2-5 進路

 五分ほど車に揺られて到着した中華料理屋は、大衆食堂に似た雰囲気のこじんまりとした店だった。すすけた暖簾のれんをくぐると、壁に所狭しと貼られた手書きのメニューと、熱い油の匂いに出迎えられた。庶民的な生活感が呼吸に馴染み、柊吾は何となく安堵した。

 今日の授業は四時間目までだったので、朝食をったきり何も食べていない。普段ならば学校で弁当を食べている時刻をとっくに過ぎているので、さすがに空腹だった。柊吾達の座る四人掛けのテーブル席の傍を、店員が餃子の盆を持って通り過ぎる。ほわほわと立ち上る湯気を目で追った柊吾が思わず「ギョーザ」と呟くと、対面に座った恭嗣が吹き出した。

「柊吾、どんどん好きなの頼め。誕生日に何もしてやれなかったからな。何でも食っていいぞ」

「ユキツグ伯父さん、格好つけてるけど、本当に何でも頼んで大丈夫なのか?」

「食べ盛りだからな、そんなもんだろ。何しろ真っ盛りな中学二年だしな」

「さっきから、真っ盛りっていうのやめろ」

 母の目を気にした柊吾はメニューで伯父の肩をはたいたが、恭嗣はどこ吹く風で「はいはい、シュウゴはほっといて。ハルちゃん決まった?」と母に水を向けた。

「えっと、そうね……」

「母さん、残したら俺食うから」

 隣の席でメニューと睨めっこをしている母に、柊吾は助け舟を出した。ひょいとメニューを覗いた恭嗣も、「中華だしな。皆でつっつくから残んないって」と安心させるように言った。柊吾には真っ盛りと連呼するくせに、母の遥奈には誠実に応対するのだから釈然としない。柊吾は半眼で睨んだが、恭嗣にはにやにやと笑われた。伯父とおいによる視線の攻防を見た母が、ふっと可笑しそうに息をつく。

「ごめんなさい、気を遣わせてしまって」

「気にしないでいいって。いつも言ってんのになー、ハルちゃんは」

「ありがとう、恭嗣義兄さん。ええと、じゃあ、唐揚げ食べたいです」

「ん、ここは唐揚げも美味いよ。あとは、ラーメンっと。ほれ、柊吾。食いたかったんだろ? 色々あるぞ。どれがいい?」

 恭嗣は八重歯を見せて、人懐こく笑った。鷹揚な笑みを見つめた母は、穏やかな笑みを返して俯いた。どことなく親密で、それでいて余所余所しい、曖昧でむず痒い不思議な空気が、厨房からの湯気と一緒に漂った。柊吾も、メニューのラーメンを眺めるふりに勤しんだ。相手も見られたくはないだろう。だが伯父はこちらの配慮を台無しにして、愉快げにはやし立ててきた。

「ほら、シュウゴも。もっと言えって。中二で真っ盛りな十四歳が、餃子くらいで足りるわけないだろ?」

「ああああ! うぜぇ! ユキツグ伯父さん、うっぜぇ!」

 わあわあ騒ぐ二人を見た母が、口元に手を当てて笑った。品のない会話だったが、それでもこれは、恭嗣なりの配慮だろう。店員にてきぱきと注文を述べていく恭嗣を見ながら、そんな風に柊吾は思う。

 三浦恭嗣は、柊吾が生まれた時から傍に居てくれたらしい。安産祈願のお守りを持って産院に駆けつけてくれたのだと、父の駿弥から聞いたことがある。

 剽軽ひょうきんで人を笑わせることが大好きな伯父の名前にどんな漢字が当て嵌まるのか、柊吾は長年知らずに過ごしてきた。ふと気になって教えてもらった漢字は柊吾にとって思いのほか難解で、「キョウジ」と誤読してしまった。本人は慣れているそうなので「別にキョウジでもいいぞ」と言ってくれたが、名前はきちんと呼ぶべきものだと思う。律義に「ユキツグ伯父さん」と呼ぶ柊吾を幼い時から弟分のように可愛がってくれたので、柊吾は昔から伯父と遊ぶのが楽しみだった。一人っ子なので、兄のようにも感じていたのだ。

