2-8 思い出

 登校する前に鏡を見たが、案の定酷い目つきをしていた。

 目元には隈が浮いていて、瞼は少しだが腫れぼったい。情けないこの顔を、母にもしっかり見られている。柊吾は肩を落としたが、嘆いたところでどうしようもないので、母に見送られて家を出た。

 母は笑顔で柊吾を送り出してくれたが、どことなく陰のある笑みだったので、物思いに沈んでいるのは柊吾だけではないのだろう。

 母は、撫子の事をとても可愛がっていたから。

 多分だが、どこかで娘のように思っていたところがあると思う。口下手な息子の数少ない女友達であり、感情一つ一つの掴み方を知らないような撫子の事を、多分だが、ずっと気にかけていた。

 なのに、ずっと黙っていた。身体がいくら頑健でも、心はこの程度で打ちのめされる。そんな弱さが情けないとも思ったが、自虐に浸る余力もない。

 教室に到着して引き戸を開けると、柊吾は黙々と席に着く。四方八方から視線を感じたが、気づかないふりをした。

 クラスメイト達は、柊吾を腫物のように扱っている。もう三日ほどになるので、そんな対応には慣れ始めた。普段よく話す友人が「よお」と控えめに呼び掛けてきたので、「ああ」と軽く返事をして、鞄から教科書を取り出した。相手も、気まずそうに目を逸らした。会話は、これで終了だった。

「……」

 随分と、変わってしまったものだ。疲労と鬱屈でもやがかかり、ぼんやりと白濁した頭で、柊吾は思う。

 まだ、あの日から三週間しか経っていない。それが柊吾には信じられなかった。こんなにも短期間で、全てが滅茶苦茶になる。それが、信じられなかった。

 だが、これが現実だった。欠伸を噛み殺した柊吾は、通学鞄のポケットから文庫本を取り出したが、本に厚みがある所為でチャックの淵に引っ掛かり、少し慌てた。恭嗣に借りた本なので、傷や折り目に気を遣っているのだ。一応紙のブックカバーを作って被せてはいたが、手先が不器用なので既にしわくちゃになっていた。安易に恭嗣の挑発に乗った事を少し悔やんだが、それでも受けて立ったのだ。なんとか読破したいと思う。

 読書紹介の〆切はまだ先だが、本の厚さを鑑みる限り、悠長に構えている暇はない。恭嗣のお勧めなのでハズレではないはずだが、十四歳が熟読するにはいささかレベルが高いと思う。疲労の半分は心労が原因だが、残りの半分はこの上巻の文庫本が原因だ。おかげで柊吾は寝不足だ。

 撫子の事は、まだ気になる。だが変に気を揉むよりも、目先のものに集中すべきだ。柊吾は気持ちを切り替えようと読みかけのページを開いたが、点々と並ぶ活字の群れに、すっと不意に、影が差した。

 柊吾は無言のまま顔を上げ、目の前に立った人物を見る。

「……柊吾、おはよう」

 陽一郎は気まずそうに、もじもじと手を動かしながら立っている。

「あのさ……えっと、昨日、急いでたみたいだから。柊吾、どうしたのかな、って……」

「……俺が学校帰りにどこ行こうと、お前には関係ないはずだ」

「……うん、そうだよね。ごめん……」

 気まずい空気が、両者の間に流れた。柊吾の声音が明らかに普段より低かったからか、陽一郎はもごもごと唇を動かして何事かを伝えようとしていたが、そんな様子を見せられ続ける苛立ちに、柊吾は耐えられなくなった。そしてそれを、陽一郎相手に隠すだけの理性も残っていない。眠気と疲労が、柊吾から余裕を奪っていた。

