第3章 鏡よ鏡

3-1 新学期

『差出人:綱田毬つなたまり Re:久しぶり

 おはよう、七瀬ななせちゃん。昨日はメールありがとう。お返事が遅れてごめんね。私も七瀬ちゃんと会うのがすごく楽しみで、ちょっと眠れなかったくらいなの。

 もし都合が突然つかなくなったら、いつものやり方で調整しようね。私の方は大丈夫だと思うけど、緊急の時は公衆電話から七瀬ちゃんの携帯にかけます。

 じゃあ、十七時に袴塚西こづかにし駅で会おうね。待ってます。


 追伸:和音かずねちゃんね、前よりずっと強くなって、すごく格好いいの。七瀬ちゃんに会うって話したら、よろしくって言ってた。別の日に道場組で会うのも、楽しそうでいいよね。』


 ささやかな元気を届けてくれたメールを、幸福と切なさがない交ぜになった気持ちで閉じる。篠田七瀬しのだななせは携帯を紺色のプリーツスカートのポケットへ滑り込ませると、横断歩道前で信号が青に変わるのを待った。

 澄んだ青空の下で、桜の花弁はなびらが通学路に薄桃の雪を降らせている。冷えた風が白いセーラー服と黄色のタイ、右耳の辺りで一つにまとめた緩い巻き髪を揺らしていき、七瀬は小さく身震いした。

 春先に寒さが一時的にぶり返すことを、寒の戻りと言うらしい。七瀬はその知識を朝食の席で母の言葉から学んだが、あまり有難くないものが来てしまったと辟易した。短めに調節したスカートの下には体操着の半ズボンを履いていたが、露出した太腿がぴりぴりする。思わずポケットに手を入れると、鏡のカバーに指が触れてどきりとした。さっき、ここに携帯を入れてしまった。鏡を傷つけるので一緒に入れないよう気を付けているが、癖が抜けていなかった。

 携帯を通学鞄に入れ直すと、信号が青に変わった。歩き出した七瀬がもう一度ポケットに手を入れると、指先にプラスチックの滑らかさと、絵具のざらつきの両方を感じた。張りつめた気持ちがふわりと緩み、桜の香りのように意識を包み込んだのは、先程まで見ていた綱田毬からのメールだった。

 今朝気づいたこのメールに、七瀬は返事をしていない。携帯を持たない毬は自宅のパソコンからメールを打つので、七瀬が今返信しても、毬本人と放課後に会う方が先になる。他校の友人の顔を思い浮かべながら足取り軽く校門を通過すると、ぶわりと桜吹雪が七瀬を出迎えた。

 グラウンドには朝練に精を出す運動部員がいるだけで、校庭の先にそびえた中等部の校舎は、まだ眠っているかのように静かだ。七瀬の通う東袴塚ひがしこづか学園は、隣に高等部の校舎も建っているため敷地が広い。そちらにも生徒が少ない早朝だから、静けさがいや増すのだろう。

 日直でなければ、始業三十分前に登校なんてしなかった。ただ、今日は中学三年生になって初めての日直であり、相方の男子生徒とはほとんど話したことがなかったので、何となく朝の教室の鍵開けは、自分が担当しようと思ったのだ。七瀬はさやかな空気を胸いっぱいに吸い込むと、中等部の昇降口に続く桜並木へ駆け出した。身体を動かすのは好きなのだ。風を切って走ると気分がいい。

 それに、この桜並木を早く抜けたかった。七瀬は大の虫嫌いで、春の香りに誘われてきた羽虫が怖いのだ。桜を眺めるのは好きなのだが、花の盛りは虫地獄だ。一気に突っ切ろうと、七瀬は足を速めた。

 校舎にはまだ誰もいないと、無意識に決めつけていたのかもしれない。

 だから、桜並木を抜けて昇降口へ辿り着いた途端――校舎の内と外とを仕切る扉が急に開き、七瀬の鼻先にぐんと迫ってきた時、全く対応できなかった。

「……わああ!」

 悲鳴を上げた七瀬は仰け反り、尻餅をついて転んでしまった。回転した万華鏡のように視界がぶれて、桜の花弁と空の青色と校舎のコンクリートの灰色が、日差しの煌めきとシャッフルされる。

