3-9 柊吾
保健室に再び入った七瀬は、なかなか出て来なかった。
きっと室内では怪我の治療と同時に、教師からの質問攻めに遭っているのだろう。真向いの職員室にも教師が慌ただしく出入りしているので、おそらくは呉野氷花の捜索も始まったのだ。
大ごとになってしまったと思う。しかも、その珍事にはどうやら自分も巻き込まれている。保健室前の壁にもたれた拓海は、隣に立つ柊吾を見た。
「……あのさ。質問、いいか?」
柊吾は表情を動かさないまま、ふいとこちらを振り返った。独特の風格のある少年だ。大柄な体躯がそう見せるのかもしれない。少し気圧されたが、拓海は訊いた。
「三浦は……っていうか、袴塚西中の生徒がなんで、俺らの学校にいるんだ?」
「東袴塚の野球部と、近いうちに交歓会をやるから、その打ち合わせで先生と来た。もう一人、女子が一緒だ」
「……そっか」
帰宅部の拓海にはあまりぴんと来なかったが、東袴塚学園の高等部は、野球の強豪校として有名だ。他校とのパイプもあるのだろう。曖昧に納得した拓海を柊吾は横目に見ていたが、やがてぽつりと、こう言った。
「坂上。篠田の事、分かんないってさっき言ったけど。お前ら、友達でもないのか?」
ずきんと、言葉が胸に突き刺さった。拓海は、その痛みに驚く。とても寂しいことを言い当てられた。そんな気がしたのだ。
だが、傷つくのも妙な話だ。実際に、その通りなのだから。弁解の言葉など、何もなかった。
「……席が隣ってだけ。後は今日、二人で日直やってる。今までクラスが一緒になった事もなかったから、多分、今朝初めて会話したと思う」
「じゃあ、なんであいつが無理してるって思うんだ」
壁から背を離した柊吾の目は、やはり真剣なものだった。初めて会った時からずっと、この少年は緊張感を漲らせている。拓海は戸惑ったが、柊吾の警戒の理由だけなら、この目で見たから分かっていた。
――呉野氷花が、七瀬に危害を加えかけたからだ。
風変わりなその名前を、拓海は今まで知らなかった。東袴塚学園は一学年につきクラスが十もあり、関わりが一切ない生徒など、数え始めればきりがない。
氷花はあの時、へたり込む七瀬に鏡の欠片を突き付けていた。二人の間に何があったのかは不明だが、氷花は七瀬に明らかな害意を向けていた。
だが、その件についてどうして他校生の柊吾が躍起になるのだろう。こうして保健室前で静かに待つ間に、拓海の心からは先程感じた切迫感が、徐々に薄れつつあった。柊吾の危機感を上手く共有できない自分がひどく冷たい人間に思え、自己嫌悪で胸が悪くなる。そんな拓海が七瀬のプライバシーを勝手に話してしまうのは、何だか狡い行いに思えた。
拓海が黙り込んでも、柊吾は落胆を見せなかった。ただ、「イズミさんがいたら、説明が楽なんだけどな」とやりにくそうに呟いて、髪に手をやっている。
「いきなり他校の奴に色々言われて、混乱するのも無理ないし、人のこと勝手にべらべら喋るのって、言う方も言われる方もヤだと思う。……でもあいつ、呉野に目ぇつけられてる。周りの奴が気をつけてくれないと、困るんだ」
「どうして、三浦が困るんだ」
拓海が思わず訊くと、「当たり前だろ」と柊吾は打てば響くように答えた。
「人が目の前で危ない目に遭ってるのに、本当に危ないってことをちゃんと分かってないんだ。だったら理解させるか、周りが守ってやるしかない」
「三浦は、どうしてそんなに必死になるんだ?」
「お前は篠田の事を、友達じゃないって言った。けど、無理してるって思うんだろ。俺よりも坂上の方が、篠田が心配なはずだ」
「心配……」
「心配なんだろ。それくらい認めろ。それに俺は、目の前で確実に起こる殺人は、絶対に潰す。篠田が壊れてからじゃ遅いんだ」
「殺人っ? 壊れる?」
拓海がぎょっとすると、柊吾も我に返ったらしい。口の端を苦々しげに歪めた。
