2-7 撫子

 雨宮撫子の異変にいち早く気づいたのは、日比谷陽一郎ではなく、三浦柊吾の方だった。

 袴塚西中学の制服が夏服に変わり、さっぱりと開放的な風景に皆が順応し始めた頃だった。一時間目の始業前に、柊吾に声を掛けてきた撫子の、何気ない一言がきっかけだった。

「三浦くん。今日、なんだか……教室、人が少ないね」

 柊吾には最初、撫子の言葉が分かりかねた。言われて見回した二年一組の教室には、既に大半の生徒が登校を済ませていて、皆が思い思いの場所で雑談を交わしていたからだ。

「少ないって、何の話だ?」

「だって、まだ、全然登校してきてないから」

「はあ?」

 普段、柊吾と撫子の二人は、いつも連れ立って歩くような間柄ではなかった。小学校の二年と五年ではクラスが一緒ということもあり、それなりに仲は良かったが、最近撫子は同じく小五でクラスが同じだった日比谷陽一郎と付き合い始めたので、柊吾は心持ち距離を置こうとしていたのだ。とはいえ必要以上に陽一郎へ気兼ねするのも馬鹿馬鹿しいので、柊吾と撫子の関係は今までと特に変わらず、挨拶や教室移動の際の立ち話程度の交友は続いていた。

 特に密ではない、友達付き合い。ただ、密ではないと切って捨てるのはあまりに忍びないと感じてしまう、同郷のよしみのような友達関係。

 そんな撫子が、朝登校するなり柊吾の元へやって来たというだけで、柊吾は内心驚いていたのだ。しかも聞かされた内容はあまりに不可解なのだ。首を捻るなと言う方が無理な話だ。

「雨宮、何言ってるんだ?」

「だって、ほら。まだ三浦くんと私と、あとはクラスの皆……半分もいないでしょ? 予鈴、鳴ってるのに」

「……?」

 柊吾はもう一度教室を見回したが、見回すまでもないのだ。それでも敢えて見回したのは、撫子から指摘を受けたからだ。言われた言葉の意味を考える為に、そしてその言葉を馬鹿にしない為に、確認する行為を見せる為だけに、柊吾は教室を見回した。そうして確認作業のポーズが一通り終わると、柊吾はもう一度撫子を見下ろし、もう一度訊いた。

「雨宮……どういうことだ?」

「……。どういう、ことって……?」

「だって、ほとんど皆いるだろ。何人か来てない奴も確かにいるけど、どうせただの遅刻だ。もう五分もしないうちに来ると思うぞ」

「三浦くん、何言ってるの」

 柊吾の言葉に、撫子はすぐに言い返した。

 その口調は強いものではなく、むしろ落ち着いたものだった。だからこそ、撫子の声に微かな苛立ちが混ざり始めた事に、柊吾はすぐに気が付いた。

「雨宮……?」

 奇妙だとは思っていたが、ここまでくると流石に何かあったのではと疑った。

 元々、雨宮撫子という少女はあまり感情を表に出さない。笑う時も、悲しんでいる時も、表情の露出が薄いのだ。

 けして無感動なわけでも感受性が死滅しているわけでもないのだろうが、感情の機微を顔や行動に出すことをしない――あるいは、できないのだろう。色白でほっそりとした身体つきや、内面の聡明さを窺わせる澄んだ瞳も相まって、人形のような生気のなさを窺わせる少女ではあった。

 怒ることさえ珍しい撫子が今、悔しささえ滲ませながら、不安に揺れる瞳でじっと柊吾を見上げている。悲愴さを湛えた瞳が、哀願を訴えている。何故、気づいてくれないのか、と。その切迫感の正体に柊吾の手は届かないが、それでも伝わってくる真剣さだけは、胸を打った。

「……雨宮。どうした」

「どうも、してない。三浦くんまで、どうして……?」

 言いかけた撫子は、背後を気にするように教室を振り返る。つられて柊吾も顔を向けると、生徒達の視線がこちらへ集まり始めていた。思い詰めた様子の小柄な少女と、大柄な野球少年。早朝の教室で怖い顔を突き合わせていれば、人目を引くのも無理はない。柊吾は心持ち声を潜め、撫子に言った。

「場所、変えないか。ちゃんと話、もっかい聞くから。授業まであんまり時間ないけど。なんなら次の休み時間とかに聞いてもいい」

「……分かった。今、ちょっとだけ。お願い」

 青白い顔を俯かせた撫子が、こくりと頷く。柊吾も頷き返してから「鞄、置いて来るから。廊下にいてくれたら、すぐ行く」と囁いて、自分の席に向かった。

 すると、通学鞄を机に置いた瞬間、声を掛けてくる者があった。

「柊吾っ、おはよ!」

 舌足らずで高めの声。日比谷陽一郎だった。元気に手を挙げて挨拶をしてくる級友へ「ん。おはよ」と柊吾は簡素に応え、すぐに踵を返した。

「あれ? 柊吾、どこか行くの? もう授業始まるよ?」

「は? ……ああ。ちょっとな」

 思わず怪訝な目で見返したが、柊吾は口を濁した。そこそこ視線を集めたはずだが、陽一郎はさっきのやり取りを見ていなかったのか。緊張感を全く察しない辺り、暢気なことだと柊吾は思う。

 ただ、その暢気さに今は救われた。

 おそらくはその暢気さが、撫子をも救っていて――同時に、殺している。

「……」

 これ以上考え続けると、陽一郎を睨んでしまいそうだった。撫子の彼氏なら、彼女が憔悴している様を少しくらい気にかけるべきだ。そうは思ったものの、無駄だろうと嘆息した。おそらくは憔悴している事にさえ、能天気な陽一郎は気づいていない。

