2-10 追跡
柊吾は走っていた。
スポーツ推薦の話が来るほどなのだ。運動にはかなり自信があった。体育の授業は昔からどれも好きで、足も速い部類に入る。
だが、そんな柊吾でも陽一郎に追いつく事は叶わなかった。
学校を飛び出し、灰色を基調とした住宅街へ駆け込んでいく陽一郎を追った柊吾は、十字路が連なる区域へ突入した辺りから、追跡に手こずり始めていた。
追っ手の柊吾を撒く為か、あるいは追跡に気付いてすらいないのか、陽一郎は一度も振り返らなかったので真偽のほどは不明だが、ひ弱なはずの級友は相当な俊足で、しかもこの辺りの地理を熟知しているようだった。
柊吾も
「……陽一郎っ……!」
柊吾はその名を絞り出し、奥歯をきつく噛みしめた。
あり得なかった。陽一郎の行動全てが滅茶苦茶で出鱈目だった。一体何が、陽一郎をこんな奇行に駆り立てたのか。柊吾にとってこれは奇行以外の何物でもなく、そして理由が分からないだけに不気味極まりなかった。
だが、追わないわけにはいかなかった。
撫子の顔が、柊吾の頭から離れなかった。
――ぼんやりした様子で、学校に通い続ける撫子。
――陽一郎と向き合う時だけ、微かな笑みを覗かせる撫子。
――もう柊吾の顔など一度も見ない、視線の合わない撫子。
どんな気持ちで撫子は、今も学校に通っているのだろう。撫子の見る世界は、人がほとんどいない。親と教師と陽一郎しか存在しない、閉じた世界を生きている。
陽一郎も、壊れるのだろうか。撫子のように、なるのだろうか。
だが、だとしたら、一体何を引き金にして、そんなことになるのだろう?
どうして、撫子は壊れた?
どうして、人が『見えなく』なった?
「あ……」
柊吾は、驚いた。
その発想は――今までに、一度だってなかったからだ。
撫子が壊れてから、教室は処刑場に変貌した。いつ殺されるとも知れない恐怖と緊張から耳を塞ぎ、目を背け、そのくせ聞き耳を立てながら指の隙間から覗き見て、死んでいくクラスメイトの存在に震撼する空気の中で、生存者と死者共々から降り注ぐ感情の雨に翻弄され、ぐずぐずと
――何という、ことだろう。
考えて見れば、柊吾達クラスメイトは、皆。
――自分達の事、ばかりだった。
どうして撫子が壊れたのか、原因にきちんと向き合ってこなかった。人が『見えなく』なった理由を、考えようとすらしなかった。
ただ、怯えていただけだった。撫子から『見えなく』なるのが恐ろしく、自分達で真実を『見えなく』していただけだった。
――とんでもない、馬鹿だった。
柊吾は、唇を噛みしめる。陽一郎を馬鹿だと罵った柊吾だが、それを言うなら柊吾も同じなのだ。
これは、撫子の精神の問題ではない。ましてや、陽一郎の精神の問題でもないのだ。
――何かが、あるのだ。
撫子が狂っているのではなく、撫子を狂わせた、何かが。
そして、その何かが――今。陽一郎に、牙を剥いた。
陽一郎も、撫子のように人が『見えなく』なるのだろうか。分からない。被害妄想に近い。撫子と結びつける理由も根拠もないのだ。常識的でもない。飛躍しすぎている。案外ひょっこり戻ってくるかもしれないとも考えてみたが、そんな気休めは信用できない。もう『どうにか』なっていると考えた方がいいだろう。
だとしても、柊吾は陽一郎を放っておくわけにはいかないのだ。
無論、柊吾は陽一郎が嫌いだ。近寄りたくないし、極力会話をしたくない。口など利きたくないし顔も見たくない。そういうレベルで大嫌いなのだ。
それでも、助けようと思った。理由など何もなかった。助けたいという気持ちが理由かもしれないが、やはり裏も表も分からない。理由が何であれどうでもよかった。陽一郎に見返りなど期待していない。恩に着せる気もないのだ。そこまで考えた時、はっとした。
――『押し付けてるわけじゃない。恩に着せてるわけでもない。だからその上で、きちんと考えろ』