「あ……ごめん! 怪我ないか!?」

 ぎょっとした様子の男子生徒の声が降ってきた。思わず閉じていた目を開けた七瀬は、「あ」と小さく声を上げた。

坂上さかがみくん。おはよ」

「へ? 俺の名前、何で知ってんの」

 何故か顔を引き攣らせて及び腰になる、学ランの男子生徒――坂上拓海さかがみたくみは、不思議そうに目をしばたかせた。七瀬は呆れ顔で、妙に怯えている相手を少し睨んだ。

「知ってるも何も、クラスメイトだし」

 坂上拓海は、三年生になった七瀬の新しいクラスメイトだ。背丈はクラス内でどちらかといえば高い方で、特にうるさく喋るタイプでもなければ、過度に大人しいわけでもないのだが、今のように変な怯え方をして動きがぎくしゃくする事が時々ある。その珍妙な点を除けば普通の男子といった風貌だ。面立ちが優しそうなので、何となくモテそうな人だな、という印象を持つくらいには、七瀬は拓海の顔を知っている。何せ隣の席の男子なのだ。記憶に残らない方がおかしい。

 それなのに、向こうは七瀬の顔を覚えていないようだ。嘆息した七瀬は、起き上がろうと身じろぎした。ともかく、七瀬が盛大に転んだのは、挙動不審が板についた、この同級生の所為らしい。

「あ、ごめん。驚かせて……えっと。はい」

 すっと手が差し伸べられ、七瀬はびっくりして後ずさった。

「わ、わ、いいから! 大丈夫!」

 拓海はぽかんとした顔で掴み返されなかった手を見下ろしていたが、やがて「そっか」と呟くと、気まずそうな逃げ腰で、背後へ数歩退いた。

 強がりを言わずに手を借りれば良かったと、七瀬まで決まりが悪くなる。兎に角そそくさと立ち上がると、スカートについた泥をはたいた。

「早いね、坂上くん。教室に着くのは、私が一番だと思ってたのに。鍵、開けてくれたんだ?」

「ああ、うん」

 気を取り直して話しかける七瀬に対し、拓海の方はまだ他所を向いたままだった。それだけでなく、すすす、と七瀬からさらに距離を取っている。

 厚意を無下にして悪かったと思うが、七瀬は少しむっとした。拓海はこちらの怒りに気づいていないようで、黒髪をいじりながら「えっと、さ」と居心地悪そうに続けた。

「教室の鍵は、開けといたから。日誌も、俺の机の上に置いてる。だから、もう職員室行かなくてもいいよ」

「分かった。ありがと。じゃあ私、その日誌書いとくから。勝手に取るね」

「へ?」

「じゃあね」

 素っ気なく言い残し、七瀬は昇降口の扉をくぐった。背後で「篠田さん?」と慌てた声が聞こえたが、もう聞こえない振りをした。ちょっとした仕返しだ。妙な怯え方をされるのは面白くなかったのだ。

 多分それは、今七瀬が抱える問題と、核の部分が似ている所為もあるだろう。八つ当たりをしている自覚はあったが、拓海の登場に驚いて転んだのは事実だ。

 その問題について、自然と回想していると――背後から、可哀想なくらいに狼狽えた声が追いかけてきた。

「篠田さんっ。えっと、転ばせてごめんな? 日誌、四時間目からは俺が書くからっ」

 七瀬は、振り返る。ようやく、きちんと笑えた気がした。

「……うん。坂上くん。鍵と日誌、ありがとね」

 不機嫌を払拭した笑顔を見せると、ほっとした様子の拓海を残して、七瀬は下駄箱前で靴を履き替えた。上履きが擦れるゴム質の音を静寂しじまに響かせて階段に向かうと、一段目の手前に据えられた姿見に、朝日が白々と反射した。歩きながら目をすがめた時、階段を下りてくる誰かと肩がぶつかった。

「あ、ごめんなさい」

 振り返って謝ると、相手も会釈してくれた。同じ学年の女子生徒だと気づいたが、一度も話したことがなくクラスも違う相手なので、七瀬は曖昧に笑い返し、二つ目の姿見が飾られた階段の踊り場を通り過ぎた。

 こんな体たらくでは、拓海の事を言えた義理ではない。しっかりしないと、と七瀬は気持ちを切り替えると、楽しみな放課後で浮き立つ心を抑えながら、早朝の教室へ急いだのだった。

 階下の少女の呟きを、七瀬が聞くことはなかった。


「……。篠田七瀬。次は、あの子でいっか」

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