2-9 犠牲者

 気づけば、教室はしんとしていた。クラスメイト達は、息を潜めていた。

 先程までのような、鬱々とした沈黙ではなかった。満ちた空気はもっと軽く、もっと秘密裏で、仄かな羨望の熱があった。

 窓から上半身を晒し、大勢の視線のスポットライトを浴びた、長い黒髪の少女は――観客の前で一礼する女優のように、艶然えんぜんわらった。

「来てくれるって言ったから待ってたのに。遅かったから来てみたの。取り込み中だったかしら?」

「あ……ううん、ごめん! 別に、大したこと、ないから……っ」

 肩を弾ませた陽一郎が、慌てた様子で弁解した。今更のように涙をごしごしと手の甲で拭う陽一郎へ、窓から腕が、すうと伸びた。

 半袖から露出した腕は生白く、恐ろしいほど冷えて見える。幽鬼ゆうきのような細指でハンカチを差し出した少女は、気遣わしげな表情を、整った容貌の上に乗せた。

 まるで、面を被ったようだった。まるで、化粧のようだった。笑顔という名の化粧の面を、顔に被せたようだった。

「……!」

 柊吾の腕に、鳥肌が立った。

 悪寒がざわざわと肌をまさぐり、小波さざなみのような緩やかさで全身に広がっていく。羽虫にたかられているような生理的嫌悪が心臓を鷲掴みにし、前触れもなく絞られた気道から、ひゅうと短く空気が洩れた。

「……っ、は……っ?」

 柊吾は反射的に、ぎゅっと拳を握り込んだ。爪が食い込むほど、強く、強く。痛みを無理やり知覚し、そちらに意識を向けざるを得ないほど力んで初めて、ようやく身体を巡った不快感は薄れ、本物の波のように引いていく。

 ――何だ? これ。

 疑問が湧いたが、今はそれどころではなかった。

 陽一郎が、少女の元へ近寄ったのだ。

 ハンカチを、受け取ろうとしただけだ。見たら分かる。だが、何故この組み合わせなのだ。多分それが、柊吾を始めとしたクラスメイト全員の総意だった。

 この少女は、少しばかり目立つ。有名人というほどではないが、顔を知っている者は多い。柊吾も小学五年ではクラスが同じだったので知っている。

 話した事がほとんどない為、あまり記憶には残っていないが、唯一印象に残っているのは――目つきが悪い、にやにやした女だった、という事くらい。

「……」

 もうじき転校すると聞いていた。その情報を知った時、柊吾は内心安堵したのだ。この少女は、人を見る目が時折鷹のように鋭くなる。気づいている人間は少ないようだが、柊吾にはそれが不気味であり、縁が完璧に切れる事を、心のどこかで喜んでいた。

 少女の唇は、三日月形に吊られていた。色つきのリップでもしているのか、その三日月はぬらりと赤い。腰ほどの長さの黒髪を優雅に垂らして、窓枠にしなだれかかる、中学生とは思えない妖艶さを振り撒いた美貌の少女は、昨日、隣のクラスで盛大に別れを偲んでもらい――確か、今日、いなくなる。

 その少女の名前を、柊吾はかろうじて思い出せた。

 陽一郎が、先程口にしたからだ。

「呉野……氷花」

 ――五年の時にさ。皆でナデシコの花を育てたよね。

 色がばらばらの種をもらって。何色になるんだろって楽しみにしててさ。

 撫子は同じ名前だから、よくクラスの子がちらちら見てたね。

 紺野こんのさんも、気にしてた。名前が同じだけなのにね。

 でもさ、せっかく花が咲いて、何色なのか分かって、クラス全体ではしゃいでたのに……全部、茎のところから鋏で切られちゃったの、残念だったよね。

 ねえ、柊吾。覚えてる?

