3-10 二人

「怪我、大丈夫?」

「うん」

「……」

「……待っててくれて、ありがと」

「……うん」

「……」

 二人の間に、会話はほとんどなかった。時折どちらかが声を掛けて、短い返事をする。沈黙を挟みながら、それを繰り返した。あと五分で六時間目が終わるから、歩調が遅いものになったのかもしれない。それに、調理室に着く前に話しておくべきこともある。拓海は腹を決めると、本題に入った。

「……三浦が、言ってたんだ。篠田さん、呉野さんに狙われてるみたいだ」

 廊下に響く足音が、一人分だけ、先に止まる。拓海も足を止めて振り返ると、無表情に近い顔つきの七瀬と目が合った。

「私も、そんな気がしてた」

 静謐な声音から、拓海は七瀬が怒っているのだと分かった。拓海を真っ直ぐに捉える瞳が、窓からの斜光を凛と跳ね返す。

「私、呉野さんとは初めて話したと思う。なのに、なんであんな言いがかりをつけられたのか、ほんとに分かんない。すごく、むかつく」

「何を言われたのか、俺が訊いても平気?」

 おずおずと伺う拓海へ、七瀬は不可解そうな顔をした。

「坂上くんって、どうしてそんなに畏まってるの?」

「いや……うん、性格なんだと思う。ごめん」

「別に、謝らなくてもいいけど」

 七瀬は呆れていたが、やがて小さな溜息をつき、「殺すって言われた」と素っ気なく言った。簡素な言い方だった分、聞かされた拓海は驚愕した。

「殺すっ?」

「私が気に入らないんだって。あとは、時間がないとか言ってたかな。呉野さん、自分が誰かに殺されるかもしれないって騒いでるみたい」

「へ……?」

「変でしょ。呉野さんが殺されるかもしれない事と、私とは全然関係ないのに。それに、鏡の事も。落とした鏡を私が焦って拾おうとしたからかな。鏡を怖がってるって誤解されたみたい。それで、鏡の怖い話をいっぱい言ってきたの」

 確かに、変な話だった。拓海は返答に困ったが、ふと柊吾の言葉を思い出した。

「多分だけど、篠田さんが呉野さんに絡まれたのって、特に理由はないと思う」

「え、どうして?」

「ターゲットは適当に決めるって、三浦が言ってた。でも、ごめん。詳しい話はまだ知らないんだ。……あのさ、篠田さん。今日の放課後、空いてる?」

「え?」

「三浦が待ってるんだ。放課後に、校門前で。篠田さんが危ないかもしれないから、ちゃんと話したいことがあるって」

「三浦くんって、どうしてそこまでしてくれるんだろ」

「分かんないけど……優しい奴だなって思ったよ」

 それに多分だが、柊吾は氷花と因縁があるからだろう。仔細を知らない拓海はそれ以上のことは言えなかったが、七瀬も「そうだね」と囁いて目を伏せたので、拓海と同じ想像をどこかで育てていたのかもしれない。

「分かった。ありがと。でも、ごめんね。私、長くても三十分しか時間ないや」

「何か、用事あるんだ?」

「うん。友達と会うの」

 ふわりと七瀬が笑い、拓海は一瞬、息が止まった。七瀬が今見せた笑みは、一ノ瀬葉月に向けられていたものと、ひどく質が似ていたのだ。

「篠田さん、怪我してるのに」

 心配になった拓海が言うと、七瀬は顔色を曇らせて「いいでしょ、別に」と言い返した。

「滅多に会えない子だし、携帯持ってない相手だから、待ちぼうけなんてさせられないし……会いたいじゃん。やっぱ」

「……」

 何故だろう。やっと七瀬が笑ったのに、拓海の心は晴れなかった。

 今の笑顔では、まだ何かが足りないのだろうか。一度は薄れたはずの切迫感が、緩やかに熱を取り戻す。義務感に似た衝動が喉元にまで込み上げて、拓海は気づけば、言っていた。

「……篠田さん、なんで一之瀬さんを避けてんの」

「え?」

「一緒にいたら、いいのにって。俺、ずっと思ってた。仲、良かったじゃん。廊下とかで見た事あるから、知ってるんだ。なんで、篠田さんは」

「坂上くんには関係ない」

 ぴしゃりと、七瀬が言った。強い語調ではなかったが、感情を無理に抑え込んだような声は、まるで拓海を拒絶するように、廊下の静けさをぱしんと叩く。拓海は、息を吸い込んだ。出しゃばり過ぎたと、気づいていた。

「……ごめん」

「どうして、坂上くんが謝るの。言い方悪いの、私の方でしょ」

 七瀬は項垂れる拓海を見上げて、小さく笑った。笑われるとは思っていなかった拓海が目を瞠ると、窓からの日差しに頬を照らされた七瀬は、少し照れたように、それでいて卑屈そうに、笑みを歪めた。

