2-19 鬼

「紺野沙菜。大人しくて地味でブス。友達を自力で作る事すらできなくて、一緒にいた子のおかげでなんとかクラスと繋がれてた、妬みと僻みとやるせなさと絶望で身体ができているような、劣等感の塊みたいな女の子。――彼女を狙ったのは、あの頃の私の〝言霊〟の実験よ。あの子が誰に対して一番強い羨望を持っているか、分かっちゃったんだもの。ナデシコの花を植えている時に、クラスの子がやたらとナデシコナデシコってうるさかったのよね。花と同じ名前の雨宮撫子が、脚光を浴びたってわけ。……そんな様子を、じいっと見てた女の子。『弱み』を遠回しに突き付けた時、それでも効果が得られるか。試してみたかったの」

 艶めく髪を指でき、氷花は陶然と笑みを深めた。

「だから、やったわ。『雨宮撫子』の名前を、しつこく何度も出してみた。それで、たまに褒めてみる。雨宮撫子の立ち居振る舞い、顔。そういうものを、褒めてみる。……見えるようだったわよ? 剥き出しの嫉妬と劣等感が。口が達者なわけでもないのにクラスに馴染んで、顔も自分よりずっと綺麗。息苦しさなんてまるで感じさせない涼しい振る舞い。可愛いわよね、羨ましいでしょう? 肌も色白で、綺麗なものに思うはずよ。だからこそ……憎いんじゃないかしら?」

「……」

「効果は、すぐに出たわ。まさかあんなに派手な事件を起こすとは思わなかったけど。それに転校しちゃったし、最後はつまらなかったわね」

「煽るものでは、ありませんよ。劣等感というものは」

 答えた和泉は、何かに見切りをつけるようにかぶりを振った。

「何故、ああいう風に紺野沙菜さんがしなければならなかったのか。貴女は実験だと言いながら、まるで分かっていないのですね」

「……ふぅん? じゃあ、教えなさいよ」

「最初はおそらく、雨宮撫子さんの花だけを切ったのでしょう。氷花さんが駆り立てた嫉妬が、彼女にそんな短絡的な行動を迫ったのです。……ただ、彼女はそんな凶行を実行に移すには、あまりに心が優しく……いえ、もっと適切な言い方をしましょうか。小心者です」

 曖昧な言葉をいとうように、和泉はきっぱりと言った。

「だからこそ、行為に及んでから相当焦ったはずです。級友の花を無残に切り落としてしまった。どうしよう。犯人が自分だとバレてしまったら……。罪の意識もあったでしょうが、発覚の恐れの方が格段に強かったはずです。そうして、ナデシコの花を一輪切り落とすという彼女の『罪』は――もっとたくさんの『罪』を呼び寄せる結果となりました」

 言葉を切った和泉は、腕に提げた鞄から一冊の文庫本を取り出すと、ベッドの氷花へ見舞いの花のように手向けて見せた。

 ――『罪と罰』。著者はドストエフスキー。

 しかし、上巻のみだった。

「木の葉を隠すなら森の中へ。悪意を隠すなら悪意の中へ。一輪だけ切り取られたナデシコの花。その憎悪の行き着く先が、雨宮撫子さんである真実を隠す為にすべき事は――憎悪の対象が、誰なのか分からないようにしてしまう。これに尽きると思いますよ。悪意をぶつけられた張本人である撫子さんや、柊吾君のように感情の機微に繊細な人間は気づいていたようですが。その後の転校は、彼女が保護者へ強く訴えた末に実現したもののようですね。苛められているから転校させてほしい、と。……自殺、でしょうね。その後の事故は。おそらく」

「それくらいで死んじゃうなんて、軟弱ね」

「追い込んだのは、貴女ですよ。貴女の花だけが切られなかった意味、分かりませんか? 彼女なりに精一杯、貴女を弾劾していたのだと思いますよ。自分を狂わせた元凶に、どこかで気づいていたのでしょう」

 語りに一区切りをつけた和泉は、氷花の手に握られたままの携帯を、ぱっとおもむろに取り上げた。

 ぽかんとした氷花は、すぐさま整った容貌を怒りの色に染め上げた。「何するのよ! 返して!」と文句を喚きながら手を伸ばしたが、和泉は『罪と罰』を代わりに押し付けただけで、氷花に携帯を返さなかった。