 ――確か呉野さんの花だけ生き残って、他は全滅……。

 陽一郎の言葉が、不穏にフラッシュバックする。柊吾の頭は、急速に研ぎ澄まされていった。思考と視界がクリアになり、倦怠感で弛んだ意識が、鋭敏な張りを取り戻す。

 ――犯人探し、ブームになったよね。結局アレ、誰だったんだろう……って。僕、今でも時々気になるんだ。


 まさか。


 一瞬浮かんだ想像を、柊吾はすぐに打ち消した。ただの直感に過ぎないからだ。だがその直感は柊吾に明確な猜疑を残し、猜疑のフィルター越しに見る氷花の笑みは、凸面鏡とつめんきょうに映したかのように歪んでいた。非の打ち所がない笑みは、誰の目にも美しく映るはずなのに、生まれた猜疑が育っていく。

「……」

 中学に入学してから、あれは柊吾の勘違いだったのだろう、と無意識に思い込もうとしていたが、とんだ思い違いだったらしい。人間たかだか三年程度では、それほど変わらないという事だろうか。だとすれば、よく周りの目をここまで誤魔化してこれたと思う。そして今、誤魔化さないのは一体どういうことなのか。

 ――やはりこの女は、目つきが悪い。

 思わず敵愾心てきがいしんが湧き上がるのを止められないほど、氷花の笑みには意地の悪さがあった。人の神経を逆撫でし、侵略し、脅かすような脅威があった。そんな陰鬱な笑みを浮かべた少女が、何故か陽一郎に話しかけている。

 明らかに妙な組み合わせだった。平凡な陽一郎と、美貌の持ち主の氷花。悪いとは思うが、つり合いが取れていない。クラスが昔同じだったこと以外に、二人に接点はないはずだ。記憶の引き出しを片っ端から開いても、柊吾が知る限り二人の間に会話はない。氷花のくらい愛想笑いが、記憶にざらざらと引っかかる。

 照れ臭そうにハンカチを受け取る陽一郎へ、氷花が顔を寄せた。陽一郎は動揺を見せたが、氷花は気にした風もなく、何事かを耳打ちし始めた。

「……陽一郎……?」

 教室のあちこちから、ひそひそと浮ついた声が聞こえる。美少女の意味深な行動に、皆が興味の視線を向けている。

 だが、柊吾だけは違っていた。近い距離に、立っていたおかげだろう。だからこそ、勘違いだと切って捨てずに、きちんと気づく事ができた。


 氷花の笑顔が、邪悪を含んでいる事に。


「陽一郎……お前、何の話、して」

「ごめん、シュウゴ、だまって」

 片言のように、そう言われた。硬い声だった。同時に、夢うつつの声だった。

「陽一郎っ?」

 異変を察知した柊吾が声を上げた時、ふい、と氷花が身を翻した。幽鬼の生白さが、赤い三日月が、邪悪な笑みが、陽一郎の耳元から離れていく。

「じゃあ、また」

 凛、と再び鈴の音が聞こえた気がした。軽やかな声を一つ残して、氷花は廊下を歩いていく。そうして窓枠で囲われた視界から、あっという間に消え去った。陽一郎が、返事をした。

「うん」

 溜息のように、どこか愛おしげに、そして孤独に。

 氷花が去った後の廊下へ、返事をした。

「……」

 異様な静けさが、教室の温度を急速に冷やしていく。皆も、何かがおかしいと気づき始めたのだ。

 元々、先程まで撫子の事で揉めていた。

 元々、感情のたがが外れかけた、不安定な陽一郎ではあった。

 だが、それを抜きにしても、今の陽一郎は普通とは言い難かった。柊吾と揉めていた時の方が、まだいくらか普通に見えた。

 まだ、人間らしい反応だったから。そんな、感情の発露だったから。

 クラスメイトの誰かが「日比谷」と呼んだが、陽一郎は応えなかった。柊吾も「陽一郎」と強い調子で呼んだが、同じだった。

 何の反応も寄越さない幼馴染の様子に、苛立ちより先に、不穏なものを感じ――柊吾は陽一郎の肩を、強く掴んだ。

 ぐにゃり、と――弛緩し切った肉の感触が、手の平に伝わってきた。

「……!」

「シュウゴ、ごめん、離して。……僕、行かないと」

「陽一郎……っ? おい!」

「呉野さんに、呼ばれたんだ」

 柊吾の顔を見ないまま、陽一郎が言う。

「さっき、昇降口で、話しかけられて。あとで来てほしいって、呼び出されて。……僕に、はなし、が、あるんだって。……でも、もう転校しちゃうから、時間がない、って。だから、いま、いかないと」

