怖くなったのか分かんない……おかしくなるって、思った。あのまま、考え続けてたら、私、何するか、分かんな……」

「篠田さん、もういい。もういいから」

「違うの……。あんなの、違う……。怖くない、怖くない……」

「……うん。怖く、ないよ」

「……」

 拓海は迷いながら、七瀬の頭に手を乗せる。拙く髪を撫でると、小さくしゃくり上げる声がした。

 今まで、碌に会話をしてこなかった少女。苦手だと、避けていた相手。その相手が今、泣いている。拓海に傷を曝け出し、混ぜ返された感情で傷つきながら、心を鎮める為に切々と、息を殺して泣いている。

 ――友達でも、ないのか。

 柊吾の台詞が、耳に残っている。残って、当然だった。それは、公然と気遣おうとせずに、苦手意識で誤魔化してきた拓海の引け目だからだ。傲慢だと分かっていても、拓海はこのすれ違いが寂しかった。ただ、優しくしたかった。それだけが、今の拓海の思いの全てだった。

 すすり泣く声だけが流れる沈黙の果てに、七瀬が「ごめん」と囁いた。顔は見えないままだったが、それが今の互いにとって、必要なことに思えた。

「坂上くん。そういえば、呉野さんは……?」

「ここにはいないよ。どこかにはいるはずだけど、今は安心していいと思う」

「……そっか。分かった」

 そう言って、七瀬は額に乗った拓海の手を、躊躇いなく握って退けた。拓海は動揺したが、七瀬はあっさりとしたものだった。目元がやや赤いものの、不機嫌そうに天井を睨んでいる。

「……私。呉野さんが許せない」

 静かな声音だからこそ、声に押し込められた怒りが、拓海には手に取るように分かった。

「篠田さん、身体は大丈夫?」

「うん。もう平気。泣いたらすっきりしたし」

 七瀬は上体を起こしたが、周囲に散らばった鏡の破片に気づき、びっくりした様子で身を引いた。拓海は「動かないで」と声を掛けて床にハンカチを広げると、小石のような破片を拾い始めた。

「……今日は、坂上くんに鏡を拾わせてばっかりだね」

 七瀬が、笑った。赤い目のままだったが、自然な笑顔を見て心が解れた拓海は「気にしないでいいって」と答えながら、破片をてきぱき拾っていく。七瀬も手伝おうとしてくれたが、また怪我をしてはいけないので片手で制した。元通りハンカチに包んで差し出すと、受け取った七瀬がぽつりと言った。

「鏡って、捨てる時に、塩をかけたりするでしょ」

「うん?」

「……朱色の、割れちゃった方の鏡」

 ハンカチを寂しそうに見下ろした七瀬が、何かを懐かしむように眉を下げた。

「毬柄だったんだよね。綺麗で、ちょっと豪華で。この鏡をお母さんに貰った時、私……気後れしちゃったんだ。今だって、こんなに高そうな鏡を私が持ってるの、おかしいって思うし。毬とか葉月の前でしか、使わないようにしてた」

「……そっか」

 一度目に拾った時から、拓海も朱色の鏡の装飾には気付いていた。散りばめられた螺鈿らでんの煌めきが繊細で、七瀬が人前でそれを使いたくないという気持ちは、何となくだが理解できる。

「毬が、教えてくれたんだよね。お母さんの鏡を、見られちゃった時に。鏡が割れた時の作法みたいな、そういう迷信」

「塩をかけて、捨てるってやつ?」

「うん。ああ、葉月も言ってたかな。あの子、怪談が好きって言ったでしょ? 鏡のお話とかも、色々聞かされたんだ。鏡って昔から、神聖なものって言われてるらしいんだよね。神社でもお祀りしてる所って多いみたいだし、昔は祭事にも使われてたんだって」