「三浦柊吾君は、貴女を仇だと呼びました。その〝言挙げ〟に込められた感情が憤りであれ殺意であれ、僕は彼を尊敬します。それは紛れもない『愛』だからです。友愛であれ恋愛であれ家族愛であれ、彼は薔薇を育てるように『愛』を大切にしています。僕は絆を大切にする人の事が好きなのです。……僕は貴女の事も、妹として大切にしようと思っているのですよ。氷花さん」

「……何よ、突然」

「だって、そうでしょう。貴女は柊吾君にとって『仇』ですが……僕にとっても、『仇』なのですから」

 和泉は、普段と寸分違わない調子で、笑った。

「貴女という〝言霊〟を悪意で弄ぶ者に抗う、強い意志を持った者達を、僕は尊敬しています。憤りであれ殺意であれ、それらの情動は僕に欠けたものだからです。貴女には『愛』がありませんが、僕にはおそらく『憎悪』がない。『愛憎』が欠け合う兄妹など、全く、可笑しなものですね」

「……」

「親殺し。……忘れたとは、言わせませんよ。ですが僕は、僕自身が貴女に直接手を下そうとは思いません。そんな情動がないのです。……それに。『愛』していますよ。氷花さん。仇討の気概を持たない僕は、ただ貴女の破滅を見届けたいのです。貴女がその身を滅ぼしていくのを、ただ観察させて頂きたいだけなのですよ。あるいはこの感情が『憎しみ』でしょうか。あまりぴんと来ませんね」

「……。あんた、狂ってるわ」

「貴女なら、そう言うでしょうね」

 和泉は暴言を意に介さず、氷花から奪った携帯を振って見せた。

「貴女が柊吾君一家の『弱み』探しの為に使用した、携帯電話。養父の方に僕から連絡しておきましたので、今日中に止められると思います。まだ使えるようですが、時間の問題です。高校まで携帯はお預けですね」

「……。はあっ!? ちょっと、どういうことよ!」

「氷花さんも年頃ですので、少々いかがわしいのではないかと危ぶまれるサイトの数々を、ネットを利用して閲覧ばかりしている、と。僭越ながらリークさせて頂きました。このままでは教育上大変よろしくない上に、多額の請求が来る日も近いと警告したところ、すぐさま解約の手続きを行うと請け負ってもらえましたよ。良かったですね。形ばかりのご学友との御縁、これで後腐れなく断ち切れます」

「……っ! 良くないわよ! 何てこと言うの! 出鱈目じゃない! ……そんなのっ、見ないわよ! 死ね! 死ね! 死ねぇぇっ!」

 羞恥と怒りを爆発させて赤鬼の形相になる氷花をよそに、和泉は涼しく澄ましていた。携帯をぽんと懐へ収めると、氷花が受け取らずにベッドへ落ちた本を見下ろしている。

「貴女の学校で、面白そうな国語の授業があったそうですね。――読書紹介。貴女はどうせ、転校を名目にろくに着手していなかったのでしょうが、見栄だけはしっかり張ったようですね。提出予定の本のタイトルに、『罪と罰』を挙げるとは。しかし貴女、中身を全く読んでいませんね? 下巻は貴女の部屋をいくら探しても見つかりませんでした。最初から読む気などなかったのでしょう。背表紙のあらすじに記されたラスコーリニコフの犯罪理論に心酔し、そこにのみ焦点を絞って調べましたね」

「……そんなこと、ないわよ」

「貴女の演説、なかなか面白かったですよ。ですが、他者の理論を持ち出しては、勝てる喧嘩も勝てませんね。初めから貴女に、勝機などありませんでしたが」

「そんなことないわ!」

 きっ、と顔を上げた氷花が和泉に食ってかかったが、和泉は首を横に振り「いいえ、貴女は柊吾君には勝てません。何度争っても、それは変わらないでしょう」と同じ〝言挙げ〟を繰り返した。

