2-20 宣誓

「まず、撫子さんの世界でごく最近まで生き残っていたメンバーを挙げていきましょう。三浦柊吾君。日比谷陽一郎君。両親。学校関係者。――ここから、撫子さんがこれから生きていく上で、確実にいなくては困る人間を引いていきます。すぐにでも消去法といきたいところですが……果たしてこの前提は、本当に正しいものなのでしょうか?」

「兄さん、何を言っているの?」

「撫子さんが最近まで『見えて』いたのは、三浦柊吾君。日比谷陽一郎君。両親。学校関係者。……本当に、これだけですか?」

「そうよ。それだけに決まってるじゃない」

「それは、誰が言ったのです?」

「……学校の、皆よ」

「学校の皆」

 くつくつと、和泉は笑った。乾いた笑い方だった。じわじわと雰囲気を妖しげなものへ変えていく兄をベッドから見上げた妹の顔が、はっきりと引き攣った。

「何が……可笑しいのよ!」

「いえ。失礼致しました。それにしても、妙ですね。貴女も、学校の皆も、『雨宮撫子』さんではないというのに。何故断言するのです? 『見えて』いるのが、先程のメンバーだけだと。その確信を、何故疑わないのです? 何を根拠に、そんな結論に至ったのです? 一体何を理由にすれば、それほどまでにはっきりと、メンバーを特定できるのですか……?」

「そ、そんなの、……っ、知らないわよ!」

「知らないなら、教えて差し上げましょう。撫子さんの『目線』と『態度』。この二つを元にしたクラスメイト達の判断によって、根拠のない結論が蔓延するに至ったのです。氷花さん、貴女は小学五年生の時、撫子さんと同じクラスでしたね。彼女の事を、どう思いましたか? 碌に会話は交わしていないのでしょう。印象だけで結構です。何を思いましたか。聡明な少女という印象を、持ったのではありませんか? 楚々とした振る舞い。落ち着いた物腰。あまり感情を露わにはできない性質ですが、だからといって、彼女は人形ではありません。血の通った人間です。生きている、思考する、言葉を話す、感情のある、慈悲深い、そして――『憎悪』もする、人間なのですよ……?」

「……分からない! あんた、何言ってるのよ! 分からないわ!」

「ラスコーリニコフにかぶれた貴女に、柊吾君に代わってもう一度、『罪と罰』の概要をお話ししましょう」

 ブラインドを背にした和泉が、顔色を失くした妹を見下ろした。逆光の所為か、瞳を照らす明かりを失った青色は、酷薄な薄暗さを宿していた。

「貧乏書生、ラスコーリニコフ。彼は独自の犯罪理論を己の中で育て上げ、その理論に基づいて、阿漕あこぎな商売をする高利貸しの老婆を、斧で叩き殺します。――ここまでは、柊吾君も貴女に説明しましたね。しかし、タイトルをよく考えて下さい。この本は『罪と罰』です。柊吾君の説明では、まだ不足していますね。彼の説明には『罪』しかなく、貴女の齧り取った犯罪理論も『罪』の部分に相当します。――『罰』を、お忘れですよ。氷花さん」


 きい、と。扉が軋む、音がした。


 スライド式の扉が静かに開いていき、あまりにゆっくりとした動きの負荷で、扉が軋む。氷花はベッドで上体を起こしたまま、目を大きく見開いた。

「ラスコーリニコフは、世の善行の為ならば、非凡人はあらゆる規範を踏み越える権利を持つという理論に則り、犯罪を遂行します。ですが――その時、彼にとって予想外の出来事が起こりました。老婆を斧で叩き殺した現場に、老婆の妹である女性、リザヴェータがやって来たのです。犯行現場を押さえられたラスコーリニコフは、この女性をも手にかけてしまった。――阿漕な老婆だけでなく、関係のない、妹まで。ラスコーリニコフは、激しい苦悶と罪の意識に苛まれ、徐々に、精神的に追い込まれていく……。紺野沙菜さんの『罪』は、花を切り取った事。そして『罰』が彼女の死に値するのなら――ラスコーリニコフをかたった悪鬼、現代の『罪と罰』。貴女にはどんな『罰』が下されるのでしょうね。……ただ、この展開は、僕にも予想外でした」