 ただ、そんな伯父と遊ぶ日は、正月や夏休みといった長期休暇がほとんどで、頻繁に会うようになったのは、父を亡くしてからだった。

 柊吾の学費は大半が母方の祖父母に支えられていたが、恭嗣にもかなり助けられている事を、柊吾は既に知っている。恭嗣の仕事について詳細はあまり知らないが、精密機器の製作会社で働いているらしく、待ち合わせ時間が適当だったり柊吾を大人げなくからかったりする姿からはあまり想像できないが、社内では偉い方らしい。

「そういやシュウゴ、今日は学校が午前中で終わりだって聞いてたけど、テストだったのか?」

 不意に恭嗣が声を掛けてきたので、柊吾は我に返った。伯父に会うとどうしても、昔を振り返り過ぎてしまう。「あー、テストじゃないけど、今日は特別」と答えた柊吾は、母が差し出してくれた割り箸とお手拭きを受け取った。

「隣のクラスの奴が一人、もうすぐ転校するらしいんだ。そいつの送別会をするとかで、今日の午後から隣のクラスの連中、全員でどこかに遊びに行くって聞いた。他のクラスの奴らは、下校なり部活なり自由にしろってさ」

「なんだそりゃ。転校生一人に対して、随分な特別待遇だな」

 目を瞬く恭嗣へ、「ああ、意味分かんねえよな」と柊吾も深く同調した。

「その子、シュウゴの顔見知りか?」

「一応。けど、大して話したことねえ女子だし。どうでもいい」

「なんつーか、小学生のお楽しみ会だな。中学でもそんなのやらされるのか?」

「ん。違うクラスで助かった。すげえ面倒臭そう」

「柊吾ったら」

 あけすけな物言いだったので、母がたしなめるように苦笑した。

「何もそれだけが理由じゃないのよ、義兄さん。学校側から連絡があって、午後の授業がなくなっちゃったの」

「へえ? なんでまた」

「夏休み前の学園祭の、準備期間の前倒し……って聞いているけれど、実際にはまだ準備で動いている学級って全然ないみたいなのよね。それに、もうすぐ中間テストの時期だし……考えてみたら、少し不思議ね」

 母も、言われて初めて気づいたとでも言うように小首を傾げた。柊吾の方はもらったプリントを母へ渡しただけなので、自分では目を通していない。理由について、疑問すら持たなかった。

 ただ、何となく――憶測でなら、分かる気がする。今、柊吾達の通う袴塚西こづかにし中学校は、普通ではない。自分達の学校が異質な場所になりつつある現実に、気づいていない生徒などいないはずだ。

 ただ、そんな事情を母や恭嗣へどう説明すればよいのだろう。柊吾は「ユキツグ伯父さん」と呼んで、その懸案から二人の注意を逸らした。

「国語の授業、今日も図書室だったんだけど。前に電話で言ったアレ、持ってきてくれた?」

「ああ、アレか」

 振り向いた恭嗣が、したり顔で笑ってきた。

「持ってきたけど、難しいのばっか揃えてきたからな? エロ本ぐらいしか読んでこなかったシュウゴに読めるのか?」

「いい加減にそっち方向から離れろ、エロ兄貴」

「お、言ったな? じゃあシュウゴ。五冊持ってきたけど、一番分厚くて話が長いヤツを選べ。できるだろ?」

「いいぜ。上等だ」

「言ったな? 聞いたからな? 男に二言はないよな? 言っとくが、一番長いのは上下巻だ。二冊ともかなり分厚いぞ? さっきの無謀な発言、取り消すなら今のうちだぞ?」

「はあっ? 読めるし。言うわけねえだろ。他の本も全部まとめて読んでやるし、今度ユキツグ伯父さんちの本棚、全部攻略するからな。見てろ」

「もう、柊吾ってば。義兄さんも、すぐにあおるんだから」

 母がおろおろと柊吾と恭嗣を交互に見て、溜息を零した。

「柊吾、いい加減な選び方をしたら後悔するんじゃないの? 本を全部読んでから書かないといけないんでしょ? 国語の課題の、読書紹介」

 労りの声が胸に刺さり、ぐっと柊吾は黙り込む。明らかに柊吾の読解力を心配されていた。国語の成績は図抜けて悪いので、その心配も無理はない。

 柊吾が恭嗣に頼み込んで、本を調達するには理由があった。

 ――『各々おのおのが選んだ小説を、文章とイラストで紹介するポスターを制作する』

 現在、柊吾達の国語の授業は場所を図書室に移していて、課題の提出と発表の為に、各自で作業を進めているのだ。授業中は一応班ごとに着席しているが、ただの席順以上の意味はない。生徒達の行動にも制約はなく、図書室で課題の本を選んだり、本が決まっている者は早速ポスター制作に取り掛かったり、時間の使い方は様々だ。半分自習のような授業なので、気楽に構えている生徒も多い。

