3-12 偽名

 その瞬間――きんっ、と澄んだ音が、七瀬の手元から響き渡った。

「……!? 危ない!」

 拓海の声が耳朶を打つのと、手に痛みが走ったのは同時だった。七瀬が両手に乗せていたハンカチの包みを、拓海の手がはたき落としたのだ。

 包みが吹っ飛び、布越しでもはっきり分かる破砕音が木霊する。落下の軌跡ににび色の輝きが散ったが、ハンカチの結び目が強固だったからか、中身はほとんど飛び散らなかった。拓海は七瀬の手からハンカチを叩き落とした格好で固まり、恐怖の形相で足元を見下ろしている。

 たった今、七瀬の手の平で、蠢いた感触を残した――三度目の爆散を見せた鏡を、見下ろしている。

「あ……ごめん! 手……!」

 はっとした顔で青ざめた拓海へ、「ううん、いいから。……それよりも」と答えた七瀬は、落ちたハンカチの包みを拾い上げた。割れた鏡が、風鈴のようにしゃらしゃら鳴る。七瀬は気力を振り絞り、今の怪現象を言葉にした。

「……勝手に、割れたよね?」

「うん……そう、思う」

 その時、職員室の扉が開いて、中から教師が現れた。教師は指示に従わずに居残った生徒達を睨んだが、呉野氷花の関係者だと気づいたのか、毒気を抜かれた顔になる。七瀬を庇うように前へ出た拓海が「調理室に忘れ物をしました。すみません。鍵を貸して下さい」と掛け合ってくれている声を聞きながら、七瀬の頭の中は先ほどの鏡の飛散と、知ってしまった歪な情報でいっぱいだった。

 ――七瀬の鏡が割れる時、そこには氷花の存在があった。

 指を切るきっかけになった一度目だけはいつ割れたのか特定できないが、二度目は太腿を怪我した時で、三度目は今だ。そういえば、鏡は〝身代わり〟だと聞いた事がある。凶事や不幸の前触れに、それらを代わりに引き受けて割れるという。この鏡の破砕は、まるで見えない『悪意』を七瀬の代わりに引き受けて、引き受けきれなくなって壊れたかのようだった。

 その『悪意』の名を、七瀬は思う。

 呉野、氷花――あるいは、キョウカ。

 ――誰!

 心の中で絶叫した。そんな人間は知らなかった。もし拓海が鏡を叩き落としていなかったら、七瀬はまた怪我をしただろうか。だが、分からない。怪我は結果的にそうなっただけで、割れた鏡に悪意はないと信じたい。

 では、何故、割れた? 氷花の所為で?


 そもそも――氷花という人間は、本当に、実在するのだろうか……?


 疑心暗鬼に囚われかけた時、「行こう。篠田さん」と拓海が言ったので、はっとした。拓海の右手には、調理室の鍵がある。七瀬が茫然としている間に、無事に借りられたようだ。

「うん、ごめん……」

 頷いたが、足が動かなかった。拓海は七瀬が動かないのを見ると、こちらの顔色を見て息を呑み、やがて躊躇いながら、七瀬の腕を掴んだ。

「行こう。……早く終わらせて、三浦の所に行こう」

「……うん」

 七瀬は拓海に引き摺られるように職員室を後にしたが、二人で歩いていても、不安と恐怖に歯止めが利かなかった。ハンカチの包みを胸に抱いた七瀬は「坂上くん」と問いかける。

「呉野さんって、氷花じゃなくて、キョウカって名前かもしれないの?」

「ん……そうみたいだな」

「ねえ、そんなことって、ある……?」

 七瀬は訊く。近づいてくる調理室の扉を視界に捉え、早足で歩く拓海を見た。

「名前、嘘ついてるってこと? 実際の名前と、違う名前を名乗ってるの? ねえ、そんなことって、学校に通ってて、本当に通用することなの……?」

「……ごめん。俺にも、分かんないよ」

「でも、じゃあ、何? あの先生の話が正しくて、呉野さんが本当は〝キョウカ〟なんだとしたら……氷花って、何? ……ねえ」

 調理室の前で立ち止まり、震える声で、七瀬は言った。

「呉野さんは……何? あの子は、一体、誰なの……?」

「篠田さん、考えちゃ駄目だ」

 拓海は調理室の鍵を引き戸の鍵穴に突き立てると、七瀬の目をきちんと見た。優しげな面立ちが、緊張で強張っている。とにかく七瀬を安心させようと、心を砕いているのが分かる顔だ。