 遠い目で、七瀬は記憶を辿っている。垢抜けた少女から聞かされた古風な話に拓海は驚いたが、その驚きはごく軽いものだった。拓海は七瀬の事を何も知らなかったが、今は少し違ってきている。「うん」と頷くと、七瀬は窓の外を見上げた。白んだ青空に泳ぐ雲が、茜色に燃えている。夕空を瞳に映し取った七瀬の顔は、今までに見たどんな顔より大人びて見えた。

「そんな風に、昔から霊力があるって考えられてきたから……鏡の向こう側には別の世界が映ってる、とか。合わせ鏡をしたら前から四番目に死んだ人間の顔が映ってる、とか。そういう怖い話がいっぱい生まれる下地になったのかもしれない……みたいな、そういう雑談。それを確か、毬に話した時だと思う。――毬、お葬式みたいだねって言ったの。鏡に塩をかけて、捨てる事。塩で清めて、ありがとうってお礼を言って。礼儀を尽くして送り出すのが、何だか生きてる人間を相手にしてるみたいに丁寧で、きちんとしていて素敵だね、って」

「……一之瀬さんも、同じようなことを言いそうな気がする」

「坂上くん、葉月の事を知ってるの?」

「ううん、あんまり。でも、一年の時にクラスが一緒だったから。何となく分かる」

「そんな坂上くんでも分かるのに、なんで私は、葉月を避けちゃうんだろうね」

 七瀬が、ふ、と笑った。疲れた微笑だった。

「葉月と私、初めて会ったのって、中学二年の時じゃないんだ」

「そうなんだ?」

「うん。顔は小学生の時から知ってた。初めて顔を見た時も、調理実習だったっけ。四年生の、調理実習の時に……ん……コスタリカだったかな。外国の文化とか、料理を勉強する授業で、ココナッツ味のカップケーキを作ったんだよね」

「へえ? いいな。そういう授業」

 素直に羨ましくてそう言ったが、七瀬の表情は明るいものではなかった。薄っすらと漂うやるせなさを察し、拓海は黙り込む。

「……焼き上がったカップケーキを取る順番は、班ごとにじゃんけんで決めたの。オーブンからは甘い匂いがしてて、生地が目の前でふかふかに膨らんでいくのを、皆で見てて。じゃんけんで勝った子から、好きなカップケーキを選んでいく。大きいのはすぐになくなって、小さいのばっかり残ってた。でもね、オーブンで一度に焼けるカップの数は決まってたから、時間を置いて、もう一回焼いたんだよね。先にじゃんけんで勝った子達は、一回目の焼き上がりの中で、大きいものと小さいものを振り分けられて、二回目の焼き上がりを見守ってた。二回目の焼き上がりは、じゃんけんで負けた子達が選んでいく。その中には、一回目の焼き上がりの時よりも、大きいカップケーキもあったんだ。それに気づいた勝ち組の子が、言ったの。……『じゃんけんで負けたくせに、大きいカップケーキを選ぶのはずるい。小さいものから選べ』って」

「……そんなの、言いがかりじゃん。今の話だと、じゃんけんは順番を決める為のもので、大きさを決める為のものじゃない。それ、変だ。おかしい」

「うん。私もそう思ったから、変だって言った」

「えっ」

「言ったら、大食いってからかわれちゃった。だから、喧嘩になった」

 大したものだが、七瀬の無茶にはひやひやさせられる。賞賛と呆れと心配が織り交ざって複雑な表情になる拓海へ、「なーんか、さあ」と呟いた七瀬は、膝を抱えて天井を仰いだ。

「それ以来、調理実習、嫌いになっちゃった。坂上くん、私に『小さいものを選べ』って言ったの、女の子だったんだ。結構、気の強そうな子。でもね、私の事は別にいいんだ。喧嘩は怖くないし、言い返せるから。……でも、こんな風に攻撃された時に、ちゃんと言い返せない『大人しい』子は、どうやって身を守ればいいの?」

