3-2 七瀬

 新しいクラスメイト達の親睦を深める意味を込めて、家庭科の授業で調理実習を行う。教師からそんな告知を受けた時、七瀬の心を占めたのは、深い落胆と面倒臭さだった。

 料理が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。篠田家の朝食作りは母と七瀬と弟の当番制で、七瀬が母に代わって夕食を作ることも珍しくない。一時期は菓子作りにも凝っていて、それらを食べるのも大好きだ。

 ただし、学校の調理実習となれば話は別だ。

 六時間目の調理室は、生徒達のお喋りで賑わっていた。入室の機会が少ない調理室での授業に浮き立つ空気は午後の輻射ふくしゃで温められ、そこへ中学三年生の活気を卵のように割り入れると、室内は寒の戻りなんて嘘みたいに、オーブンの予熱に似た熱を帯びる。各テーブルには、卵、バター、牛乳、薄力粉、バニラエッセンス等が並んでいて、班毎にドーナツを作る準備が万全に整えられていた。

 七瀬の班でも、賑やかに協力し合いながら、調理が着々と進められていたが――その輪の中に、七瀬が入る余地はなかった。

「ミユキ、そっち量ってくれた?」

「うん。夏美なつみ、薄力粉はあたしがやるから」

「おっけー。その後でこれに混ぜてね。卵は割っとくから」

 ビビッドな色彩のエプロンを付けた二人は、てきぱきと作業をこなしていく。七瀬と班員の男子二名は、困惑の表情を押し隠し、手持ち無沙汰に立っていた。

 一見これは、女子二人が見事なチームワークで動く光景として目に映るが、これほど互いの役割分担を聞こえるように言われては、こちらは何も手が出せない。二人とも笑顔だったが、「私も手伝う」などと口を挟もうものなら射殺されそうな空気があった。とはいえ「私も手伝う」と言わずに手持無沙汰を貫けば、後に「何も手伝ってくれなかった」と恨まれそうな気配もある。

 完全な、二人の世界。その女子コミュニティの輪の中に、本来ならば七瀬もいるはずだった。実際に今忙しく立ち回っている二人は、七瀬がこのクラスの一員になってから新しくできた友人なのだ。

「……。ボウル洗ってくるね」

 七瀬は重ねたボウルを持ち上げると、男子二人へボウルを一つ手渡した。男子生徒は露骨にほっとした顔になり、ミユキと夏美は揃って振り返ると「うん、お願いー」と元気に返事をして笑った。七瀬も笑みを返すと、白地にシンプルな花柄をあしらったお気に入りのエプロンの紐を整えて、洗い場へ向かった。

 泡の立ったスポンジでボウルをのんびり洗っていると、隣に先程の男子二人がやって来て、一人が七瀬にならってボウルを洗い始めた。もう一人の方は何もしていない。七瀬の視線に気づいたのか、二人がこちらを横目に見た。

「……退屈だなあ」

「退屈だねえ」

「あー、退屈だなあ……」

 縁側で日向ぼっこをする老人のように、三人で退屈退屈と言い合った。そんなちょっとしたガス抜きでも、鬱憤は少しだが晴れる。

「俺らは別にいいけど、篠田さんは大丈夫なのか?」

「大体、なんでお前まで弛んでんの? あいつら怖いけど、友達だろ?」

 男子二人がこそこそと訊いてきたが、「あー、うん、友達だけど」と七瀬は濁し、適当に会話を切り上げた。

「私、料理そんなに上手じゃないから。上手な子が上手くやってくれるなら、それでいいんじゃない?」

「ふうん?」

 納得していない様子の二人とテーブルに戻ると、ドーナツの生地は完成していた。友人達の手際が余程よかったのか、それとも七瀬達があまりに退屈退屈と喋り過ぎた所為なのか、どちらでもいいか、と七瀬は思考を隅へ投げ、友人達に笑いかけた。

「ななせー、遅いよー」

「あはは、ごめん。すごいね、ミユキも夏美も。手際いいじゃん。さっすが」

「これくらい簡単だって」

 得意げに胸を張るミユキと夏美を、男子達が白けた顔で見つめている。七瀬に対しても呆れているのかもしれない。先程までそちら側に立っていながら、その舌の根も乾かぬうちに、こちらで女子と打ち解けているのだ。そんな立ち回りは見ていて気分のいいものではないだろう。けれど、こんなものは今だけのことに過ぎないのだ。このドーナツ生地を寝かせて、成型し、油で揚げる段階に入れば、堂々巡りだ。七瀬は再び、手持無沙汰になる。

 二人の間に割って入り、作業をもぎ取ればいいだけだ。分かっていたが、二人と同じように見栄を張り合い、積極的に授業に参加しようという気概を持つには、今の七瀬は少し疲れていた。