「俺も、怖いよ。でも、今は考えちゃ駄目だ。早く学校を出よう。……それで、呉野さんには悪いけど。今聞いた事を、三浦に話そう。皆で話し合って具体的にどうなるのか、俺にもまだ分かんないけど、このままでいるよりは、絶対にいいはずだ」

 懸命な語りに耳を澄ませて、七瀬はハンカチの結び目を握りしめる。

 こんなことになって尚、鏡自体に恐怖はなかった。ずっと身に着けていたものを、怖いと思うわけがない。曲がりなりにも、大切にしてきたのだ。拓海の気遣いが、徐々に緊張を和らげていく。七瀬は冷静さを取り戻し始めたのを実感し、細く息を吐いた。そうして拓海を安心させる為に、薄く笑って見せる。

「……うん。取り乱してごめんね。もう平気」

「ん。……そっか」

 愁眉を開いた拓海が、鍵を回した。錠の外れる音がしじまに響き渡り、七瀬は周囲から人影がすっかり消え失せている事に気づいたが、もう心細さはなかった。

 認めたくはなかったが、七瀬は弱っていたのだろう。葉月の事があって、少しずつだが精神的に消耗していた。そんな中で唐突に怪我をして、異常な状況へ巻き込まれていくうちに、蓄積していた辛さが心から溢れ出しかけていた。

 一人では、ないのだ。拓海が、一緒にいてくれる。

「……坂上くん」

「うん」

「ありがとう」

「……俺、何もしてないよ」

「そんなこと、ないよ」

「……日誌を回収して、職員室に返して、それで早く、三浦の所に行こう」

「……うん」

 ささやかな言葉を交わして、笑い合った。不思議と、満ち足りた気分だった。

 拓海の手が、立てつけの悪い扉をぐいと引っ張る。がたりと軋んだ引き戸が、何かに突っ掛ったような大仰な音を立てながら、ゆっくりと、開いていって――


「……そう。やっぱりあんた達、三浦柊吾と結託しているわけなのね?」


 突然の声と同時に、前方から鋭利な輝きが、閃光のように走った。

「!」

 茜色の光が眼窩を突き刺し、目が眩んだ七瀬は瞼を閉じる。視界が赤黒い闇に染まる間にも、声は聞こえ続けていた。

「貴女達は……兄さんの差し金なのね」

 凛と澄んだ、聞き覚えのある少女の声。

 ――呉野氷花の、声。

 気づいた瞬間、七瀬は瞼を無理やり開けた。そして、外光の照り返しで銀色に輝く流し台の並んだ、無人の調理室に――その姿を見つけた。

「呉野さん……!」

 七瀬は呻く。視界の真正面、調理室の窓際に、呉野氷花が立っていた。

 白いセーラー服に、紺色のスカートとソックス。上履きはやはり履いていない。七瀬が見失った時と全く同じ姿をした黒髪の少女は、瞳に爛々と憎悪を滾らせ、戦闘犬のように獰猛な殺意を全身から放ちながら、七瀬と拓海を見つめていた。

 不意に、氷花の手元が動いた。白い手に握られたものを突き付けられた瞬間、眩しい光が、ぱっと閃き視界に踊る。

「!」

 二度目の光の攻撃から、七瀬は腕で顔を庇った。目を眇めて様子を窺うと、氷花が鏡の破片を手にしていて、七瀬達の背後の廊下から入る太陽光を反射しているのだと気がついた。