「……おい。陽一郎。なんで雨宮と一緒じゃないんだ。あいつ一人じゃ登校きついのくらい分かってるだろ。……ほったらかしたとか、言ってみろよ。殺す」

「ち、違う! 誤解だよ!」

 陽一郎が顔面を蒼白にして、首をぶんぶんと横に振った。

「撫子、今日は病院だから。朝一で連絡あったから……学校、来ないよ。だから、その……ほったらかしたりなんて、僕、しない、から」

「……。でも、ほったらかしたいんだろ。分かるんだ。お前見てたら。俺、やっぱりお前と話すの、不愉快だ。どっか行ってくれ」

「柊吾……」

 唇を噛んで、陽一郎が俯く。

 さすがに言い過ぎている事は、柊吾にも分かっていた。それにおそらく、陽一郎がここに来たのは、柊吾に謝る為だろう。昨日の下校時の諍いを陽一郎が自分の所為として受け止めて、気に病んでいる事は、想像に難くない。

 罪悪感で、ほんの少しだけ心が痛んだ。

 だが、鬱憤を言葉にしてぶつける事が、今、気持ちいいと思った。

 そんな自分が、胸糞悪くて仕方がない。柊吾は陽一郎と話していると、自己嫌悪ばかりさせられる。

 だが、陽一郎を見ていれば、分かってしまうのだ。

 撫子の彼氏であるはずの、この級友が――撫子を、持て余している事に。

 元々、撫子から告白して付き合い始めたとは聞いていた。しかし、それを柊吾に報告してきた陽一郎は、見ているこちらの方が照れ臭くなるほど初心な嬉しさを伝えてきたのだ。陽一郎も撫子の事が好きだったという。そんなものは小学生の頃から察していたので柊吾は驚かなかったが、撫子から告白したというのはかなり意外だったので、しばらく茫然として何事も手につかなくなった。

 それも、思えば三週間前だった。撫子の狂気が学校に溢れ出したのと、おそらくはほとんど同時期だ。柊吾は、少しだが驚いた。

 今まで、そんな符号には気づきもしなかったのだ。だがこうして陽一郎と朝っぱらから顔を突き合わせていると、記憶が蘇ってぴたりと嵌る。

 そうだ――確か。撫子と陽一郎が、付き合い始めたという、二日、三日前くらい。この辺りの時期を境に、撫子を取り巻く環境ががらりと変わっている。

 一瞬だけ疲労を忘れた柊吾だが、情報の新鮮さはすぐに薄れ、溜息に変わった。時期が一致したからといって、一体何だというのだろう。単なる偶然としか思えない上に、この発見は何の役にも立ちそうになかった。

 ただ、そうやって二人で重苦しく黙りこくっている間に、陽一郎の方は柊吾とは違う考えを育てていたらしい。贖罪の言葉の雨粒が、ぽつりと机に降ってきた。

「……なんで僕達、こんなことになっちゃったんだろう」

「……」

「小学五年の時だっけ。よく皆で遊んだっけ。えっと、柊吾と、撫子と、それから、みいちゃん達と……紺野こんのさんもいたっけ」

「覚えてない」

「あ、そっか……みいちゃんも紺野さんも、転校しちゃったっけ。ごめん……」

 言われて小学五年の記憶が呼び起される柊吾だったが、そこには陽一郎が訴えかけてくるような、煌めいた思い出があるわけではなかった。

 柊吾と陽一郎と撫子と、名前の挙がった二人もいた気がしたが、あまり記憶には残っていない。転校したという情報が脳に染み込んでようやく、顔を薄ぼんやりと思い出せたほどだった。

 一人は底抜けに明るく、誰からも好かれるタイプの少女だったと思う。もう一人は、その少女の連れといった雰囲気だった。かなり内気で口数が少なく、常に俯いていた覚えがある。柊吾は彼等と同じクラスにいながら、そちらの二人連れとはほとんど話した事がないはずだ。

