2-6 遥奈
「義兄さん、変わりなくて良かった」
街路樹から降り注ぐ蝉の音が、母の声を虫食いにした。例年より早く訪れた初夏の音は、盛夏のように伸びやかだ。それでも
「ユキツグ伯父さん、相変わらず
「もう、柊吾ったら」
「でも、やっぱり」
「うん?」
「……いい人、だよな」
「……そうね。いい人ね」
母の差した黒い日傘の内側には、青い影が落ちている。日傘の縁のレースを通して繊細な光の蝶が生まれ、目元で涼しく羽ばたいた。眩しそうに目を細めた母が日傘を少し傾けると、
「……日傘、俺が持つよ」
「いいの?」
「ん」
「……じゃあ、お願い。ありがとう」
ぬるい風が街路樹の葉をそよがせる音と、蝉の声だけが聞こえる白い世界に、柊吾のローファーと母のミュールが、ささやかな歩みを響かせる。昼下がりの駅前は、一度滅びた世界のように静かだった。
中華料理屋を出てから、三十分余りが過ぎていた。恭嗣は柊吾達の住むアパートまで送ると言ってくれたが、母と柊吾はそれを遠慮し、待ち合わせ場所と同じ
去年の夏辺りから、柊吾は母の背を追い抜いていた。身長差が開く度に、母がどれほど華奢かを思い知らされる。背格好が父に近づく度に、単純な嬉しさと、それとは裏腹な哀愁の両方とが込み上げる。感情の手応えを、掴めなくなっていく。恭嗣に進路の話を打ち明けた時と、同じような心境だった。
薔薇の花のような母を守る役割は、父と柊吾だけが共有していたものだった。
だが、今は――少しずつだが、違ってきているのだと思う。
恭嗣とは、また近々会う事になるだろう。時折開催されるこの会食は、実際のところ意味など何もないのだろう。家族が同じ食卓を囲むことに理由や意味づけが不要なように、これは当然の団欒だからだ。
勿論、厳密には家族ではない。だが、家族と呼んでもいいと柊吾は思う。その絆の形を認めて受け入れる事に、抵抗や意地や嫌悪はない。一ミリもないとは言いにくいが、それでも恭嗣は柊吾にとって、居心地がいい相手なのだ。
それに、柊吾とて何度も恭嗣に『真っ盛り』などと揶揄されるほどに、幼い柊吾のままではない。母と恭嗣が表立って言葉の形にしないものが何なのか、分からないほど愚鈍ではないのだ。
三浦恭嗣は、三浦遥奈に
――愛している。
不意打ちで言葉が脳裏を過り、柊吾は内心慌てた。やはりこの言葉は面映ゆく、使い道が難しい。中学生になってから、一層そんな印象が強くなった。
――恭嗣は、母を『愛して』いるのだろうか。
父の影響の所為か、『愛』という言葉自体への抵抗は薄いが、あまり身近には感じられなかった。柊吾に最も近い場所にあった愛は、もうこの地球上のどこにも存在しないからだ。
正確には、喪失したわけではないのだろう。柊吾と母が忘れない限り、在り続けるのだとは思っている。ただ、それはどう考えても感傷だった。その感傷を『愛』と呼んでいいのかもしれないが、『幸せ』と呼んでいいのかは分からない。
まだ若く、一人ではけして生きていけない、まるで少女のような柊吾の母。
そして身近には、そんな母を『愛して』いるかもしれない柊吾の伯父。
もし母が恭嗣の『愛』に靡くなら、新しい家族の形を受け入れようと、柊吾は一応の決心を固めている。だが、母はまだ『三浦遥奈』だ。夫の駿弥が死別して尚、三浦姓を名乗っている。三浦家との
中華料理屋で母が頭を下げたのは、柊吾の為だ。柊吾の進学の為だった。優しい母は、義兄を利用しているようで傷ついているに違いない。
しかも、恭嗣の方も母のそんな内心をとっくに見抜いているはずだ。中華料理屋での品のない会話にはげんなりさせられたが、あれはおそらく、伯父の確信犯だ。恭嗣は母に、異性として嫌われてもいいと思っている。
母の引け目を見抜いた上で、それでも気兼ねなく自分を頼って欲しいから。
これらは全て柊吾の憶測だが、外れているとは思っていない。それに、母の恭嗣への好意は本物のような気がするのだ。柊吾の進学の為という名目だけではなく、曇りのない好意があると思う。
だが、そこに亡くなった父の存在が絡んできて、母は身動きが取れない――。
「……なんだ、これ」
相当、面倒臭い事になっている。柊吾は重い溜息を吐き出して、複雑に絡み合った相関図を頭の中から叩き出した。しばらくは現状維持に留まる悩みに思考を割いても、柊吾が疲れるだけだろう。
「どうしたの? 柊吾」
