3-11 忘れ物
「日誌、忘れたぁ?」
七瀬は思わず呆れ顔で、拓海を見つめてしまった。
だが、相手は挙動不審の坂上拓海だ。きつい言い方をしたわけではないのに、「ご、ごめん」とおどおどした様子で謝られたので、七瀬は吐息をついた。
「別にいいけど。坂上くん、さっきの授業中に日誌書いてたでしょ。どこまで書けてるの?」
訊ねると、拓海は驚いた顔をした。七瀬が見ていたとは思わなかったのだろう。
「授業の項目は、全部埋めてるよ。あとは感想欄だけ」
「分かった。じゃあ取りに行こうよ。私も感想欄は書けてないし。坂上くんが書けたら、こっちに回して」
「うん、ごめん……」
面目なさそうにしょんぼりする拓海へ、「いいから」と七瀬は繰り返し、通学鞄を肩に提げた。その程度の事でしょげられても困ってしまう。
友人の大半が帰った後の教室は、蛍光灯が消されて陽光だけが薄く射し、放課後特有の黄昏めいた色に沈んでいた。朝は肌寒かったが、日中の熱気か人の熱気か、今では暖かいくらいだった。
毬と会って帰る頃には、また冷え込むかもしれない。凍える空気は、切り傷に沁みる気がする。微かな痛みを主張してくる己の怪我と向き合っていると、通学鞄に教科書を詰め終わった拓海が振り向いた。
「日誌は俺が取って来るから、篠田さんはここで待っ……ごめん、一緒に来てもらっていい?」
「? ……別に、いい、けど……」
奇妙な申し出に、七瀬は驚く。それを口にする拓海自身、何だか居心地が悪そうだったが、次の台詞を聞いて納得した。
「呉野さんに会うと、なんかヤバいらしいから。……だから、ごめん」
保健室前で拓海と柊吾が話し込んでいたのは、このことらしい。心配は嬉しいが、少し過剰な反応のようにも思う。照れてしまった七瀬は、「……早く済まそうよ。行こ」と拓海を促して教室を出た。背後では教師が「全員、早く帰宅しろよー」と教室に残った生徒達に呼び掛けている。
「……大変なことになっちゃったね」
七瀬は、ぽつりと言う。見つめた廊下の果ては、全校生徒による一斉の帰宅でごった返していた。普段は部活動で居残る生徒達も昇降口を目指しているので、特に階段の辺りは芋の子を洗うような有様だ。
帰りのHRでは、呉野氷花の失踪について、教師からの説明は全くなかった。
代わりに、生徒は全員、速やかに帰宅するようにと厳命されてしまった。
戸惑う生徒もかなり多く、教室は先程まで騒然となっていた。理由は緊急職員会議と説明されたが、事情を知る七瀬や拓海から見れば、呉野氷花がらみである事は明らかだった。
「俺、まだ実感ないよ。こんなことになるなんて思ってもみなかった。先生、まだ呉野さんを見つけられないのかな。それとも、もう見つけてんのかな」
「どうだろ。でも凄いよね。部活を禁止にして捜索するくらいなんだし、学校にまだいるなら、さすがに見つかるんじゃない?」
生徒の流れに乗って階段を下りると、両手に乗せたハンカチの包みの中で、欠片が触れ合う音がした。七瀬の手元を見た拓海が、表情を思案気に曇らせた。
「篠田さん。それ、鞄に入れた方がいいと思う。また指を切るかもしれないじゃん。危ないよ」
「でも、鞄の中に破片が散っても困るし。ビニール袋とかあればいいんだけど……職員室に寄った時に、先生に訊いてみようかな」
「職員室? なんで?」
「なんでって、先に職員室に行かないと駄目でしょ? 調理室、鍵かけられてると思うけど」
七瀬が指摘すると、拓海はテストのケアレスミスに気付いたような顔になる。「ごめん……」とまた言われたので、「もう、いいってば」と七瀬は軽くあしらった。拓海は本当に控えめで優しいと、何となく思って、少しだけ笑った。今日は様々な出来事があったので、単純なやり取りに救われた気がした。