進路の件で、柊吾を諭した三浦恭嗣の言葉。今の柊吾は、恭嗣と同じ考え方をしている。恭嗣が柊吾を気にかけたように、柊吾も陽一郎を気にかけているのだろうか。このまま闇雲に走り続けて、果たして陽一郎は見つかるのだろうか。
柊吾に土地勘はない。しかも周りは民家ばかりなのだ。もし陽一郎がどこかの家へ転がり込むようなことをしていれば、柊吾には絶対見つからない。それにこの区画を脱出して、別の場所へ逃げた可能性もある。
そもそも、どうして陽一郎を見失ってしまったのか、柊吾には不思議で仕方なかった。ひょろひょろした陽一郎など簡単に捕まえられるという、柊吾の慢心の所為だろうか。だが、真剣に追ったつもりだった。こんな時、携帯電話がないことを辛く思った。同級生の半数以上は持っているが、費用がかかるので柊吾は中学卒業まで我慢するつもりでいた。その選択を初めて悔いたが、後悔している暇があるなら、身体を動かして戻るべきだ。
ただ、元来た道にも学校にも、陽一郎はいない気がした。
あの状態の陽一郎が、何食わぬ顔で席に着くところなど、想像もつかない。
「……ちっ」
万事休す柊吾の耳に、民家の植木にへばりついた蝉の鳴き声がしゃわしゃわと聞こえてくる。流れた汗でシャツが張り付き、べったりとして気持ち悪い。湿気を蓄えた空気を振り切るように見上げた空は、先程までの青空が嘘のように、薄暗く曇り始めていた。もしかしたら、一雨降るかもしれない。速い動きで流れていく灰色の雲を目で追いながら、柊吾は焦る。
どうする? だが、何度自問しても同じだった。学校へ戻り、陽一郎が戻っているか確認するしかない。必要ならば陽一郎の保護者にも連絡すべきだろうが、さすがにそれは残してきたクラスメイトによって達成されているだろう。
最早、手詰まりだ。今の柊吾にできる事は、何もない。
悔しかったが――戻るしか、ない。
柊吾は拳を握りしめ、自分が走ってきた方角を振り返る。急ぎ足で住宅街を出ようと数歩駆け出したが、一縷の望みを賭けて、周囲をもう一度、見回した。
期待と諦観を抱きながら、未練たらしく、そして恨みがましく、柊吾は背後を振り返り――――
ただの通行人ならば、きっと驚かなかっただろう。
だが、そこに立った人物の容貌は、日比谷陽一郎を探していた柊吾にとって、あまりに予想外であり、あまりに奇抜だったのだ。
そこにいたのは、陽一郎ではなかった。
ただの通行人でも、なかった。
そして、おそらくは――日本人でも、なかった。
「……成程。〝転校〟ですか」
柊吾の前方、数メートルの距離を開けて――その男は、立っていた。
落ち着いた声音は、柊吾の抱えた緊張感とは真逆な程に緩やかで、人を安心させる波長を備えた、嫋やかな声だった。
謎の言葉を発した男は、茫然とする柊吾と、視線を交わらせて――青色の双眸を柔らかく細めて、友好的に笑いかけてきた。
笑いかけられた柊吾は、何が何だか分からない。人違いを疑ったが、話しかけられたのは紛れもなく自分だった。反射で身構えながら男の視線を受け止めたが、そうやって見返した男の容貌は、見れば見るほど奇抜だった。
黒いスーツの上着を腕に引っ掛けて立つ男は、柊吾よりも頭一つ分は背が高い。すらりとした体躯は痩せ形だが、薄く張った筋肉がシャツの上からでも見て取れる。喪服のような白と黒のコントラストを見せつける男の髪色は明るく、いかにも外人然とした灰茶色をしていた。曇天でなく晴天の下であれば、金色にも見えただろう。若干東洋風にも見える容貌は、母が観ていた洋画の俳優のように整っている。
何故、こんなマスクの男がここにいるのだ。そして自分に、何の用があるというのだ。次第に狐につままれた気分になる柊吾へ、男はふわりと微笑んだ。
「やはり。それに、君は……。ああ、驚かせてしまいましたか。ですが、僕も驚いていたのですよ。まさか、君とここで出会うとは思いもしませんでしたから」
「はあ?」