 そんな希薄な友情を掘り起こして開陳し、わざわざ柊吾の目の前に並べて見せる、陽一郎。撫子の、彼氏。そしてそれを、やめようとしている少年。柊吾の幼馴染同然の、友人。

「……」

 目の前で覚束ない語り口で流れていく思い出話を、柊吾は淡々と聞き流した。柊吾にとってこれは、無駄話以外の何物でもなかったからだ。

 振り返ったものがどれほど綺麗であったとしても、柊吾達は今を生きている。そんなスタンスが、柊吾と陽一郎では決定的に違うのだ。致命的な二人の隔たりは、そのまま二人の温度差になり、やがて二人の間に深い溝を広げていく。陽一郎は会話の糸口を掴もうと苦し紛れに話題を捻り出しているのだろうが、そんなものに付き合わされているこの現状が、初夏の蒸し暑さと混ざり合って、柊吾には不愉快で仕方がなかった。

 心が、ざわつくのだ。陽一郎が撫子の名を口にするだけで、どうしようもなく。

「五年の時にさ。皆でナデシコの花を育てたよね。色がばらばらの種をもらって。何色になるんだろって楽しみにしててさ。撫子は同じ名前だから、よくクラスの子がちらちら見てたね。紺野さんも、気にしてた。名前が同じだけなのにね」

「……」

「でもさ、せっかく花が咲いて、何色なのか分かって、クラス全体ではしゃいでたのに……全部、茎のところから鋏で切られちゃったの、残念だったよね。……ねえ、柊吾。覚えてる?」

「……。忘れるわけない」

 沈黙に耐えかね、柊吾は言った。少しだけほっとした顔になる陽一郎が、口元に疲れを滲ませて、曖昧に笑った。

「犯人探し、ブームになったよね。結局アレ、誰だったんだろう……って。僕、今でも時々気になるんだ。確か呉野さんの花だけ生き残って、他は全滅だったけど……柊吾は、どう思」

「陽一郎。もうやめろ」

 柊吾は堪えきれなくなって、放っておけば永劫に続きそうな語りを遮った。

「昔の話なんかして、目ぇ逸らすな。今の雨宮の事、ちゃんと見ろ」

「……だって、仕方ないじゃん」

 陽一郎の、顔が歪む。崩れた笑顔の下から、強い悲しみが浮かび上がった。

「どうしてこうなっちゃったんだろう、って。考えるなって方が、無理だよ。僕も、撫子も、柊吾も、皆……仲良かったし、毎日、楽しかったのに……なんで、って。思うんだ」

「ああ。俺もそう思う。でも、お前がそんな言い方をするのだけは、許せない」

「柊吾は、なんで……そんなに、僕に怒るの」

「さっきも言った通りだ。それより分かりやすく言わなきゃ分かんねえなら、馬鹿だ。失せろ」

 柊吾は、陽一郎を睨み付けた。陽一郎の顔がさらに歪み、視線から己を守るように、目が弱々しく逸らされた。脆弱な級友相手に自分がどれほど辛く当たっているか、自覚はあったが止められなかった。

 罪悪感よりも、怒りの方が上だった。

 もう、歯止めが利かなくなっていた。

「……お前は。雨宮が好きだって言った。けど、楽しそうにしてたのは三日くらいなもんだったな。雨宮の目が、『見えなく』なったから。自分の彼女が周りの奴らと違う事って、お前にとってそんなに恥ずかしい事なのか。そんなにうんざりする事なのかよ」

「……違う」

「俺にこんなこと言われるの、お前だってヤだろ。……どっか行ってくれ。陽一郎。早く」

「柊吾はっ」

 泣き出しそうな声が響いた。陽一郎が、柊吾の顔を真っ直ぐ見た。

「柊吾は、僕が……撫子と、これからもずっと付き合っていくとか、そう言う風に思ってるの?」

 柊吾はすぐさま口を開いたが、「僕らまだ、十四なんだよ!?」という悲痛な叫びに、出かかった言葉は掻き消された。

「このまま付き合って、ずっと一緒にいて、それで結婚するとか、そういうのっ、考えろっていうの? 無理だよ! 僕には、まだ!」

「そんなものを、お前に求めた覚えはない。それより」

 柊吾は、立ち上がった。がたん、と椅子が揺れる音が、異様に大きく響き渡る。今や静まり返った教室の窓際で、柊吾はクラスメイト全員の視線が皮膚を突き刺すのを構わずに、幼馴染に詰め寄った。