「呉野は絶対に、これくらいじゃ諦めねえと思う。あいつ、ターゲットは適当に選ぶくせに、めちゃくちゃ粘着質でしつこいからな」
「……」
柊吾はきっと、氷花と過去に〝何か〟あったのだ。二人を繋ぐ糸は、どこから伸びてきたのだろう。その糸に七瀬が絡めとられようとしているなら、拓海が今すべきことは、糸を辿った先にあるものを知ることかもしれない。
七瀬の、安全の為に。
――『ありがと。……多分、来てくれて、助かった』
憔悴した声が、耳に蘇る。ほっとした様子で笑う顔は、傍目にも明らかなほど、血の気が失せて白かった。たった一人で怖い思いをしただろうに、心細さなんておくびにも出さないで、氷花と対峙した七瀬は強いだろう。そう拓海は思う。
だが、本当に強いのだろうか。強いということは本当に、裏返しの弱さの否定になるのだろうか。かつて泣かせてしまった女子生徒を思い出す。強いと盲信していた人間の涙の記憶が、拓海に訴えかけている。
現に、七瀬は、もう――以前のようには、笑っていない。
「……うん。三浦の言う通りだよ。俺、篠田さんが心配なんだと思う」
自分が思っていたよりも、ずっと落ち着いた声が出た。壁にもたせかけていた背中をそっと離し、拓海は柊吾の強い眼差しと向き合った。
「三浦。話すよ。だから俺にも、呉野さんの事を教えてほしい」
柊吾は少し驚いたようだったが、ふ、と
「俺には、篠田さんの考えは分かんないけど、何となく最近は辛そうだなって思ってた。仲が良かった友達と、上手くいってないみたいなんだ」
「言い方悪いけど、それって孤立してるってことか?」
「いや、友達は多いし、クラスでも最近つるんでる子がいる。でも、多分そうしたいわけじゃないんだ。同じクラスに親友の女子がいるのに、どうしてか分かんないけど、そっちに行かないんだよな」
「……それ、もっと詳しく分からないか? ヤバい気がする」
「ヤバい? 何が?」
「『弱み』になりそうだなって。そう思った」
「弱み?」
「し。静かに」
いつの間にか、声が大きくなっていたらしい。諫められた拓海が慌てて「ご、ごめん」と抑えた声で謝ると、柊吾は呆れ顔になった。
「そういや、今って授業中なんだろ。篠田は怪我だから仕方ないけど、お前はいいのか?」
「良くはないけど……あんなとこ見たら、帰れないって」
せめて
まずいことでも言っただろうかと拓海は無意味に焦ったが、保健室から物音が聞こえたので、意味を察した。
七瀬と教師が、戻ってくるのだ。ここでの会話は、一旦打ち止めらしい。二人は顔を見合わせて、早口でひそひそと喋った。
「篠田が帰ってきたら、お前ら二人とも授業に戻るんだな」
「ん、そうなると思う。そろそろ先生が黙ってないだろうし。三浦は?」
「もう用事は済んだから、残れる。授業が終わったら篠田と校門前に来てくれるか? 俺、携帯持ってないから。悪りぃけど、連絡は取れない」
「分かった。えっと、結局俺は、呉野さんに気をつけて……篠田さんと一緒にいればいいんだよな?」
「そうだな。あと、呉野が何か喋り出したら、篠田を連れて速攻で逃げろ。耳を貸すな。絶対だからな」
「? うん。分かった」
何だか奇妙な気はしたが、強い調子に押し切られ、拓海は頷く。
「でも、三浦やけに心配してくれてるけど、今日はもう大丈夫じゃないか? 呉野さんはまだ見つかってないけど、先生が見つけてくれるって」
「……そう思いたいけどな」
柊吾が
「あ。……待っててくれたんだ」
現れた七瀬は、拓海達を見て目を丸くした。スカートの裾からは、包帯が僅かに覗いている。一日で右手と右太腿に包帯を巻く羽目になった七瀬の姿は痛々しく、改めて目の当たりにすると胸が痛んだ。柊吾も息を呑んでいたが、淡々とした口調で言った。
「鏡で切ったんだったな。傷、具合は?」
「浅いし、平気。縫うほどじゃないし、見た目が大げさなだけ。病院にも、行かないでいいみたい」
「……篠田。俺、さっきから訊きたかったんだけど」