 涼しく瞠目した和泉は、開け放たれた扉を見る。

 そして、友好的に笑いかけた。

「こんにちは。雨宮撫子さん。貴女はやはり、見た目の印象通りの聡明さを秘めた少女でしたね。きっと、たくさん考えたのでしょう。己の身に起こった事を、気が遠くなるほどの孤独の中で、一人きりで考えたのでしょう。そして、気づいたのですね。誰の〝言葉〟をきっかけにして、人が消えた孤独な世界に、連れて来られてしまったのか。……気づいた時から、孤独に戦おうと決めたのですね。クラスメイトさえも欺きながら。……そして、機会を伺っていた。己に悪意を向けた元凶を叩けば、こんな『見えない』世界は終わる。……そう、至ったのですね? 貴女は、調べたのですね。僕の不肖の妹の事を。ここに昨日、我儘で入院した事を。壊れゆく世界の中で、『愛』だけが執着の理由にはならないでしょう。『憎悪』もまた、『愛』に引けを取らないほどに強い感情でしょうね。『敵』の存在は、生きていく上で、時として、非常に――『必要』な存在です。……貴女は。『見えて』いたのですね……?」


「くれの、ひょうか」


 片言の声が、病室に響いた。

 真夏の風鈴に似た、凛と涼しげな声だった。

 背の低い、針金のように痩せた身体。白いブラウスに、青と白のチェック柄のスカート。襟に留められたリボンタイで、金色のボタンが光っている。高い位置で少しだけ二つに結われた栗色の髪が、身じろぎに合わせて揺れた。

 呉野和泉の言葉に、全く反応を示さない少女――雨宮撫子が、顔を上げた。

 琥珀色の瞳は、どこか焦点がずれている。現実を真っ直ぐに捉えることが叶わない瞳は、〝言霊〟で幻惑されて一時的に正気を手放した日比谷陽一郎を見る者に彷彿とさせた。

 氷花は、凍りついたように動きを止めて、撫子を見つめていた。撫子の目も、氷花の姿を真っ直ぐに捉えた時、白い手がスカートのポケットへ伸びた。

 その手が、ポケットから引き抜かれた時――折り畳み式の小さなナイフが握られていて、きんっ、と怜悧れいりな音を響かせて、刃が伸びた。

 氷花が、顔面蒼白になった。

「あ、あ、あ……ぁぁぁああああ!」

 どちらの叫びか分からない悲鳴と怒号が迸った。真の処刑場と化した病院の一室で、やいばを構えた撫子が氷花に向かって駆け出した。

 逃げようとした氷花の鼻先に、大きく振りかぶられた刃先が掠める。「ひっ」と短い悲鳴を上げた氷花がベッドへ倒れ、頭が勢いよく枕へ沈んだ。撫子は身軽にベッドへ飛び乗ると、その頭目掛けてナイフを思い切り突き立てた。くぐもった音が響き渡り、間一髪避けた氷花の耳元で、ナイフが枕を刺し貫く。撫子が刃を引き抜いた瞬間、ぶわりと羽毛が花吹雪のように舞い散った。

「い、嫌っ、やめ、助け……! 兄さん! 何見てんのよ! 止めなさいよ!」

 氷花は撫子の身体を突き飛ばしたが、その手の平にも撫子がナイフを向けた事に気づき、身体を強張らせ、ベッドから落ちた。耳をつんざく落下音とともに、脇腹を打ち付けた氷花の顔が歪む。だが撫子がベッドの上でゆらりと立ち上がったのを見るや否や、恐怖の形相で床を這い始めた。

「さて。撫子さんに貴女が『見えて』いたという前提を加えて、先程の考察の続きと参りましょう。生存メンバーは、三浦柊吾君、日比谷陽一郎君、そして貴女。あとは両親と学校関係者」