 だから、これでいい。ミユキと夏美の、好きなようにしたらいい――そんな怠惰さで会話を続けていると、視界の端に一人の女子生徒が過り、意識の曇りが俄かに晴れて、透明感を取り戻した。

 セーラー服の上に掛けられたエプロンは、青いギンガムチェック柄だ。三角巾から覗く黒髪は、肩口で切り揃えられている。

 毬に似ている、と不意に七瀬は思う。ニか月ほど前に会った綱田毬つなたまりも、髪型はショートボブだった。懐かしさと寂しさが、同時に込み上げて胸に迫る。今この姿を見つけたのは、偶然ではないはずだ。無意識の内に、探している。どこにいるのか、気にしている。何だかまるで恋のようで、少しだけ切なかった。郷愁に囚われていると、相手も七瀬に気づいた。

「あ……七瀬ちゃん」

 控えめな、小さな声。耳に馴染んだ、友達の声。七瀬を心細そうに呼んだ少女は、微かに寂しげな笑みを浮かべて、そっと手を振ってくれた。

 七瀬は、相手を呼ばなかった。代わりに、にっと元気いっぱいに笑って見せて、同じく手を振り返した。青いエプロンの少女は安心した様子で息を吐くと、泡立て器とボウルを抱え直し、自分の班へ帰っていく。紺色のプリーツスカートのひだが番傘のように綺麗に翻ったのを見送りながら、七瀬はぼんやりと思う。一之瀬葉月いちのせはづきは、やはり綱田毬に似ている、と。

「ななせ、どしたの?」

「ああ、一之瀬さん?」

 ミユキと夏美が気づき、こちらを見る。「何でもないよ」と七瀬は笑顔で誤魔化したが、二人の顔には愉快そうな色が差した。面白そうな話題を見つけた。そう顔に書いてある。

「ふうん、なんか意外だよね。ななせが、ああいう大人しそうな子とつるんでたのって。ねえ、楽しいの? ああいうタイプ」

「大人しそう、って。ミユキってば」

 七瀬は、笑う。笑いながら、こんな時に笑うのは嫌だと思った。だが、角を立てるのも同じくらいに嫌だった。一之瀬葉月の名がつくことで喧嘩して、葉月に迷惑をかけるのは嫌だった。

「そんなことないって。一緒にいて楽しいし。私、葉月が好きだよ」

 意識して、そう言った。はっきりと、聞き間違いなど許さないという意気込みで、それ以上の言葉を叩きつけたい衝動を抑え込んで、そう言った。

 好きという言葉は、後戻りができない言葉だからだ。わざわざ言う必要のない言葉でもある。七瀬は二人の言葉の棘から葉月を守る為だけに、言う必要のない言葉を、敢えて声に出して表現し、分かりやすい形で突き付けた。

 聞き手からすれば、挑発でしかなかっただろう。案の定、七瀬の言葉が含む微かな怒りを、二人は瞬時に気取った。ミユキは少しむっとした顔になったが、夏美は素直に謝ってきた。

 ただ、その眼差しは冷たかった。

「ごめん、言い方キツかった? でも、ミユキは、ななせの友達のこと、馬鹿にしてるわけじゃないからね……?」

 それくらいでムキになるなよ、と。言外に釘を刺された気がした。牽制に歯向かいかけた七瀬は何とか文句を呑み込むと「……うん。こっちこそ」と何事もなかったかのように答えて、笑みを作る。

 背後では男子二人が、気まずそうに沈黙を貫いている。この状況に、多少同情されているようだ。男の子はいいなあと、身勝手は承知の上で、七瀬は二人が羨ましかった。見栄だとか体裁だとか、女子は拘束具が多すぎる。邪魔な鎧を全て脱ぎ捨てて、曝け出した生身の気持ちで、好きな人に好きだと素直に伝えられたら、どれだけ気持ちがいいだろう。

 七瀬には、それが出来ていたはずだった。いつから、出来なくなったのだろう。そう思うと、余計に笑えてきた。

 丁度いい。これで二人に向ける笑みが、不自然なものにならずに済む。

 和解だと思ったのか、楽しげに談笑を始めたミユキと夏美の背後に、七瀬は一之瀬葉月の姿を再び見つけた。

 一瞬、目が合う。だが、葉月はすぐに目を逸らした。

 そうなって初めて、葉月がこちらのやり取りを心細げに見守っていた事に気づき、七瀬の心は申し訳なさと悔しさ、何よりもいじけた自分を見られた事への恥ずかしさでいっぱいになり、もう目の前の女子二人が作ったドーナツなんて滅茶苦茶に引っくり返して、調理室を飛び出したい気分になってしまった。

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