 七瀬の強い眼差しが、拓海を捉えた。姿の見えない敵に、傷一つ与えられないことを、悔しがるように。あるいは、それでも抗おうとするように。

「その何日か後に、私は別のクラスが同じ調理実習をやってるのを見た。偶然、同じ光景を見たの。葉月が何も言えないで、オーブンの前で俯いてるの、見ちゃったの。……私。多分。あの時から。葉月とすごく話したかったんだと思う。悪口が言いたかっただけかもしれないし、言い返せばいいじゃんって怒りたかったのかもしれない。分かんないけど、とにかく話したかったんだ。葉月の事がすごく好きになるきっかけって、ああ、ここだったんだなって思うんだ」

「……」

「さっき、毬の話をした時に、坂上くんは葉月も同じことを言いそうだって言ったでしょ。……坂上くんの、言う通りだと思う。毬も葉月も大人しくて、でも話してみたら楽しくて。ただ周りの目が少し怖いだけで、二人とも少しだけ、自分に自信がないだけで。繊細だし、私みたいに喧嘩なんてしないしね。毬は、葉月に似てると思う。さっき話した和音って子とは、今日は会わないんだけど……私、本当はあの子の事、少しだけ苦手だった。何となく、笑顔が作り物っぽくて。だから私は毬が好きで、毬が好きって言ってる和音ちゃんは苦手だって思ってたけど……そういう理由じゃ、ないんだと思う。私が和音ちゃんの事が苦手なのは、和音ちゃんに嫉妬してたからかな。毬とのメールだって、そう。後半、和音ちゃんの事ばっかだし。……妬けちゃうよね。今日会うのは私なのに」

「……」

「葉月の事だって。私は……クラスのあの子達に、嫉妬してたのかな」

「そんなこと、ないと思う」

「どうして、そう思うの」

「付き合いの長さが、クラスの子とは違うから。篠田さんと一之瀬さん、去年から仲良かったじゃん」

「それって、関係なくない?」

「そんなことないって」

「……坂上くんって、優しいね」

 初めて向けられた揶揄混じりの声は、拓海にとって棘ではなく、脆い虚勢にしか見えなかった。痛ましさが胸に迫り、拓海は躊躇いを断ち切り、声に出した。

「……好きなら、一緒にいればいいじゃん」

 かつて一度、七瀬に拒絶された言葉だった。だが拓海がここで諦めたら、葉月との交友を狭めた七瀬と同じになる。一度駄目だったくらいで挫けたら、七瀬はまた傷つくと思った。幾度となく傷ついてきた七瀬が、これ以上傷つくのは嫌だった。それは悲しいことだと、拓海はやはり思うのだ。

「一之瀬さんも、篠田さんと話したいと思う。なのに、話さないで避け合うのって……寂しいじゃん。俺が友達に、そう言う風にいきなりされたら、なんでって思う。せめて納得できるように、話したいから……えっと……」

「……。学年、上がった時に」

「……え?」

「三年になった時に。私、葉月と同じクラスで嬉しかった。でも、葉月は違う友達を作ってた。……それは、別にいいんだ。私が怒るのも変でしょ? だから、私は怒ってない。正直面白くはなかったけど、怒ってはなかった」

 七瀬の目が、拓海を睨む。だが、拓海を睨んでいるのではない。拓海を透かせて、別の人間を睨んでいる。

「葉月に新しくできた友達を紹介された時に、私はその子達から、派手で怖そうみたいな目で見られちゃった。こんな理由で今まで葉月を避けてきたけど……坂上くん。私、なんで怒らなかったんだろうね」