 ――七瀬の鏡だった。氷花に奪い去られた、七瀬の鏡の欠片だった。

 頭に血が上ったが、その時拓海が、すっと七瀬の前に進み出た。氷花の視界から、七瀬を隠そうとするように。

 そんな動作を見た氷花が、ふと真顔になる。そして、にやりと意味深に、放課後の静寂の中で笑い始めた。

「……何の、用だよ。呉野さん」

 拓海が、震える声で言う。こういった恫喝めいた言葉に、拓海は慣れていないのだろう。七瀬の為に無理をしているのは明らかだった。そんな虚勢に気づいたのは七瀬だけでなかったのか、「あはははは」と氷花は神経を逆撫でする声の高さで、拓海の体たらくを嘲笑った。

「坂上君、ね。貴方、本当に邪魔だわ。篠田七瀬と一緒に殺してやりたいくらい。でも、さすがに名前しか分からない奴をどう破滅させたらいいのか、この短時間じゃ掴めないでしょうね。それとも、貴方の弱みは『篠田七瀬』なのかしら?」

「……っ? 破滅っ?」

 拓海は強張った顔で復唱したが、その戸惑いを氷花は無視して、七瀬に笑みを向けてきた。七瀬も、氷花を睨み返した。

「破滅って、何? 呉野さん、やっぱ頭おかしいんじゃないの? あと、あんた偽名を使ってるんでしょ。もう知ってるんだからね。呉野さん、あんた一体何者なの?」

「偽名? 篠田さん、何を言っているの?」

 氷花は傑作だとでも言わんばかりに、けたけたと笑い出した。

「私は呉野氷花よ? 他の誰でもないわ。妙な言いがかりをつけて時間稼ぎでもするつもり?」

「とぼけないでっ」

 七瀬は拓海の前へ進み出ると、調理室へ踏み込んだ。「篠田さんっ」と拓海が呼び止めてきたが、もう怒りを我慢できなかった。鏡を廻る怪現象が本当に氷花の所為なのかは不明だが、氷花は今も七瀬から奪った鏡をちらちらと振り翳している。その姿だけで悪意の存在を確かめるには十分であり、七瀬にとっては喧嘩の理由として十分なのだ。

「あんたは、私を殺すって言った。でも、理由なんてないんでしょ? ターゲットは適当に選んでるって、さっき聞いたんだから!」

「……三浦柊吾ね」

 氷花の目に、怜悧な憎悪がひたと浮かぶ。名前通り氷のような眼差しで、七瀬と拓海をじっと見た。

「本当に、むかつくわ。学校でここまで騒ぎを大きくした以上、それなりの覚悟はできているのでしょうね……?」

「覚悟……?」

 その言い方に、ぞっとするものを感じた。何故だか、嫌な予感がしたのだ。腹の底が浮き上がるような怖気が、全身に広がっていく。

 何かが、まずい。七瀬がそれを、本能的に理解した瞬間――氷花の口角が、より邪悪に吊り上った。

「篠田さん。貴女は一つ、誤解をしているわ」

「……誤解?」

「ええ。誤解よ。……気づいて、いないのね……?」

 慎重に返事をする七瀬を、氷花は嘲笑う。隣で成り行きを見守っていた拓海が我に返ったのか「篠田さん、耳を貸しちゃ駄目だ。行こう」と急かしてきた。

「呉野さんと、話しちゃ駄目だ! 三浦が、言ってたんだ! 逃げろ、って!」

 氷花の顔色が、はっきりと変わった。

「あいつ、〝言霊〟のことまで喋ったのかしら。……ふふふ、兄さん。分かったわ。受けて立ってやるわ」

「え?」

 戸惑った七瀬が口を開きかけたが、氷花の方が早かった。

 場に満ちた緊張感が、出し抜けに弾けて、凍りついた。


「――『篠田七瀬は、好きだった少林寺拳法の道場を、三か月で無理やり辞めさせられた』!」


「! なんで、それ」

「それが貴女の誤解だからよ! 篠田七瀬! 私は貴女を、知っていたのよ!」

 ざっと急激に、血の気が引いたのが分かった。

 何故。だが、疑問を挟む余裕は意識にも言葉にもなかった。氷花の追撃が、あまりにも早かったからだ。

「『知ってるのよ、泣いて続けたいって言った事も! それを全く聞き入れてもらえなかった事も! あの時道場に来ていた人はお母さんかしら? 篠田七瀬は、お母さんが怖いのね!』」