柊吾が保健室の扉を気にしながら、厳しい表情で、七瀬に訊ねた。
「あの時、何が起こってたんだ?」
――それは、拓海も気になっていた事だった。
拓海が駆け付けた時、七瀬の足元は一面破片の海だった。飛散したそれらを拓海は硝子だと思ったほどだ。鈍色に輝く欠片一つ一つが自分達や天井を映す鏡だという事実など、七瀬の言葉を聞かなければ気づかなかっただろう。
「……ごめん。三浦くん。私にも分かんない」
七瀬は困惑の表情で、真新しい包帯が巻き直された右手を見下ろした。
「授業中に、スカートのポケットに手を入れたら、指が切れちゃった。あの時は気づかなかったけど、そこに入れてた手鏡が割れてたの。だから保健室で先生に診てもらって、調理室に戻る途中で、呉野さんに会って……その時に、ばんっ、って。鏡が弾けたみたい」
「弾けた?」
「うん。だから、変な話だけど……二回、割れたことになるの。呉野さんに会った時と、それよりも前に」
七瀬は思案気にスカートを摘まんだが、慌てた様子でエプロンを引っ張って、ポケットを隠した。拓海は不思議に思ったが、紺色のスカートが水を吸って黒ずんでいるのに気づき、何となく目を逸らした。
「足の怪我は、割れた鏡が刺さった時のものだから、呉野さんにやられたわけじゃないよ。でも呉野さん、わけ分かんないことをいっぱい言ってたんだよね。……何がしたかったんだろ、あの人」
柊吾が、沈黙する。拓海はふと気になって、その隙に口を挟んでみた。
「なあ、鏡って、突然割れるもんなの?」
「分かんない。でも……鏡、取られちゃった」
七瀬が、悔しそうに唇を噛んだ。
「呉野さん、割れた鏡なんて持っていってどうする気なの。自分でもゴミって言ってたのに」
「篠田の『弱み』として、使えそうだって思ったからだろ」
柊吾が腕組をして吐き捨てたので、拓海と七瀬はきょとんとした。
「弱み?」
さっきも一度耳にした言葉だ。訊き返したが、そこでタイムアップだった。保健室から教師が出てきて、「まだいたの?」と拓海たち三人を睨み――他校の生徒まで混じっている事に驚いたのか、口を開けて固まった。
「……じゃあ、後でな」
教師を尻目に、すっと柊吾が歩き出す。だが、大股で歩き去ろうとする柊吾へ、七瀬が「あ」と叫んだ。
「三浦くん。怪我、してなかったの?」
「? 何の話だ?」
「だって、さっき絆創膏してたでしょ。いっぱい。かわいいやつ」
「……見てたのか」
柊吾は短髪を手で掻き揚げると、困ったように目を逸らした。気の所為か、頬が赤い。拓海には何のことやら分からず、見る限り一枚の絆創膏も貼っていない柊吾の立ち姿を眺めた。
「今は要らないから、剥がしてるだけだ。……気にすんな。っていうか、忘れてくれ。頼む」
七瀬は首を傾げたが、柊吾は廊下を進んで会議室の扉を開き、室内へ消えた。ぴしゃん、と扉が閉ざされる音が響き渡ると、教師が「ほら、早く授業に戻って」と目を吊り上げる。その権幕に拓海はたじろいだが、七瀬の方は退屈そうに聞き流していた。
それでも七瀬は「ありがとうございました」と、拓海が意外に思うほど丁寧に頭を下げた。不意打ちで覗いた律義さに、拓海は驚く。爽やかな風が吹き抜けていったような余韻が、胸に残った。また一人、知らない七瀬を、拓海は知った。
――『お前ら、友達でもないのか?』
柊吾の言葉を思い出して、やっぱり拓海は寂しくなる。
――拓海は、七瀬と友達になりたいのだろうか。
異性相手にそんな風に思った事などなかったので、この心の動きは拓海にとって未知の領域だ。ふわふわと捉えどころのない感情を掴みあぐねていると、「行こっか。坂上くん」と振り返った七瀬に呼ばれたので、「あ、うん」と間の抜けた返事をした拓海は、七瀬と肩を並べてゆっくりと、調理室に向かって歩き出した。
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