「なんでって……」

 拓海は、目を瞬かせる。そして、それがさして重要な質問だとも思わないまま、感じたことをそのまま述べた。

「理由は分かんないけど……怒っていいと思う。それ」

「……本当に?」

「うん。ひどいじゃん。ちょっとくらい文句も言いたくなるよ。っていうか、言っても怒られないと思う」

「……そっか。うん。そうだよね。……なんで、できなかったんだろうね」

 頷いた七瀬の瞳に、好戦的な光がきざした。窓からの斜光が虹彩の溝さえも鮮明に描き出していき、澄んだ鏡のような輝きから、拓海は目が離せなくなる。

 ――初めて見る顔だった。

 一ノ瀬葉月と話す時の、溌溂とした顔とも違う。こんなにも生き生きしている七瀬を見るのは、本当に初めての事だった。

「……ありがと。みっともないとこ見せて、ごめんね」

 七瀬が、ぴょこんと弾みをつけて立ち上がった。短く折ったスカートが広がり、左太腿に巻かれた包帯だけでなく、体操着の半ズボンまで見てしまった拓海は慌てたが、七瀬は気づいていないのか、くるりと身軽に振り返った。

「行こっか。三浦くんをすっごく待たせちゃってるから、謝らなくちゃね。心配してくれてるのに、悪いことしちゃった」

 そう言って笑った顔は、普段の篠田七瀬そのものだ。何かを吹っ切った事を予感させる、晴れやかで、勝気そうな笑み。拓海が苦手だと思う女子生徒全般に通底する、何らかの自信に裏打ちされた、強気の笑み。

 拓海の知る篠田七瀬が、たった今、帰ってきたのだ。

「……おかえり。篠田さん」

 思わずそう言ってから、妙な台詞を口走ったと気づき、顔面が火照った。拓海は「ごめん」と言いかけたが、七瀬が答える方が早かった。

「ただいま」

 温かい沈黙が、ドーナツの甘い残り香と、緩い日差しの熱と溶け合って、調理室に流れる。言葉はもう要らないのかもしれない。それでも拓海は温もりに手を引かれるように微笑んで、同じ台詞をもう一度言った。

「……うん。おかえり」

 さすがに七瀬も、二度目は照れ臭いものがあったらしい。横顔を日の光に赤く照らされながら俯くと、「早く行こ」と言って廊下へ出ていこうとする。その行動を見て、拓海は自分達の置かれた現状を思い出した。

「あ。……それなんだけど、ごめん篠田さん。ちょっとだけ待って」

 立ち上がった拓海は七瀬を呼び止めると、廊下ではなく、黒板の隣、調理準備室へ続く扉に向かった。教師に借りた鍵で開錠すると、教室の三分の一ほどの広さの空間にずらりと並んだ棚に出迎えられた。今日の六時間目にも出入りした場所なので、何がどこに置いてあるのかは把握している。

「何してるの?」

「うん、ちょっと気になって」

 調理準備室に入ってきた七瀬に答えながら、拓海は抽斗ひきだしを片っ端から開けていき、収められた物を長机の上に並べていく。七瀬がサイドで結った巻き髪を左手で払いながら「ほんとに何してるの……」と怪訝そうに訊いてきたので、拓海は決まりの悪さを覚えたが、正直に答えた。

「えっと……武装した方がいいんじゃないかな……って、思って」

「はあぁ?」

 七瀬が口をへの字に曲げた。元気を取り戻してくれたのは嬉しかったが、そんな反応をされてしまうと、拓海としては少し怖い。「ご、ごめん」とへどもどしながら謝ったが、手を止めるつもりはなかった。七瀬の呆れの目を気にしながら、拓海は取り出した物達を見下ろした。

 フライパン。麺棒。ナイフ。フォーク。鍋。布巾。マッチ箱。

 包丁の類は見当たらなかった。鍵付きの棚にあるはずだが、さすがに見つかったとしても持ち出すわけにはいかない。ナイフも同様だ。洒落にならない。

 備品を一通り吟味した拓海は、マッチ箱を学ランのポケットへ放り込んだ。使い道は思いつかないが、何もないよりは心強い。続いて麺棒とフライパンを両手に持つと、いよいよ妙な顔をしている七瀬に「どっちがいい?」と訊いてみた。