「私、鍵取ってくる。坂上くん、調理室前で待っててよ」
そう提案した時、丁度一階に着いた。その場所は先刻、七瀬と氷花が衝突した辺りだ。壁に飾られた姿見には、セーラー服と学ラン姿の二人の全身が映っている。鏡像の拓海は、再び表情を曇らせていた。
「いや、やっぱり一緒に行く。そうしないとまずい気がする」
「大げさなんじゃない?」
七瀬はさすがに呆れ、妙な義務感に駆られている拓海を振り返り、苦笑した。
「人がこんなにいるんだから、大丈夫でしょ」
「駄目だって。そうしないと多分、俺が三浦に怒られる」
頑なに、拓海は言う。気まずそうにしながらも譲らないので、「……分かった」と七瀬の方が折れた。何となく互いに顔を直視できず、妙に余所余所しい雰囲気を振り切れないまま廊下を進み、職員室前に到着する。七瀬は、扉をスライドさせようとして――手を止めた。
「? 篠田さん?」
「しっ」
七瀬は、唇に指を当てた。拓海は「へ?」と驚きの声を上げた後で「あれ、なんか今日はこんなのばっかだな……」などと暢気に呟いていたが、「し!」と七瀬はもう一度指を立てて、マイペースな拓海を戒めた。
「ど、どうしたんだ?」
七瀬は無言のまま、扉にぴたりと張り付く。拓海は七瀬の行動を不思議そうに見下ろしていたが、意味を察したのだろう。沈黙した。
――呉野、と。扉の隙間から、教師達の声が聞こえたのだ。
「……それにしても、呉野の奴、どうしてこんなことをやらかしたんだか……」
「六時間目の授業中に、怪我で保健室に来た生徒……三年の篠田が、呉野の最後の目撃者ですね。篠田の話では、怪我そのものは呉野の所為ではないそうですが、呉野が妙な言動を取っていたと聞いています」
「妙?」
「保健室でも、戸田先生に妙な言葉を叫んでいたそうですし……親御さんからも、お話を伺った方がいいでしょうね」
「まあ、まずは呉野が心配です。情緒不安定になっているのか、兎も角このまま見つからないのはまずい」
「放送でも再三呼び掛けて、我々が校内を巡回しても見つからないとなると、外に出た可能性が高いでしょうな」
「子供は隠れるのが上手ですから、まだ分かりませんよ」
「とはいえ、中学生ですよ? 呉野の背格好は、女子中学生として平均的です。小学生のかくれんぼとはわけが違うでしょう」
七瀬と拓海は、思わず顔を見合わせた。
――まだ、見つかっていないのだ。
呉野氷花は、捜索の目を掻い潜って、どこかへと逃げ延びている。もう学校を離脱していると考えるのが自然だったが、氷花の得体の知れなさを思い出すと、一概にそうだとも言えない気がして、胸の内がざわざわした。
「親御さんには、もう連絡は済ませているんですか」
「はい、先程連絡がつきましたが……聞いていた通り、複雑でした」
「複雑?」
「ああ、御存知ないですか? 呉野氷花、少しばかり家庭の事情が複雑なんですよ。連絡網に記載されている番号、携帯電話なんです」
「固定電話がないということですか?」
「いえ、そうではなくて。家庭の事情で、自宅の神社とは違うお宅に住んでいるんです。養女になったというわけでもなく、そこで厄介になっているだけだそうで。確か、藤崎さんと仰ったかな。もちろん連絡先は把握していますが、滅多なことでは掛けないでほしい、ご迷惑になるから、と呉野の祖父と兄の二人から、強い申し出がありましてね……」
「祖父と、兄? ……ご両親は」
「両親ともに、呉野は亡くしているそうです。おかげで呉野に連絡をつける際は、呉野の兄の携帯電話に掛けなければならんのですよ。祖父宅である神社も、呉野氷花がらみの連絡は一切受け付けないそうです」
「それでは、連絡がついたのは……そのお兄さんに、ということですか?」