「なあんだ。班の男子にもバレてて格好悪いなって思ってたけど、ほんとにバレバレなんだね。……坂上くん。誤解しないで欲しいけど、私、葉月が好きだよ」

 七瀬は、はっきりと言った。どきりとするほど、ストレートな告白だった。

「葉月の事は、嫌いだから避けてるわけじゃない。でも、今日は考えたくないの。今日は、毬に会うんだから。それに、今は葉月の事よりも、呉野さんが次にどういう出方をしてくるのか、そっちの方が気になるし……」

「……あの、さ」

「うん?」

「……無理、してない?」

「……」

 七瀬は、黙る。拓海は、待った。なけなしの勇気を振り絞ってぶつけた言葉だったが、七瀬は透明に笑っただけだった。ただ、笑みから卑屈さは抜けていた。

「私、呉野さんにさっき『合わせ鏡』って言われたんだよね」

「合わせ鏡?」

「うん。ベタな怪談。……葉月って、怖い話とか大好きで。家に泊まりに行った時とかに、よく怪談を聞かされたんだよね」

 開いた窓から風が入り、向き合う二人の間を桜の花弁はなびらがすり抜ける。澄んだ日差しが香る廊下で、七瀬は懐かしそうに目を細めた。

「だから、呉野さんから『合わせ鏡』って言われた時に、葉月のことを色々思い出しちゃって……なんか、気分悪くなっちゃった」

「へっ? 気分悪い?」

「だって、そうでしょ」

 七瀬が、拓海を睨んだ。自分が怒られたようで竦む拓海だったが、怒りの矛先は氷花のようだ。

「葉月の事は、私の問題だもん。呉野さんみたいな失礼な人に、簡単に触ってほしくない。あっ、一個思い出した。あの子、私をストレス発散の道具にするとか言ってた。ほんと信じらんない」

 文句を言いながら、七瀬が再び歩き始めた。置いて行かれる形になった拓海は、「篠田さん」と慌てて七瀬を呼び止めた。

「? 何?」

「これ……」

 拓海はエプロンのポケットから、薄いブルーのハンカチを取り出した。上部を絞ったハンカチの包みからは、小波さざなみみぎわの砂を洗うような、遠い海の音がした。七瀬が、目を見開いた。

「篠田さんを待ってる間に、それを取りに戻ってたんだ。鏡の破片を呉野さんに持っていかれたこと、気にしてたみたいだから……」

 拓海は拙く説明しながら、これで良かったのだろうかと不安になった。だが、七瀬が少しだけ泣きそうな目で、拓海からハンカチを両手で受け取ったから――これで良かったのだ、と心が落ち着いていった。

「……粉々だったから、砂っぽい欠片とかは拾い切れてないけど、できるだけ拾ったから。あと、割れてない緑色の方も。細かい破片まみれだから、ここに一緒に入れちゃってる。……その、ごめん、な?」

「坂上くんは……馬鹿にしないの?」

「え? 何を?」

「割れたものなのに。そんなのに拘ってるの、馬鹿にされると思った。……それに、鏡を二枚も持ってたことも」

「しないよ」

 拓海は慌てて、首を横に振った。考えもしないことだった。

「だって、大事にしてた物だって篠田さん言ってたじゃん。俺は鏡に対しては分かんないけど、大事にしてる物が駄目になったら、寂しいって思うし……それって、普通のことだと思う」

 考えながら拓海は言ったが、何だか気恥ずかしくなってしまい、最後の方は小声だった。そんな情けない体たらくだったからか、七瀬が淡く笑った。

「……ありがと。坂上くん」

 小さな言葉の余韻を引き継ぐように、丁度チャイムが鳴った。校舎のあちこちで机や椅子を動かす騒がしい音がする。調理室はもう目と鼻の先だ。七瀬はハンカチの包みをエプロンのポケットへ仕舞うと、両手を組み合わせて伸びをした。面倒な調理実習の終わりを喜んでいるように見え、やはり最近の七瀬は少し窮屈そうだと拓海は思う。

「それじゃ、放課後ね」

「……うん。放課後な」

 拓海が頷くと、七瀬が調理室の扉に近づき、開けた。途端に、わっと喧騒がドーナツの甘い匂いに乗って溢れ出す。

「ななせー、大丈夫?」

 女子生徒の声が飛んできて、戻ってきた七瀬を迎え入れた。七瀬は「うん、大したことないって」と答えながら、さりげなくスカートとエプロンを引っ張って、腿の包帯を隠した。背後にいた拓海には、そんな仕草が見えてしまう。

 ――七瀬はやはり、無理をしている。

 拓海も調理室に入ると、片付けで居残る生徒の中に、こちらを見ている人物を見つけた。拓海と目が合った直後、その女子生徒は後ろめたそうに顔を背けた。やるせない気分になり、拓海は少し切なくなる。

 好きな者同士、仲良く一緒にいればいいのに。せめて理由を知りたかった。七瀬が笑顔を失うほどの理由は、果たしてそこにあるのだろうか。一之瀬葉月の背中を見ながら、何度だって拓海は思う。

 笑っている方が、いいのに……と。

 そんな風にぼんやりとしていたから、拓海は忘れてしまったのだと思う。

 注意力が散漫になっていた拓海は、片付けを済ませ、調理室を出て、帰りのHRホームルームが終わって初めて――忘れ物に、気づいたのだ。

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