「やっ……」

 やめて――――。叫びたいのに、悲鳴の形にしかならなかった。それが悲鳴なのかも分からない。声の形をかろうじて保っているだけの、赤ん坊が上げる泣き声のような声だった。

「篠田さんっ?」

 拓海が蒼白になって七瀬を振り向く姿がホワイトアウトしていき、黒い学ランが暈けて見える。身体から、急速に力が抜けていった。敵愾心が削がれ、腰が砕け、心の芯が弛緩する。七瀬は支えを求めて手を伸ばしたが、どこに自分の手が伸びたのかも分からず、くらくらと眩暈がした。

「さかが、み、く……、……あ……」

「篠田さん!」

 悲鳴のような怒声が聞こえる。腕が強く引かれ、肩が掴まれた。七瀬を引き寄せた拓海が、顔を動揺と恐怖で引き攣らせながら、七瀬の名前を叫んでいる。けれど七瀬には支えられた事が分かるばかりで、掴まれた腕と肩の痛みは分からない。皮膚の感覚が麻痺していて、そのくせ吸い込む空気が熱く、苦しい。鏡が指と腿を切り裂いた時と同質の痛みが、今や胸に刺さっている。心を抉り、意識を裂き、自分の中の何かがずたずたに切り裂かれていくのも分かるのに、どう身を守ればいいのか分からない。たった三か月の教育では、そんなもの、分かりはしないのだ。

 蘇る、記憶があった。聞こえてくる、声があった。

 ――母の声だ。

 言葉の仔細は、聞き取れない。母の声だと判るだけだ。勢いが緩んだ声に対して、確かに感じた安堵故の虚脱感。いつも説教の終わりはそうだった。逆に勢いが増した時は怖かった。それは七瀬の落ち度だからだ。

 ――『絶対に、身に着けていないと駄目よ』

 母にそう命じられたのは、道場を辞めさせられた日だ。七瀬はそれまで、鏡を持ち歩いていなかった。小学生の時には財布を持ったこともなく、持ち歩くことを固く禁じられていたからだ。

 そして、所有を許された物達は、どれも――所有する事が『義務』だった。

 ハンカチ、ティッシュ、学校に行く時はノート、連絡帳――それらを一つでも忘れた時は、学校の先生よりも母に怒られる方が怖かった。ばらまかれた記憶のネガの中に、綱田毬の顔が過る。毬の名前は綺麗だと、いつしか鏡を見る度に思っていた。小学生が持つには不相応なほど豪奢な鏡に、魂が無理やり引っ張られる。意識が十二歳の春に引き戻されて、今よりも小さな七瀬の手が、優美な毬柄のコンパクトを、おそるおそる開いていく。

 そこに映ったのは、泣き腫らした七瀬ではなかった。まなじりを吊り上げた母が、激しい怒気で歪んだかおで、鏡の中から、手を、激しく振り上げて――

「あ……やだ……や、だ……やだ、やだ、やだ、わ、ああ、あああ、ああああっ、あああああぁぁ……!」

「篠田さん! しっかり! ……篠田さん!」

 白濁した視界の中で、拓海が七瀬を揺さぶっている。にやりと笑った氷花が「やっと、当たった」と囁く声が、酷く遠い音に聞こえる。氷花は瞳に湛えた殺意に嗜虐的な光を滲ませて、七瀬に一歩詰め寄った。

「『篠田七瀬はお母さんの教育が怖いのね! 厳しい教育ママなのかしら? ねえ、窮屈だったでしょう? 反発したいでしょう? ねえ、しないの? できないの? 怖いお母さんには従わなければならないの? 貴女、支配されているの? でも、怖いんでしょう? お母さんの事が!』」