「はあっ?」

 なんで、呉野が――そう言いかけたが、言葉はそこで止まった。

「いかないと」

 ゆらりと、力の抜けた脆弱な身体がこちらを向いて、ブラックホールのように黒い瞳が、柊吾の目を、捉えた瞬間――――どんっ! と胸板が突き飛ばされた。

「!」

 陽一郎の細腕から繰り出されたとは思えないほど、容赦のない打撃だった。不意を打たれ、泡を食った柊吾の身体がよろめく。その一瞬の隙をついた陽一郎は、引き戸を目指して駆け出した。


 ――逃げた。


 咄嗟に思った。そして逃げたというワードを脳が弾き出した瞬間、柊吾は教室中に響く大声を張り上げていた。

「……っ! 誰か! そいつ捕まえろ!」

 クラスメイト達が、ざわつく。突然の怒号が緊張と困惑をはしらせて、同時に陽一郎の突然の行動に誰もが目を奪われて息を呑んだ。机に腰をしたたかぶつける柊吾へ「柊吾!」と友人が切羽詰まった声を上げたが、構わず柊吾は体勢を立て直し、もう一度絶叫した。

「あいつ、普通じゃねえ! 何するか分かんねえ! 止めろ!」

 男子生徒の何人かが、慌てながら頷いた。だがその時にはもう陽一郎の姿は教室から消えていた。開け放された引き戸の向こうから、荒々しい足音と女子生徒の悲鳴が聞こえてくる。

「陽一郎!」

 逃がすつもりはなかった。すぐさま机の脇を抜けて、柊吾は教室を飛び出した。十人ほどの生徒が柊吾の無茶を呑み込んで、一緒になって走ってくる。

 その場で一瞬にして繋がった危機感だけを絆にして、普段からは考えられない速さで走っていく陽一郎の背中を必死の形相で追いながら、何故自分達はクラスメイトを追いかけて走っているのだろうと自問自答が止まらなかった。

 何かが、おかしかった。何かが、崩れ始めていた。きっと全員が、その認識を共有していた。既に雨宮撫子が、柊吾のクラスで壊れている。他の誰かが壊れないという保証など、どこにもないではないか。

 もし、今、陽一郎に追いつけなかったら。温和な笑みが、脳裏を過る。思考と意思を天気のようにころころ変える、脆弱な精神の少年。気弱な、柊吾の友人。

 ――壊れる。

 強迫観念のように、そう思った。このままでは、酷いことになる。それは最早、柊吾の中で確信に変わっていた。

 続々と登校してくる生徒の群れを逆走する男子の一団は、すぐに目を引き驚かれた。あちこちで悲鳴が上がり、背後で何人かの級友が怯んで速度を落としたが、柊吾は構わず突っ切った。

「柊吾、日比谷どっち行った?」

「昇降口!」

 並走する友人に叫びながら、柊吾は階段を数段飛ばしで駆け下りる。螺旋を描く手すりの隙間から階下を覗けば、俊敏に走っていく痩躯がちらりと踊った。

「日比谷って……っ、あんなに足、速かったっけ?」

「オレもそれ思った。あいつ運動、できなかったと思うけど……!」

 そんな会話が聞こえたが、返事をする余裕はなかった。高速で流れ去る校舎の風景を置き去りにして、柊吾は階段を下りきった。

 そして、昇降口を出た先の、白い日差しが燦々と射すグラウンド方面へ、陽一郎が上履きのまま走っていった事に気づき――気づいた者の大半が、ぎょっとして立ち竦んだ。

「マジかよ……柊吾、あいつヤバくないか?」

「ヤバいのは分かってる!」

 柊吾は言い捨てると、迷いなく昇降口の扉に向かった。靴を履き替えたかったが、そのタイムロスは命取りになる。顔面を引き攣らせて陽一郎の背中を見送る友人達を、柊吾は一度だけ振り返った。

「俺が、必ず捕まえる。だから、誰か先生に伝えてくれ! 日比谷の様子がおかしいって! 説明、任せたからな!」

 そうやって面倒な役割を押し付けると、柊吾はもう振り返らなかった。

「ちょっ、柊吾!」と慌て始めた友人達をその場に残し、学校を出る為に、陽一郎と同じく上履きを履いたままの足で、アスファルトを強く蹴った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る