3-8 拓海
「篠田の事を、教えてほしいんだけど」
三浦柊吾からそう訊ねられた時、坂上拓海の脳裏を
笑っている顔。
怒っている顔。
退屈そうな顔。
篠田七瀬。拓海の新しいクラスメイト。万華鏡のようにくるくる変わる表情は、席が隣なので知っていた。
だが、拓海は答えられなかった。保健室の扉から少し離れた場所で、こちらの返答を待っている柊吾に対し、何と答えたらいいのか本気で分からなかった。
拓海は、七瀬という人間を知らな過ぎる。七瀬が違う感情を見せる度、違う人間が隣に立ったように思う。鏡の迷宮に映り込んだ鏡像の七瀬一人一人に、別々の個性を見ているようだった。眺める角度が異なるだけで、違う七瀬がそこにいる。それが、坂上拓海にとっての篠田七瀬だった。
「篠田さんとは、今まで話したことがなかったんだ。だから、ごめん。俺はあんまり、分かんないんだけど……でも」
今の拓海でも、確かに判ることは一つだけだ。
「多分……無理してると思うんだ」
*
中学三年生に進級した時には既に、拓海は七瀬の事を知っていた。
今まで同じクラスにはならなかったが、七瀬の親友と思しき一之瀬葉月とは、一年生の時にクラスが同じだった。だから、二年生に上がったばかりの頃、拓海は廊下で葉月とすれ違った時、実はかなり驚いていた。
……結構、派手な子と一緒にいる。
内向的な一之瀬葉月に対して、誰とでも物怖じせずに話せる篠田七瀬は真逆のタイプだろう。明るい笑みには屈託がなく、いつも生き生きとして見える。友達と過ごす時間が、本気で楽しくて堪らない。それが伝わってくる笑みだった。
だから、印象に残っていた。
だから、三年生の新しいクラスで、隣の席という縁に驚いた。
だから――そこで初めて、七瀬が笑顔以外の顔も見せる事を知って、驚いた。
本音を言えば、拓海は七瀬が苦手だった。しかしそれは七瀬が嫌いだという意味ではなく、拓海の一方的な引け目に
拓海は、七瀬に限らず――女子生徒全般が、苦手なのだった。
そのトラウマが植え付けられたのは、小学三年生の昼休みだった。教室で騒ぎ声が聞こえたので振り向くと、クラスのリーダー格の女子生徒とその取り巻きが、一人の男子生徒と口論になっていた。拓海を始めとするクラスメイト達がその喧嘩に気づいた時、既に場の雰囲気は最悪に近いほど悪かった。
女子生徒と男子生徒は、皆がはらはらと見守る中で、両手を組み合わせていがみ合った。まるで相撲のような格好だったが、律義に手だけで戦っていたのは、可哀想なことに男子生徒だけだった。
女子生徒は、突然足を思い切り振り上げ、スカートが
間違いなく本気の蹴りだった。クラスの半分が凍りつき、残りの半分は爆笑した。もちろん拓海は前者だった。そして、倒れた男子生徒が悶絶する様をぎゃはははと笑い飛ばす、リーダー格の女子生徒――
あまりにも情けないトラウマだと自分でも思うが、この日を境に拓海は女子生徒を少しだけ避けるようになった。そんな姿を周囲から挙動不審と指摘された以外には、拓海の日常は平凡に過ぎていった。学校では仲の良い友人と過ごし、家に帰ればゲームをする。最近では読書や音楽にも興味の幅が広がっていたが、今でも友人とは専らゲームで遊んでいた。受験生なのでプレイ時間は減らしているが、勉強は苦にならないので、さしたる悩みも抱えていない。充足していたと拓海は思う。少なくとも、不足感はなかった。
ただ、一度だけ。平凡で充足した日常を、覆すような事件が起きた。
去年、クラスメイトの女子生徒に告白されたのだ。
女子生徒を怖がる自分のどこに、好かれる要素があるのだろう。付き合ってほしいと言われた拓海は恐縮して断ったが、その女子生徒には泣かれてしまった。
泣かれるほどに、好かれていた。それを初めて知った時、殴られたようなショックと共に、拓海は目が覚めた気分になった。
簡単に、傷ついてしまう。女子生徒だって、拓海と同じ人間だ。ゲームだってするだろうし、その勝ち負けや展開に一喜一憂するだろう。目に見えている顔だけが、心の全てではないのだ。
だから、拓海は七瀬の事が気になったのかもしれない。つい、目で追ってしまうのだ。当の七瀬は拓海に見られているとは露ほども思っていないだろうが、拓海は七瀬の事が気がかりだった。
どうして七瀬は、一之瀬葉月との交友を薄くするのだろう。二人が互いを気にし合っているのは、拓海の目には明らかなのだ。それなのに二人が避け合っているように見えるのは、主に七瀬の方から葉月を避けている所為だと、拓海はそれとなく七瀬を目で追ううちに気づいていた。
だから、目で追うことを、余計に止められなくなった。
七瀬の事は、多分まだ苦手なのだと拓海は思う。
だが、寂しかった。七瀬が、笑わないことが。楽しそうに笑う七瀬に気後れを感じたはずなのに、笑わない七瀬が隣に座っていると、胸に冷たく空虚な穴が、ぽっかりと空いた気分になる。
笑っている方がいいのに、と。
拓海は、素朴にそう思ったのだ。
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