「――もう、やめろ!」

 叩きつけるような怒声が響き渡り、水を打ったような静寂が、調理室に満ちた。

 ……拓海の声だった。

 温厚な拓海が、初めて怒鳴った。七瀬を支えた拓海は、顔に明確な怒りの色を乗せて、唇を微かに震わせていた。

「……ふうん? なあに? 坂上君。その子庇うの? やれるものなら、やってみなさいな。あんたがどう頑張ろうと、あと一押しでその子、終わるわ」

「わ……わけ分かんないこと、言うなよ! 呉野さんの言ってることはめちゃくちゃだ! それに、人のこと、そんな風に言うのって……」

 拓海は一度言葉を切り、覚悟を決めたのか、毅然と言った。

「最悪だ」

 だが、拓海が必死に絞り出した悪態を、氷花は相手にしなかった。

 ひたりと、冷徹な笑みを美貌に浮かべて、七瀬と拓海の二人を見る。

 悪意を装填した言葉の銃撃の、標準を定めるように。確実に、仕留められるように。そして、とどめを刺すように――破滅の引き金が、引かれた。

「『篠田七瀬は、お母さんが怖い!』」

「やめろって!」

「『篠田七瀬は、お母さんの教育が怖い!』」

「やめろってば……!」

「『だから礼儀正しいのね! だから……鏡を気にするのね!』」

「えっ……?」

「『持ち物にも、厳しく言われているのね? だから、割れる事が怖かったんじゃないの? 駄目にしてしまう事が恐ろしいのではないの? ――全ては、お母さんが怖いから! だからあの時、拘っていたのね!』」

「いい加減にっ……!」

「『それなら』」

 氷花が、にいと笑った。


「――『家に、帰らなければいいじゃない』」


 凛と響いたその一言が、世界をぎしりと軋ませた。

 錫杖しゃくじょうの音に似た清涼感は、一瞬にして消え失せて――禍々しい圧力を伴う重い空気が、ひしひしと場に満ち始めた。


「『お母さんのいない所へ、行けばいいのよ』」


 ぱきん――――、と。その台詞を最後に、鏡が爆ぜる音がした。

 白銀に染まる調理室で、七瀬が最後に見たのは――握り締めていたはずのハンカチが落下して、解けた結び目から飛び散った無数の鏡の煌めきだった。

 太陽光の反射なのか、それとも別の何かなのか、氷花が掲げた鏡も光る。全ての鏡の欠片が輝いていた。まるで一つ一つが、別個の意思を持つように。

 ああ。

 鏡が。

 こんなにも。

 七瀬達を……映している。

 まるで遊園地の鏡の迷宮のようだ、と。意識が白い輝きに呑まれる刹那、七瀬はそれだけのことを、漠然と思った。


     *


「……遅い」

 三浦柊吾がそう言ったタイミングを見計らったかのように、その音は聞こえた。

 左右を街路樹に守られた道路を、車が滑るように走ってくる。煙たい排気ガスが匂い立つ中で、柊吾達の立つ東袴塚学園中等部の校門前に、一台のタクシーが横付けされた。息を呑む柊吾に気づいたのか、隣に立つ雨宮撫子も、「三浦くん、あの人」と言って、柊吾と握り合う手の力を少しだけ強くした。

 驚く二人の目の前で、タクシーの後部座席のドアが開く。料金を支払い終わった男が中から悠然と降りてきて――こちらと目が合うと、意外そうに目を瞠った。

「……おやおや。まさかここで君達と出会う事になろうとは思いませんでしたが、道理で、と言ったところでしょうか。何故こんな騒ぎに発展してしまったのか、理由が読めた気がします」

 白い着物に、浅葱色の袴。灰茶の髪を、桜の花びら混じりの冷たい風にそよがせて――和装の異邦人、呉野和泉が、青色の双眸を細めて笑った。

「イズミさんが、なんで……」

「……三浦くん、知ってる人?」

 撫子が口を開くと、和泉は相好をさらに柔らかく崩し、「初めまして。……お会いできて嬉しいですよ。雨宮撫子さん」と友好的に言った。名を言い当てられた撫子が目を瞬くのを横目に見つつ、柊吾は和泉の立ち姿をじろりと睨んだ。