「ええ。ただ、事が事ですので、養父の方にも連絡すべきかと思いますが、お兄さんがすぐにこちらへ来て頂けるとのことなので、まずは待ちましょうか、と。話が先程纏まりました。タクシーで向かって下さっているそうなので、もうじき到着されるのではないかと……」
人目を憚りながら辺りを見回すと、生徒の数は先程よりもぐっと減っていた。潮が引くように静寂が学校を包み始めるのを感じて、七瀬は緊張の面持ちのまま、扉から少し身を引いた。
「……呉野さんって、お兄さんがいるんだ」
小声で言うと、拓海が「ああ、そうみたいだ」と曖昧に頷く。そしてほっとしたような顔で、和やかに笑った。
「家族の人が来てくれるなら、俺、安心したよ。よかったな、篠田さん」
「よかった? なんで?」
「だって、なんとか片付きそうじゃん。これで篠田さんが危ない目に遭うこともないと思うし。よかったな」
自然に言ってのけた拓海を、七瀬はぽかんと見つめた。
拓海は今朝、転んだ七瀬に手を差し伸べてくれた。氷花に襲われた時には、果敢に駆けつけてくれた。調理室に戻る途中での会話も、実は結構効いていた。何だか急に意識してしまい、七瀬は声が出なくなる。拓海も自らの台詞を振り返って思うところでもあったのか、顔が少し赤くなった。
「……ご、ごめん」
わけの分からない謝り方をされたので、七瀬はふいと視線を逸らす。右側で結った巻き髪が揺れて、ぱしんと頬を叩いた。軽くそれを振り払いながら――ふと気になり、訊いてみた。
「ねえ、坂上くん。これ、もうちょっと聞いてく? それとも鍵を取りに行く? 入りにくいけど、どうしよっか」
拓海は気後れを感じたのか、少しの間考え込んだ。ただ、やはり誘惑よりも良識が勝ったらしい。苦笑気味の顔で答えを出した。
「鍵を取りに行こう。三浦も待たせてるし、その方がいいと思う」
「うん、そうだね」
七瀬としてはもう少し拝聴したいところだが、拓海の言う通りだ。それに毬との待ち合わせのことも考えると、予定の十七時より余裕を持って
「……すみません。先ほど呉野の事を、どなたか呉野ヒョウカと仰いましたか?」
少ししゃがれた、
「言いましたが、それがどうかなさいましたか?」
「いや、聞き間違いかと思ったんだが……今、騒ぎになっている子は、ヒョウカ、という名前ですか?」
「そうですよ。氷の花と書いて氷花です。珍しい名前だと、子供達も騒いでいましたね」
「……そのヒョウカさん、お姉さんか妹さんはいませんか?」
「いえ、歳の離れたお兄さんが、お一人いらっしゃるだけで……他には聞いていませんが、少なくとも校内に姉妹はいませんよ」
「……本当に、〝ヒョウカ〟ですか?」
「はい?」
「先程、皆さんが話されていた呉野の実家の神社とは、呉野神社の事でしょう。以前私は住まいがあちらに近かったものですから、神社にはよく足を運んでいました。神主さんとも顔見知りになったほどです。呉野の兄の事も、よく覚えていますよ。ハーフだかクオーターだか……忘れてしまいましたが、呉野和泉君は、青色の瞳が美しい青年でした。……ですが、氷花という子は、知りません。和泉君に妹がいるのは確かですが、そんな名前ではなかったはずです」
「先生、何を仰るんです……?」
「ああ、いえ、混乱させるつもりで言ったわけではないんです。しかし、気になったものですから。確かに、幼い子供は一人いました。ただ、違うんです。彼女をそんな名で呼ぶ人は、誰もいなかったはずです。どういう字を書くのかも聞いていますよ。お兄さんとお揃いなんだと、喜んでいたから……」
教師の声が、一度途切れる。
重い沈黙が場に降りる中で、名前が、厳かに告げられた。
「あの子は――呉野キョウカさんでは、ないのでしょうか」
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