「彼が何故、三浦『柊』吾君という名前なのか。氷花さんには分かりますか?」

「はあっ? 何それ。他人の名前なんか、どうでもいいわよ!」

「まあ、そう仰らずに」

 和泉は氷花を宥めると、窓際へ歩み寄った。定規で引いたような白い日差しがブラインドから細く射し込み、異国の髪色を金色に輝かせた。

「柊吾君の名前には、ヒイラギという植物が入っていますね。ぎざぎざした棘のある葉はクリスマスの飾りつけにも使われますし、氷花さんも見た事があるはずです。触ると棘が手に刺さり、ひりひりと痛い。そんな痛みを表現した『ひいらぐ』という言葉があります。この言葉が和名の由来だそうですよ」

薀蓄うんちくね。あんたのそういう、うざったいところ、嫌いよ」

 氷花は露骨に嫌がったが、和泉は気にした風もなく、窓に背を向けて解説を続けた。

「ヒイラギは、古来より魔除けの植物と考えられてきました。日本には『柊鰯ひいらぎいわし』という風習があり、ヒイラギの小枝に焼いた鰯の頭を刺して、正月や節分に玄関先へ飾ります。鰯の臭気で、家に近づく鬼を追い払うのです。ですが逆に、鰯の臭気で鬼が家に誘われてくるという解釈も存在するようですね。しかし、臭気で誘われてきた鬼の目は、ヒイラギの棘が突き刺します。よって、鬼は家に近寄れません。別名『オニノメツキ』とも呼ばれます。『古事記』にもヒイラギが神聖な植物である事を示す話が所収されていますので、興味があれば調べてみると良いでしょう。『罪と罰』を雑にしか読めなかった貴女が、自発的に調べるとは思えませんが。これを機に、読書を楽しんでみては如何いかがです?」

「兄さん。……結局、何が言いたいの?」

「雨、降ったでしょう。もし、あのまま柊吾君が貴女の〝言霊〟を打ち破れなかったとしてもです。あの時降った雨が、柊吾君を救ったはずです。衣服が雨水を吸えば、立派な目印になりますからね。……状況は全て、貴女ではなく、柊吾君に有利なように動くかと」

「何が言いたいの!」

「……。相手は『ヒイラギ』です。『鬼』の貴女が、勝てるわけがないでしょう?」

 目元に前髪の影を蒼く落として、和泉は笑った。

「『愛』が深い名前だと僕は思いますよ。遥奈さんのお身体を思うと、産まれてくるお子さんの事がとても心配だったのでしょう。その昔日本では、女児よりも男児の方が身体が弱く、丈夫な発育を願って女児のふりをさせたり、女児の名前を付けたりしたという風習もあります。どことなく、それらと似た祈りを感じませんか? 両親の授けた、慈悲深く嫋やかな『愛』の御加護です。無病息災を願われたのだと思いますよ。名前は両親が子供へ捧げる初めての愛情だと、あの少女も言っていましたね。父親が早逝したところで、その守りは不変です。彼は美しい『愛』に守られています。貴女では敵いません。何せ、貴女はグロテスクですからね」

「……殺す」

 氷花は凄んだが、和泉は「ところで」と話題を変えて、妹を見下ろして微笑んだ。その笑顔は、今まで三浦柊吾に向けてきた笑顔とは、質が異なるものだった。

「雨宮撫子さんは、結局誰の事が好きだったのでしょうね?」

「はっ? 何を寝ぼけたことを言っているの。日比谷陽一郎でしょ」

「本気で、そう思いますか?」

「……?」

「雨宮撫子さん。貴女が撒き散らした狂気に両目を塞がれ、人が『見えなく』なった少女。彼女の目を通した世界では、『見える』人間がどんどん減っていきましたね。その一方で、彼女にとって『必要』な人間になればなるほど、『見える』側の人間として生き残りました」

「そうよ。そして残ったのが日比谷陽一郎じゃない」

 他人の努力を嗤うように、嘲った氷花が胸を張った。

 和泉も笑みを返したが、歪な笑みのままだった。

「貴女が撫子さんを傷つけたことで出来上がった、あの世界のルール。しばし一緒に考えて見ませんか?」

「ルール? 壊れた女の妄想の、一体何を考えろって言うの?」

「興味深いですよ。実に。……貴女は先程、紺野沙菜さんを追い詰めたことを『面白い』と言いましたね。僕にとっては、こちらの方が面白いのですよ」

「……説明、しなさいよ」

 氷花が、笑みを消した。何かがおかしいと気づき始めたのか、顔が、微かに強張った。

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