「つまり、あれか。お前にとって雨宮は遊びか。学生同士の思い出作りに利用してるんだな。で、あいつの目が『見えなく』なったから、もう要らなくなった。そう言ってるんだな」

「あ……ちが、僕は」

「どの辺が違うんだ」

 襟首を鷲掴みにし、強引に引き寄せた。ひっ、と押し殺した声が陽一郎の喉から漏れる。女子の誰かが悲鳴を上げた。クラスメイト達も慌てて立ち上がり、あるいは動きを止めたのが分かったが、どうでもよかった。

 もう、限界だった。自分はこれほど、思い詰めていた。柊吾はそれを、ようやく思い知る。だが、止まれなかった。何もかも全てここでぶち壊して、陽一郎を断罪しなければ気が済まない。なのに涙ぐんで怯える陽一郎を見るだけで、殺意も情動も萎んでいく。まだ消えないで欲しかった。怒りに身を任せている方が楽なのだ。そちらの方がまだ、辛くない。

 そんな風に思ってやまないほどに、柊吾は今、辛かった。

 ――雨宮撫子の異常は、柊吾の目の前で倒れたあの日を境に、壊滅的な方向に舵を切っていた。

『先生。今日はどうしてこんなに、生徒の数が少ないんですか』

『十人くらいしか、来ていなくて』

『今日は本当はお休みだったのに、間違って登校してしまったのかと、思いました』

 保健室へ運ばれた撫子は、目を覚ましてからそう証言した。

 たどたどしく、心細そうに。十四歳よりもっと幼い少女のように、怯えた様子で怖々と。柊吾も付き添って話を聞いていたが、途中で保健室を追い出されてしまったので、その後のやり取りは分からなかった。

 幸い、撫子はすぐに教室へ戻ってきた。気を失った撫子を誰もが案じていたので、全員がこの時安堵した。

 しかし、帰還した撫子の第一声によって――教室は狂乱の只中へ、叩き落とされる事になる。

 引き戸から顔を覗かせた撫子は、柊吾や陽一郎の姿を見つけると、安心した様子で息をつき、ほぼ全員のクラスメイトが揃った教室で言ったのだ。


『よかった。三浦くんも、陽一郎もいる。……他の皆は、どこにいるの?』


 ――騒然となった。

 撫子の友人達が恐る恐る近寄っていくと、撫子は顔を傾けて、『どうしたの?』と無邪気に訊いた。普段と変わらない風景に緊張を緩めた生徒もいたが、明らかに視線が噛み合わない生徒が半数以上いる事実に気づき、生徒の一人が絶叫した。至近距離の叫び声に、撫子は反応しなかった。友人の一人に掴みかかられ、揺さぶられ、教室の扉へ身体を押し付けられても何も言わなかった。口元が少し動き、言葉を紡いだだけだった。痛い、と。

 撫子は――人間が『見えなく』なっていた。

 盲目ではなく、風景は以前と変わらず見えているようだが、人間の姿だけは撫子の視界からそっくり消えているらしい。撫子が言うには、時折『見えない』障害物に身体がぶつかり、その度によろけたり転んだりしてしまうとのことだった。

 そんな時、撫子を助け起こすのは、柊吾や陽一郎を始めとした撫子の友人達の役割だった。そして、撫子がぶつかった『見えない』障害物――人間へ、代わりに謝る。教師からの要領を得ない説明もあったので、今や雨宮撫子の異常は校内に広く知れ渡っていた。

 今のところ、トラブルは起きていない。撫子の登下校には陽一郎が付き添い、学校へ来てからも『見える』誰かが必ず寄り添うからだ。撫子は大部分の人間を識別できなくなってしまったが、『見える』人間も残っていた。

 しかし、そのメンバーは僅かだった。

 両親。

 学校関係者。

 仲の良い女子数人。

 陽一郎。

 そして――柊吾。

 他の人間は、全員『見えない』。しかも、異常はさらに加速した。撫子が最初から『見えなかった』生徒だけでなく、最初は『見えて』いたのに途中から『見えなく』なった生徒が出始めたのだ。