柊吾は面食らったが、男は穏やかに笑うだけだ。こちらの狼狽を楽しんでいるのかと訝ったが、そういうわけではないらしい。柊吾が見る限り、男の態度に悪気や屈託は感じられなかった。
「どうやら、君と僕の探し人は、同じ場所にいるようですね。違うことを祈っておりましたが、残念です。……間に合えばよいのですが。急ぎますか」
「探し人?」
突然の言葉にぽかんとしたが、それが明らかに日比谷陽一郎を指す言葉だと気づくや否や、柊吾はさっと顔を強張らせ、警戒と共に男を見た。男は端整な顔の造形を、困惑気味の微笑に崩す。柊吾に怪しまれている自覚はあるようだ。
「僕は決して怪しい者ではありませんよ。誤解を解きたいところですが、あまり時間がないようです。――僕に付いてきてもらえませんか。三浦柊吾君。申し訳ありませんが、話の続きは走りながらさせて頂きます」
「! なんで、俺の名前、知って」
「上履きに書いてありますよ。ああ、申し遅れました。僕は呉野和泉と申します。呉野氷花さんの兄です。御存知なのでしょう? 僕の不肖の妹を」
「なっ……!」
――兄。
度肝を抜かれる柊吾へ、「さあ、急ぎましょう」と、男――呉野和泉は促すと、すぐにその身を翻した。長い足が一歩踏み出すのを見た瞬間、柊吾は躊躇ったが迷いを一旦据え置いて、和泉との距離を大股で詰める。隣に並ぶと、和泉はさらに歩調を速めてきた。競い合うように並走する柊吾を、見下ろした和泉が笑った。
「僕が兄だと主張すると、大抵の方は冗談だと受け取ります。僕を信用したわけではないのでしょう? それでも来て頂けることに感謝します」
「信用したわけじゃ、ありません。でも陽一郎のこと、知ってるんですよね」
小走りのまま、柊吾は男を睨んだ。
「なんで陽一郎のこと、知ってるんですか。あと、探し人が同じとか転校とか、わけ分かんないんで、もっと分かりやすくお願いします」
上辺は礼節を取り繕ったが、不信感は剥き出しだ。「それは失礼致しました」と和泉が慇懃に詫びてきたので柊吾は決まりが悪くなったが、相手の笑みは鷹揚だった。玄関先に
「君の周りでは、〝転校〟する者が多い。その事実には気づいていましたか」
「転校っ?」
「ええ。転校です。君の学校からは人が消える。君は過去に二人、級友を〝転校〟という形で失っています。覚えているのでしょう?」
確かにそれは、和泉の言う通りだ。言う通りだが、解せなかった。何故そんな話を今するのだろう。状況は切羽詰まっているのだ。
だが、今の和泉の台詞に微かな違和感を覚え、その正体に目を向け、考えた途端――背筋に氷を差し込まれたかのように、冷たいものが走った。
失う。
転校して、級友を『失う』。遠い所へ行くではなく、会えなくなるでもなく、『失う』。
異質な言葉だった。転校していなくなる友人に対して、『失う』などとはまず言わない。しかもそれを告げたのは、言葉の使い方を知らない子供ではなく大人なのだ。異国の人間だから、言葉遣いを間違えた? だがそんな思考の甘えを許さない程に、和泉の日本語は流暢だ。
撫子が壊れ、陽一郎が失踪し、今、目の前には異邦人。収拾がつかなくなっていく事態を前に、思考回路が麻痺してくる。
ただ、柊吾にはどうしてか、この男が危険だとは思えなかった。
不思議な感覚だった。氷花の笑みを見た時には怖気と嫌悪を感じたのに、兄を名乗る和泉からは、
連帯感だ。陽一郎を友人達と追い駆けた時の絆と同じなのだ。今、隣を走るこの大人は、柊吾と同じ危機感で、そして柊吾と同じ目的で動いている。雨の匂いが濃密に満ち始めた空の下で、柊吾はそれを嗅ぎ取った。
理性的ではないだろう。馬鹿げているのも分かっていた。だが手詰まりである以上、和泉を拒絶したところで、柊吾は学校へ帰るしか術がないのだ。ならば。
一か八かで、この大人を頼ろう。覚悟の鋏で、柊吾は迷いを断ち切った。
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