「柊吾、どうしたの?」とマイペースに訊いてくる陽一郎を「ごめん、忙しい」と柊吾は素気すげなくあしらって、教室を三度みたび見渡した。

 クラスメイトの数は……十、十五、二十……三十。

 現在の撫子のように教室を出ている者や、遅刻・欠席者を勘定に入れたなら、その数は四十に到達する。それで全員だ。三分の一は今ここにいる。全くいつも通りだった。

 撫子は何を思って、クラスメイトが『半分もいない』などと言ったのだろう。クラスメイト達が柊吾を見る目も、どことなく戸惑いを帯びていた。撫子という少女の冷静さは、昔馴染みの柊吾や陽一郎だけが知っている事ではないのだ。楚々そそとした振る舞いや穏やかな感情の波に、羨望を向ける生徒も一定数いる。撫子が今まで見せなかった感情に、皆も等しく戸惑っているのだ。

 柊吾は、陽一郎を見下ろす。柊吾が適当にあしらった事をやや不服に思っているのか、人の良さそうな顔を少しだけ曇らせた、温厚な幼馴染の少年。

「……陽一郎」

「ん?」

「お前、雨宮から本当に、何も……やっぱり、いい。じゃあな」

「柊吾?」

 何を言っても、藪蛇になる気がした。失言をぶちまけてしまう前にと、柊吾は陽一郎に背を向ける。一時間目の授業まで、もう五分を切っているのだ。早く撫子の元へ行かなくては、聞ける話も聞けなくなる。柊吾は背中に視線をひしひしと感じながら教室を出て、引き戸を後ろ手に閉めた。

 そして――異様な光景を、目の当たりにした。

 教室から出てすぐの場所、廊下の窓際に撫子はいた。

 だが、一人ではなかった。

 撫子の前には、数人の男子生徒が集まっていた。どの生徒も身体つきは屈強で、小柄な撫子のか細い背中がかたかたと震えているのを見た瞬間、柊吾は我を忘れて叫んでいた。

「どうした、雨宮!」

 廊下を歩く生徒達はぎょっとして柊吾を振り向き、撫子を取り囲んでいた男子生徒達は、慌てた様子でこちらを見た。その顔を見た柊吾の方も、吃驚びっくりして目を見開いた。何人かは顔見知りの野球部部員だったのだ。相手の方も声を張り上げたのが柊吾だと気づくや否や、露骨な安堵の顔で駆け寄ってきた。

「柊吾! 良かった。お前、えっと……顔見知りなんだよな?」

 いきなりそう言われて、柊吾は面食らった。二の句が継げないでいる間にも、少年達は次々と「よかった。知り合いいて」「ああ、三浦の幼馴染ってこの子か! 小学校が一緒って言ってたっけ」「三浦って呼んでたんだぞ。お前のことかよ」「ほら、三浦、今来たから」と、言葉を雨のように降らせてくる。

「は……?」

「あー、俺ら、ちゃんと前見て歩いてなくて。この子とぶつかっちゃって。転ばせちゃって……」

 ほっとしたように一人が言ったが、柊吾はほとんど聞いていなかった。

 ――何なのだろう。この状況は。

 喉が、からからに乾いていく。窓からの日差しの熱で蒸し暑いはずなのに、肌が温度を知覚できない。皆で一人を取り囲んで、もう柊吾が来たから大丈夫だと、声を掛けて――これではまるで、迷子の少女に、親が来たから大丈夫だと諭すような、異質な構図だった。

 柊吾が顔を強張らせている間にも、安堵の言葉の雨は降り続いた。

 ただ、雨のようだと思ったのは、この時が最後だった。

「えっと、あの、三浦が来たけど……」

「その、怪我ないか?」

「大丈夫?」

「……返事、してほしいんだけど」

 柊吾と撫子へばらばらに掛けられ続けた言葉の群れは、徐々にその勢いを失くしていき、尻すぼみになり、最後には強い戸惑いが残されて、残留した重みを浮き彫りにして、沈黙にすり替わっていく。

 やがて、撫子に声を掛ける男子生徒はいなくなった。

 撫子は、茫然としていた。手が触れ合いそうなほど近い距離で、自分を気遣う男子生徒達には目もくれず、離れた場所に立つ柊吾だけを、驚き一色に染まった顔で見つめていた。

 異様な沈黙が、場を支配した。

 気づけば、廊下にいる誰もが口を利かなかった。柊吾と撫子に関係のない登校中の生徒さえ、雰囲気に圧倒されて口が利けずにいた。

 沈黙が、重みを増した。

 沈黙を守る事で、己を守っているようだった。

 喋れば、怖い事になる。

 それを誰もが、理解しかけていた。

「…………。雨宮」

 ぽつり、と。

 柊吾は、呼んだ。

 途端――――。

「三浦くん?」

 撫子が、返事をした。

 琥珀色の瞳に、涙がみるみる溜まっていく。雫が、頬を滑り落ちた。

「三浦くん……身体が、痛い。ここに……学校に来るまでの間も、痛かった。気のせいって、思おうとしてたのに、でも、やっぱり痛いの。それがすごく気持ち悪くて、嫌なのに、私は……」

「雨宮」

「助けて」

 華奢な身体が、不意に傾いだ。糸が切れたように、人形のような少女が、本当の人形であるかのように支えを失い、倒れていく。すぐさま駆け出してしゃがみ込んだ柊吾の腕を、撫子が掴んだ。

「助けて、三浦くん」

 半袖から伸びた撫子の腕は、冷たかった。無駄な肉が全くついていない、蝋のように青白い細腕を、柊吾がきつく、掴み返した時。

「とても、怖いの」

 まるで懺悔をするように、今にも息を引き取りそうな声で、言い残されて――意識を失った撫子を受け止める為に、柊吾はその細腕を、強く引き寄せた。

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