「こんな時に何言ってるのよ! 助けなさい! 助けなさいってば!」

 撫子が、ベッドから降りる。床を這う氷花が、腹部を押さえて身体を折った。

「撫子さんは『陽一郎とキスをした』という貴女の〝言霊〟によって変容した世界で、一部の人間だけが『見える』ことを許されました。生存メンバーとして最後まで残れば残るほど、撫子さんに必要とされている、すなわち『愛』があるということになります。……ただし。この〝言霊〟に則るならば、実はこの世界では『日比谷陽一郎』君だけは、絶対に生き残るようになっているのですよ。陽一郎君を起点として巻き起こった狂気です。彼はおそらく、どんなことがあろうと最後まで『見える』側として残るでしょうね。残らなければ、彼女の世界は成り立たないのだと思います。肉親、教師が見える理由も同様です。彼らは撫子さんが生きていく上で、本当に、最低限、いなければまずい人達です。――氷花さん。貴女は先程、撫子さんが陽一郎君の事を好きだと断言しました。果たして、そこに『愛』はあるのでしょうか? そして、同時に――そんな生命の維持如何いかんにかかわらず、最後まで、本当にぎりぎりまで残った人が、一人いますね。その人物にだけ唯一、撫子さんは助けを求めています。その人物は、それを彼氏である陽一郎君が頼りないからだと解釈していたようですが、僕は違うと思いますよ。氷花さん。それは一体、誰の事でしょうか……?」

「……っ、『雨宮撫子は、人が見えない』! 『あんたは一人ぼっちなのよ』! 寂しい女! こっちに来ないで!」

「無駄ですよ。貴女の〝言霊〟は、もう彼女には届きません。壊れた女と、先程仰ったのは貴女でしょう? 彼女に言葉が届かないようにしたのは、他の誰でもない、貴女なのですよ……?」

「助けなさいよ! 馬鹿兄貴! あ、う、あああ!」

 撫子の細腕が描いた一閃が、氷花の髪を掠った。長い黒髪が腕に絡み、「くれの、ひょうか」ともう一度呟いた撫子が、蜘蛛の糸のように巻き付く髪を引っ張った。強い引き方ではなかったが、床に伏せた氷花は最早動けず、涙が目の縁に盛り上がった顔のまま、がたがたと恐怖で震え続けた。

「……。やれやれ。無様なものですね。貴女の破滅に興味がある身としてはもうしばらく観察していたいのが本音ですが、撫子さんが社会的に抹殺されるのは僕の本意ではありません。仕方ないですね。お助けしましょう」

 嘆息した和泉が、ナイフを緩やかに掲げた撫子へ近づいていく。

 その気配にも、靴音にも、声にすら撫子は反応しなかった。

 ただ、静かに泣いていた。瞳に涙を薄く溜めて、理不尽を成した仇を見下ろしていた。

 かつて、己の身に降りかかった悪意を受け止め、慈悲の心で許した少女。その少女が初めて他者に向けた、悪意に対する制裁として、白い掌に握りしめた『武器』。

 敵を討てば、終わる。〝言霊〟で暴虐された生傷だらけの自我を必死に繋ぎ止めて、朦朧とする意識で弾き出した、一つの答え。そう信じた末の、決死の凶行。

 凄絶な覚悟と狂気の入り混じった刃に、和泉の手が、触れかけた時だった。


 ――足音が、狂乱の病室に向かってきた。


 誰の耳にも大股でやって来たと分かる足音を聞いた和泉は、つと柳眉りゅうびを寄せると、撫子の手から急いでナイフをもぎ取ろうとした。

 だが、開かれたままの扉から、和泉達の前にその人物が躍り出る方が早かった。


「――呉野ぉ!」


 大柄な体躯に短髪、白いカッターシャツに、青と白のチェック柄のズボン――三浦柊吾だった。

 病室に駆けつけた柊吾は、三者の鬼気迫る様子に気づき、息を呑んだ。

「あ……、雨宮が、なんで……」

 発しかけた戸惑いの声は、リノリウムの床へ膝をつく撫子がナイフを握っていて、その切っ先が氷花の喉元に向いていると気づいた途端に止まり、さっと表情が緊張したものへ変わった。

「雨宮ぁ!」

 叫んだ柊吾が、撫子の元へ滑り込んだ。氷花を突き飛ばし、華奢な腕を握り締める。撫子の目が見開かれ、喉から細い悲鳴が迸った。ナイフを握る撫子の手に力がこもり、制服のシャツを着た柊吾の腹を、一度、二度と刃先が叩く。生地を引っ掻く刃先が大きく振れて、柊吾の頬を鋭く撫でた。

 鮮血が、流れ出す。柊吾の顔が、痛みで歪んだ。『見えない』人間に怯えた撫子が抵抗する度、いくら柊吾が押さえ込んでも、刃先は小刻みに振れ続ける。柊吾は埒が明かないとでも思ったのか、刃先をまるごと、自分の手の平で強く掴んだ。