「坂上くん、説明もなしに選べって言われても困るんだけど」

「ごめん、でも俺にもまだ現状がよく分かってないし、丸腰じゃ不安だから。要らなかったら、後で返しにくるから」

「……何と戦う気でいるの」

 上手く説明できない拓海へ七瀬はつかつかと歩み寄ると、迷いのない手つきでフライパンを選んだ。重さの軽い方を渡すべきだと密かに考え直していた拓海は鼻白む。七瀬の氷花への怒りは相当に根深いようだ。

「説明、歩きながらしてよね。もしかして、呉野さんがいなくなってる事と関係あるの?」

「うん。多分だけど俺、ここに人がいない理由が分かったと思う」

「人がいない?」

「こっちに来て、篠田さん」

 拓海が床に落ちていた通学鞄を拾って廊下に出ると、七瀬も通学鞄を提げ直してから左手にフライパン、右手にハンカチの包みを握って付いてくる。その姿を待ってから、拓海は窓に近寄った。

 グラウンドを臨む窓は、薄っすらと拓海と七瀬を映している。拓海は校舎の内と外とを隔てる境目、鈍色の鍵に手を掛けたが――反応は予想通りだった。

 ――がちっ、と重い手応えが、音とともに返ってきた。

 指先に力を込めても、鍵は溶接されているかのように動かない。七瀬が、隣で息を呑んでいた。拓海も自分でやっておきながら、内心かなり驚いていた。説明の手間が省けたこと自体は嬉しく、七瀬からの変人を見る目からも救われたが、確固たる現実として突き付けられた非現実をどう受け止めればいいのか、覚悟のできていた拓海でも難しかった。

「坂上くん……これ、どうなってるの?」

 七瀬がフライパンを右手に持ち替えて、自由になった左手で窓の鍵に挑んだが、びくともしなかったらしい。むっとした様子で鍵をぎゅうぎゅう押し始めたので、拓海は慌てて「手が痛いだけだって、やめた方がいいよ」と止めに入った。

「何、これ……、なんで開かないの……?」

「……そういうものなんだと思う」

「そういうもの、って……、なんで、坂上くんは冷静でいられるのっ?」

 信じられないと言わんばかりに抗議した七瀬が、左手で拓海の腕を引いた。

「ねえ。昇降口に行こう。出られるか試さなくちゃ」

「うん。でも、多分窓と同じだと思う」

「どうして?」

「どうしてって……窓が駄目だったら、出入り口は全部駄目なんじゃないかなって、思うけど……」

「もう、暢気! とにかく、昇降口に行こうよ。確認する前から、無理なんて言わないで」

「篠田さん。あの、さ……変な質問、なんだけど」

 拓海は、観察眼は優れている方だと思う。長いゲーマー歴の為せる技なのか、覚えておいた方がいい説明や情報等は、割とすんなり頭に入る。

 ここに来た時から、気がついていたのだ。この論理の飛躍は、拓海がゲーム脳だからという理由だけではないのだ。

 根拠は、ある。確かなものが、一つある。

 そして、それを裏打ちするように――七瀬が今、拓海の腕を引いた。指に包帯が巻かれた左手を、拓海は見下ろした。

「篠田さん。今、左手で鍵を触ってたけど……右利き、だよな?」

「……。え?」

「席、隣だし。文字を書く時、どっちで書いてたっけって思い出したら……右だなって、思った。……今、左手を使ったのって、無意識なんだよな」

「坂上くん……?」

「あと、ずっと言おうって思ってた。篠田さん…………髪」

 拓海は唾を呑み込むと、セーラー服の襟にかかった髪を真っ青な顔で見下ろす七瀬へ、おそるおそる、指摘した。

「さっきまでは、右側で括ってたよな。呉野さんに、何か言われるまでは。でも、その後で、鏡が光って……呉野さんが、目の前からいきなり消えたんだ。俺と篠田さんはその時に転んだけど、起き上がってみたら、篠田さんの髪型の左右が、入れ替わってた。指と、足の怪我も、元々は右側だったのに……今は、左だ。……確認はまだ、できてないけど、多分」

 拓海は、言った。

「ここって……『鏡』なんだと思う」

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