 撫子と仲の良い女子生徒が、一人、また一人と『見えなく』なっていくその過程で、クラスメイト全員が悟ったのだと思う。『見える』生徒と『見えない』生徒。残虐な線引きの、基準と規則性を知った時――『見える』生徒も『見えない』生徒も、受けたショックと戦慄は、同等のものだったに違いない。


 それは――必要とされているか、だった。


 撫子に、必要とされているか。撫子から、大切に思われているか。最低限関わりを持たなければ、自分が困る相手なのか。好意の強さ、信頼度――これは、そんな取捨選択だったのだ。

 撫子にとって価値のない人間、不要な人間ほど『見えなく』なる。だから撫子と交流の薄い生徒は最初から『見えていな』かった。だが教師は授業を受ける上で、『見えない』と困る。『見える』ことが必要だから――『見える』。

『見えなく』なる順番が、寄せられた好意の順位。あまりに歴然としたランク付けは、公開処刑のようだった。

 一人、また一人と消えていく。撫子の見る世界の中に、存在できなくなっていく。撫子が触れ合える人間の幅は日に日に狭まり、撫子を助け起こせる人間の数は日に日に数を減らしていった。手を伸ばしても、怯えられてしまうからだ。無理に触ろうとすれば抵抗され、それでも強引に迫れば固く蹲ってしまう。手が、伸ばせなくなってしまう。

 明日は、誰が『見えなく』なるのか。誰もが息を詰めて、目を逸らし、同時に見つめていたのだと思う。かつてクラスで密かな憧れの目を集めていた少女、雨宮撫子による、存在価値のランク付けを。まるで鋏で切り裂くように、命の価値が刈り取られ、殺されていくのを。あの日のナデシコの、花のように。

 気づいた時には、『見える』側の人間は撫子の両親と学校関係者、陽一郎、柊吾だけになっていた。

 だが、ついに――柊吾も一昨日、『見えなく』なった。

 登校してすぐに、先に教室へ来ていた撫子と陽一郎の元へ寄ったのだが、撫子は柊吾を見なかった。全てを了解した柊吾は、戸惑う陽一郎に背を向けて、静かにその場を立ち去った。

 撫子がその日、柊吾と目を合わせることは一度もなかった。柊吾を透かせて壁を見るだけだった。陽一郎の視線だけが、生々しい同情を伴って柊吾の横面に注がれていた。

 現在の生存メンバーは、陽一郎と保護者と、学校関係者。

 陽一郎は、一応だが撫子の彼氏だ。仕方がないことなのだと、何とかまだ呑み込める。保護者も同様だ。撫子を誰より大切に思っている相手だろう。『見えて』当然だと思う。

 ただ、学校関係者より低い位置に、自分が付されたというのは――正直、かなり堪えていた。

 ――『とても、怖いの』

 撫子はあの日、柊吾に助けてと言った。

 だから柊吾は、助けようと思った。だが、そんなことは多分関係ないのだ。たとえ撫子が柊吾に助けを求めなかったとしても、柊吾はきっと、撫子を助けた。それは当たり前の事だからだ。見返りが欲しいわけではない。裏も表もない。あるのかもしれないが分からない。助けたいという事しか、柊吾には分からない。

 だが、もう、助けられない。『見えない』人間に、撫子は救えない。必要とされていないからだ。

「お前が雨宮の事、持て余してんのくらい……見たら、分かるんだよ」

 柊吾は、言う。感情が、声に滲まないよう堪えながら。掴みかかられた陽一郎が、涙をまだ止められないでいるのをめ付けながら。

「分かるから、腹が立つんだ。中学生の恋愛だから責任とか別にいいみたいな、そういう軽い考えも、すぐに別れるとかほざく根性のなさも、最初は喜んでやがったくせに、手のひら返すところも……俺が、『見えなく』なった時に、こっちを見やがった事も。俺は……、お前が、」