「っ!」

 呻くような悲鳴と共に、溢れ出す血潮。撫子の目に、怯えよりも遥かに強い、驚きが浮かぶ。

「雨宮……ごめんな。助けてって、言われたのに。俺、何もできてなかった。……ごめん。お前がまた、『見える』ようになったら……その時にまた、謝るから。だから……怖がるな。雨宮。俺だ。三浦だ。ここにいる。……待ってろ。今、分かるようにするから」

 柊吾は撫子の両手を掴む手から、片方を外した。撫子は、瞳に揺れる怯えの色を再び強めた。がたつく刃の切っ先が柊吾の腹を何度も掠め、やがてシャツから薄く血が滲んでも、柊吾は何も言わなかった。ただ、床に、手を伸ばした。

 み

 う

 ら

 書き終わりかけた瞬間、撫子の手から血で滑ったナイフが落ちた。からん、とナイフが涼やかに弾み、柊吾の書いた名前を潰して、床に血の滴が飛散した。

 台無しになった血文字を見ても、柊吾は冷静だった。落胆を顔に一切出さず、苦悶の色一つ浮かべずに、ただ、ふと思い直したように愁眉しゅうびを開き、新たな覚悟に臨む顔で――傍らで怯える少女の為に、新しく文字を、書き直した。

 今度は――たったの、一文字。


 柊


「……あ……」

 撫子が、まるで赤ん坊のように声を上げた。

「ひいらぎ」

 空っぽの両手を、撫子は見下ろす。血で汚れた手の平。自らの血ではない、誰かの血液。命の温度を手に乗せた撫子の目が、もう一度床を見る。

「ひいらぎ。……しゅう。……しゅう、ご……」

 そして――――柊吾を、見た。

「みうらくん」

 血の赤色に塗れた撫子の白い手が、そろりと、柊吾の顔へ伸ばされていく。やがて震える指先が、血を流す柊吾の頬に触れた。

「みうらくん……みうらくん。……みうらくん、みうらくん、みうらくんっ、う、ああ、あああぁっ」

 透明な涙を流す撫子の手が、柊吾の肩に、胸に、触れていく。柊吾はしばらくの間されるがままだったが、血で汚れたままの手で、撫子の肩にそっと触れた。血が、服に染みていく。柊吾の胸板へ倒れた撫子は、柊吾の名前を何度も呼んで、声を上げて泣き続けた。

 血液だけを絆にして存在を確かめ合い、すれ違い続けた時間を埋めるように抱き合う二人へ、誰も何も言わなかった。撫子がしゃくり上げる声だけが病室に流れ、やがて廊下から近づく複数の足音に反応した和泉が、得心したように微笑んで、扉をぴたりと閉めた。

「……完璧です。『愛』はやはり、こうでなくては」

 足音が遮断され、四人きりの時間が継続された、白と赤に染まる空間で――泣きじゃくる撫子に胸を貸していた柊吾は顔を上げ、厳しい眼光で一点を睨み据えた。

 視線の先には――呉野氷花。

 床に尻餅をついて茫然とする黒髪の少女だけを、柊吾は睨み据えていた。

「やはり来ましたね。柊吾君。この子が退院するまでに、必ず来ると思っていましたよ。――では、要件を伺いましょう。君は何の為にここへ来ました? 見舞いではないのでしょう?」

「宣戦布告に決まってる。知ってたくせに、よく言う」

 柊吾は和泉を軽く睨み、撫子を支えていない方の手を持ち上げると、氷花へ人差し指を突き付けた。

 血に濡れた指先が、仇を真っ直ぐ指でさす。氷花はそこから零れる血の滴に慄いて、大きく身を引いた。

 そんな仇の醜態を、柊吾は容赦なく睨みつけながら――恫喝を込めた言葉を、強い語調で、言い放った。

「俺は、普通科の高校に行くから。勉強、できるようになってやる。賢くなって、偉くなって……お前みたいな奴を社会的に抹殺できるような力、つけてやる。〝言霊〟だろうが何だろうが、お前がやったのは犯罪で、罰せられるべきなんだってことを、俺が示してやる。絶対だ。首洗って、待ってろ。……ぶっ潰す」

 指の先から血の玉を降らせた柊吾は、宣戦布告を〝言挙げ〟した。


「ぶっ潰す! 呉野氷花ああああぁぁぁ!」



【第2章・呉野氷花のラスコーリニコフ理論:END】→

【NEXT:第3章・鏡よ鏡】

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