思わず声に出した所為で、母が小首を傾げている。柊吾は「何でもない」と誤魔化した。
「随分難しそうな顔してたけど、大丈夫? 日傘、持つわ」
「いいって。日傘くらいで疲れるわけねえし」
「……ねえ、柊吾」
「ん?」
「進路のこと、義兄さんに言うと思わなかったから、びっくりした」
「……」
「言わないで欲しいって、言ってたもの。義兄さんに、会う前に。柊吾、野球は森定先生が好きで始めたでしょう。先生はスポーツ推薦を受けたら授業料
「……ああ。そうだな」
「私も、すごいと思う。夢みたいって思ったわ。でも、本当にそれでいいのかなって、思ってしまったの。柊吾の将来がスポーツに限定されてしまって、本当にいいのかな、って。きっと私よりも柊吾の方が、たくさん考えていることだと思う。今も、考えているのよね」
「……」
「ねえ、柊吾。野球、好きって言ってたけど……人生の一部になってもいいくらいに、好き?」
日差しを吸い込んだような明るい風が、さああ、と涼やかに吹き抜けていった。母の髪とワンピースの裾が、風に遊ばれて靡いていく。青々と茂った街路樹の枝葉は、深山の清流のような瑞々しさで、蝉の声と混じり合う。日傘で守られた蒼い影の領域で、いつしか立ち止まっていた二人の傍を、車が走り去っていく。排気ガスを肺が拾い、その熱っぽさに眩暈がした。恭嗣の言葉が、脳裏を掠めた。
「……俺、は……」
――『シュウゴ。……お前。普通科の進学、金の事とか気にしてるだろ』
――『押し付けてるわけじゃない。恩に着せてるわけでもない。だからその上で、きちんと考えろ』
「……っ」
考えている。考えているのだ。だが、決められなかった。森定には近いうちに結論を出すと約束しているのに、少しずつ自分を追いこんで焦らしてみても、立ち尽くしたまま身動き一つ取れなかった。
人生の、岐路に立つ。いつだったか漢字の小テストでそんな一文が出てきた事を思い出す。文字通りこの決断が、柊吾の人生を決める。
運動神経と体力を盾に、スポーツの世界へ身を投じるか。それとも受験して普通科へ進学し、その生活の中で他の道を模索するか。
自分で決めなければ、いけないことだ。実力を見込まれている。だからこそ、選び取ればいい。首を縦に振ればいい。
だが、それでも――まだ、できなかった。
――『人生の一部になってもいいくらいに、好き?』
母の言葉が、胸を貫いている。貫いたまま、抜けないでいる。母の言葉はいつもそうだ。柊吾の身体を刺し貫いて、そして我に返らせる。痛みはなく、ただ元に戻されてしまう。去年の揉み合いの時と同じなのだ。学校でしか学べないものを説いた母の声には、行動を振り返らせて、意識を立ち返らせる何かがあった。
柊吾は、唇を固く引き結んで、自分が一体どんな表情で母を見下ろしているのかも分からないまま、母の視線を受け止めた。
そんな息子の姿を、母はしばらくの間痛ましそうに見上げていたが――やがて泣き笑いのような顔になった。
「ごめんなさい。柊吾。忘れてね。……でも、できるだけ相談して欲しい。無理には、訊かないから。お願い」
「ああ。……分かった」
肩の力が、ふっと緩んだ。日傘を持ってない方の手で短い髪をいじりながら、ぽつりと、付け足すように柊吾は言う。
「……ごめん。これからは、ちゃんと話す」
「あら。本当に、恭嗣義兄さんの言う通りね。素直になっちゃって」
母は少しだけからかうような口調で言うと、柊吾に優しく笑いかけた。無邪気な笑みを見ていると、少し照れてくる。母親と相合傘をしているという状況も相まって、急に居心地が悪くなってしまった。
「母さん。身体、辛くない?」
「辛くないわ。柊吾がいるもの」
気遣うつもりで言葉をかけたら、余計に恥ずかしい事態になった。柊吾は視線を母から逸らし、「帰ろうぜ」と声を掛けた。ゆっくり歩き始めた柊吾に合わせて、母も日傘の影を追った。
こうして、母子二人でいつものように、家に帰り着くのだと思っていた。
母が――弾んだ声で、次の台詞を告げるまでは。
「あら、柊吾。あの子、撫子ちゃんよね?」
肩が強張り、日傘を握る手に力がこもった。足元の影も、柊吾の動揺を映し取って、痙攣するように揺れ動く。
ナデシコ――撫子。