 ――嫌いだ。

 何度も思ってきた事だった。柊吾は、陽一郎の事が嫌いだ。大嫌いなのだ。その感情は、日増しに強くなっていた。撫子が、壊れてから。透明人間になった瞬間に、きっと柊吾も壊れていた。柊吾と撫子は同じ教室に立っているのに、違う世界を生きている。壊れているのは同じなのに、同じ世界に立てないのだ。

 今では誰かとぶつかっても、撫子は何も感じていないかのように歩いている。最早教師からも腫物扱いされた撫子は、この先どうなっていくのだろう。

 昨日の授業変更だって、おそらくは撫子絡みなのだ。学校側は撫子の家族へ、精神的な障害に対して設備の整った学校へ、撫子の転校を促している。密やかに流れる噂話は、柊吾の耳にも届いていた。その提案を撫子の家族が断固拒否し、方々へ働きかけているからこそ、撫子はまだ、ここにいられる。それに撫子は、教師の姿は『見える』のだ。それが撫子の生命線になっていた。

 そんな、いつ切れるとも分からない脆い命綱で繋がっている、撫子を――この陽一郎は。

「……っ」

 黒い殺意が、喉元まで込み上げた。

 だが、それでも――それ以上は、言葉にならなかった。

 分かっていたのだ。今の自分の台詞が、どれほど格好悪いものなのか。

 そして、どれほど――自分にも、言える事なのか。

「……失せろ。陽一郎」

 柊吾は、手を離した。陽一郎は皺の形で固まったシャツをそのままに、茫然の顔で柊吾を見ている。

「……仲直りとか、まだ無理だ。だから……早く、行け」

「……ごめん」

「……」

 謝るな、と。そう言い返したかったが、やめた。口を利く事にさえ、疲れていた。教室内の空気ははらはらと不穏に張りつめていたが、柊吾が静かに陽一郎を解放したからだろう。張りを失くした空気はずるずると緩んでいく。それは、安堵というよりも疲労だった。梅雨時のようにじっとりとした怠惰が、乾いた風の吹き抜ける早朝の教室に垂れ込めていた。皆も、疲れ始めている。

 やがて陽一郎が、とぼとぼと自分の席に向かって歩いていく。悄然とした後ろ姿を横目に見ながら、柊吾は視線を窓に向けた。

 教室を眺めるのは、怠かった。疲れ果て、心配で曇り、非日常の空気に酔ったようなクラスメイト達の態度と視線に、んでいた。だから、教室ではない場所に目が向いた。

 廊下側の、磨り硝子。その内の開け放たれている窓の一つに、視線が自然と、吸い寄せられて――止まる。


「あ……」


 思わず声を上げたのは、柊吾ではない。陽一郎だった。机と廊下側の壁の間で、浮かんだ涙を指で拭いかけたまま、陽一郎は立ち止まっていた。

 視線は、一か所に固定されている。

 柊吾も、陽一郎と同じモノを見て、動けなくなっていた。


「……日比谷君。約束、忘れてないわよね?」


 凛、と。鈴が鳴るような音色を聞いた気がした。意識に直接働きかけるような、不思議な響きの声だった。脳を揺らした少女の声を、柊吾は以前から知っていた。

 だが、今ここで耳にした声は明らかに、柊吾の記憶の声とは違っていた。

 何が、どう違うのかは上手く説明できない。ただ、何かが違うのだ。同じ人間の声質とは、決定的に何かが違う。

 異質としか形容できない声は、開いた窓から聞こえていた。

 唖然の顔で固まる陽一郎の、すぐ傍で――窓から上半身を覗かせて笑う、一人の少女がそこにいた。

 細められた双眸を長い睫毛が縁取り、瞳は眼光が鋭かった。目を逸らす事を戒めているかのような束縛の眼差しを前にして、金縛りにあったかのように、陽一郎は動けなくなっている。

 そして、長い無言の時を経て――陽一郎は、怖気づいたように呟いた。


「……呉野、さん」

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