「イズミさん。呉野が何かやらかしてます。来るの遅いんじゃないですか」

「いやはや、面目ありません。これでも仕事中に抜けてきたのですよ。おかげで着替える余裕もありませんでした。とはいえ、人命の懸かった事態です。いささか出遅れたやもしれませんが、急ぎましょうか。君も付いてくる気でいるのでしょう?」

「イズミさん、何が起こってるんですか」

 柊吾は、単刀直入に切り込んだ。

「あいつ、見境なくて最悪な奴だけど、外面だけはしっかり取り繕ってたと思います。そんな呉野がどうして、学校を騒がせてまで篠田を狙うんですか。理由が分かりません」

「……。ほう。なるほど」

 和泉は柊吾の目を見て、何かを理解したらしい。

 やはりこの異邦人は、どことなく得体が知れない。ただ、それに対して気味が悪いとは、柊吾にはどうしても思えなかった。相手にそんな嫌悪感を全く抱かせない不思議さは、何度顔を合わせても変わらないどころか、その度に鮮明だった。

「今回の件はおそらく、誤解が招いた事故でしょうね」

「事故?」

「ええ。あの子は元々篠田七瀬さんを狙う気でいたはずですが、この形はあの子にとっても想定外のものでしょう。柊吾君も指摘してくれましたが、あの子は転校ぎりぎりまで外面に拘りますからね」

 和泉はそう言って、笑みに少しだけ薄暗いものを織り交ぜた。

 他の誰にでも優しく接する呉野和泉だが、妹に関わる時だけ、笑みの質が少し変わる。その微細な変化に柊吾は気づいていたが、隣で撫子も違和感を覚えたらしい。無表情に近い顔つきは変わらなかったが、指をきゅっと握り締められた。「大丈夫だ」と柊吾は囁き、和泉は身を寄せ合う中学生の男女を微笑ましげに見下ろしていたが、やがて校舎を振り仰いだ。

「柊吾君。おそらく氷花さんの真の標的は、篠田七瀬さんではありません。ましてや、彼女を気遣って付き添う形になった坂上拓海君でもないでしょう。二人はどちらとも被害者には違いありませんが、そうですね……悪意は向けられていますが、敵意は向けられていませんね」

「? どういうことですか」

「簡単なことですよ。彼女の敵なんて、分かりやすいものでしょう?」

 和泉は微笑み、事もなげに答えた。

「敵は、僕です」

「は? イズミさんが?」

「ええ。氷花さんの標的は間違いなく、この僕、呉野和泉でしょう。――これは、情緒不安定の少女が狂気によって学園を混乱させているのではなく、篠田七瀬さんへの個人的怨恨でもありません。実に他愛のない、そして稚拙な動機に基づく、ただの氷花さんの独り相撲と被害妄想です。僕には初めから争う気など毛頭ないと、再三申しているのですが……昨年の携帯電話解約の件、まだ根に持たれているのやもしれません。僕は今まで以上に嫌われてしまったようです」

「……。分かりやすく言って下さい。さっぱり分かりません」

「ああ、すみません。それでは簡潔に言いましょう」

 浅沓あさぐつを履いた和泉の足が、茜射す校庭へ踏み出した。場違いなほど平和に澄んだ青空の下、全身を桜吹雪に晒した美貌の男は、柊吾と撫子へ綺麗に笑った。

「これはただの、兄妹喧嘩です。――僕、呉野和泉と、彼女、呉野氷花の。あるいは……『愛憎』の欠け合う鬼が二人、つの在処ありかを闇雲に、互いに探り合っているだけかもしれませんね……」

 謎の言葉を残し、呉野和泉はグラウンド沿いの道を颯爽と歩いていく。

 掛けられた言葉の意味が分からないまま、柊吾は撫子を見下ろす。

 連れて行くか行くまいか、少しの間逡巡して――柊吾は戸惑う撫子の手を引くと、和泉を追って歩き始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る