す、と血の気が下がっていく感覚を生々しく感じながら、柊吾は顔を上げて前を見た。――いない。だが、首を傾けるのが怖い。そうやって探してしまう行為の全てを、本能が全力で恐れていた。しかし内心の警句とは裏腹に、柊吾の目は母の視線を辿り始めていた。それを、自分で止められなかった。
そして、柊吾も見つけてしまった。
あと数メートル歩いた先の、横断歩道前。駅舎に併設された大型の駐車場方面へ歩いていく――もう一組の、母子の姿を。
子供の方は、中学の制服姿だった。青と白のチェック柄のスカートは、柊吾のズボンと同じ柄だ。白い半袖ブラウスの襟に留められたリボンタイの中央では、金色のボタンが光っている。肩につくかつかないかといった長さの栗色の髪は、兎の耳のようなハーフアップツインに結われていた。黒い通学鞄は、きつく抱きしめられて皺になっている。
それはまるで、悪夢を恐れた幼女が大きなぬいぐるみを力いっぱい抱きしめる様を彷彿とさせた。小刻みに震える少女の肩を、抱き寄せるように覆う女性にも、柊吾は見覚えがあった。
「ほら、やっぱり。小学校の、二年生と五年生以来かしら。久しぶりね。あ、柊吾は今も同じクラスだから、毎日会って」
「母さん」
楽しげに喋る母を、柊吾は遮った。母が、驚いたように息を呑む。
「柊吾……?」
「ごめん。でも、あいつの事は、ほっといてやってくれ」
「え?」
「挨拶とか、ごめん。しないであげてくれ。頼む」
柊吾は、進路を変えて歩き出す。このまま進めば、信号前で鉢合わせてしまう。多少遠回りをしても、この道は使わない方がいい。いや、使ってはいけない。
「柊吾」
母が、静かな調子の声で呼ぶ。柊吾は無言で母の腕を掴むと、日傘を差し掛けながら歩き続けた。
「柊吾。……撫子ちゃん。泣いているわ」
「……」
「撫子ちゃん。怯えているように見えるわ。……撫子ちゃん、どうしたの」
「……」
何も、答えられない。ただ、己がどうしようもなく不甲斐なく、腹立たしいだけだった。この現実について考える度、絶望の
「……言いたくないわけじゃ、ないんだ」
絞り出すような、声になった。
「でも、……何て説明したらいいか、分かんねえんだ。どう言ったらいいのか、分かんねえし……それは、雨宮の母さんも同じだと思う。……だから、ごめん。雨宮に、話しかけないでやってくれ。多分、できないから」
後半は、滅茶苦茶を言っていた。それ以上の言葉を失くした柊吾は黙ったが、もう逃げられないとも感じていた。
そんな柊吾の覚悟を
「……柊吾。柊吾がそう言うなら、私は撫子ちゃんに話しかけないわ」
「……」
「でも。今の話。撫子ちゃんには話しかけちゃ駄目だけど、雨宮さん……撫子ちゃんのお母さんには、話しかけてもいいっていう風に聞こえるの。……柊吾。やっぱり教えて欲しい。私は雨宮さんに会った時、あの人を傷つけるような言葉を自分が言ってしまうかもしれない事が、とても怖いの。……だって」
一度言葉を切った母は、躊躇いを振り切るように、囁いた。
「撫子ちゃんも、泣いていたけど……お母さんも、泣いていたわ」
アスファルトを炙る初夏の暑さをものともせずに空気を震わせた女性の声は、まるで風鈴のようだった。やはり爽やかな清涼感が、風と共に抜けていく。既視感が、身体を巡った。図書室の出来事が、それより前の出来事が、次々とフラッシュバックする。記憶の毒々しさに喘ぐように、柊吾は息を吸い込んで――
「見えてないんだ」
言葉を、叩きつけた。
「何も、見えなくなったんだ。雨宮。……自分の両親は見えてるし、学校の先生も見えてる。陽一郎の事も、まだ、見えてる。……でも、他は全滅だ。クラスメイトも、いつもつるんでた女友達も、誰も見えてない。今も。通行人、誰も見えてないと思う。……見えてないってことにすら、本人は気づいてない」
「柊吾」
「俺の事も」
母の白い腕が、こちらに伸びてくる。細い指が柊吾の頬に触れた時、柊吾は傘を、取り落とした。
「もう、見えてないんだ」
からん――――。日傘の柄が、アスファルトに打ち付けられて転がった。手毬のように一度弾んだ日傘は、風を孕んでざらざらと舗道に擦られ、飛んでいく。
「見えて、ないんだ……」
項垂れた柊吾の頬と腕を、母がそっと支えた。体格のまるで違う一人息子の頬を、華奢な手の平でそっと包んで、二人で静かに、佇み続けた。
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