 ただ、柊吾の場合は、周囲と同じようにはいかなかった。

 ――圧倒的な、読書不足が原因だった。

 児童書ならば大昔に読んでいたが、他は見事にさっぱりだった。読書紹介の本は自由に選んでいい代わりに、絵本や漫画は禁止という縛りがある。クラスの友人と連れ立って本屋にも行ってみたものの、結局柊吾だけ一冊の本も選べなかった。どの書架のどの本を見ても同じに見えたのだ。

 そんな経緯から、柊吾は恭嗣に『面白い本』の選別を一任したのだった。『星の王子さま』も、以前に恭嗣が読書感想文の宿題用に選んでくれた一冊だ。

 課題の提出期限は二週間以上先であり、最終手段として『星の王子さま』を紹介するという手もある。だがそれは柊吾にとって少しだけ恥ずかしい選択なので、できれば使いたくない奥の手だ。少年と月が繊細なタッチで描かれた表紙の本を紹介するのがいかついガタイの野球少年では、何を言われるやら分からない。柊吾は体裁をさほど気にしない性質ではあったが、わざわざ悪目立ちはしたくない。

「まあ、せっかくシュウゴがやる気みせてるんだからさあ。どこまでできるか見てみたいじゃん」

「じゃあ、その一番分厚い上下巻って」

 ――何てタイトルの本なんだ?

 そう訊こうとした時、テーブルに餃子の皿が運ばれてきた。柊吾は途切れた言葉を呑み込むと、全員分の小皿に醤油とラー油を垂らし始めた。

「ありがとうね。柊吾」

 母が礼を言って柊吾から小皿を受け取った時、「ああ、そうだ」と恭嗣がおもむろに、話を戻すような気軽さで言った。

「シュウゴ。お前さ、進路どうするとか決めてんの?」

 ぱきん――と。割り箸が、音を立てて割れた。綺麗に割れず、先端が片方尖ってしまう。母が、柊吾を横目で見た。揺れた黒髪を視界の端に捉えながら、柊吾は斜め前に座った伯父を見る。

 恭嗣は、あっけらかんとしたものだった。柊吾をからかった時と、ほとんど表情が変わらない。少しの間思案したが、結局柊吾は、薄く笑った。

「ほんと、ユキツグ伯父さんってストレートに訊いてくるよな。デリケートな問題だったらどうするんだ」

「デリケートぉ? よく言うよマセガキ。そんなタマじゃねえだろ」

「進路とか、早いって。まだ中二の一学期だし」

「まあ、言いたくないなら訊かないけど」

 恭嗣も、ぱきんと割り箸を割った。柊吾同様に上手く割れなかったからか、残念そうに眉根を寄せている。頓着なく解放された柊吾は呆けたが、同時にこの展開を予期していた自分も感じていた。恭嗣は何でもさばさばと口に出すが、こちらが渋ると深追いしない。それを知っていたから、柊吾ははぐらかしたのだ。

 だが、隣で母が後ろめたそうに、目を伏せた姿を見てしまうと――勿体付けて黙りこくっているのが、急に馬鹿らしくなってしまった。

「シュウゴ、ほら。念願の餃子だぞ? 冷めないうちに食えって」

「推薦、もらってるんだ」

 グラスの水へ伸びた恭嗣の手が、止まった。溶けかけた氷が罅割れる音が、店内の空気にも小さな亀裂を生んだ気がした。

「野球で、スポーツ推薦もらった。東袴塚ひがしこづか高校の、体育科。……まだ、返事はしてないけど」

 淡々と、柊吾は打ち明けた。機械が喋っているような声だと、自分でも思う。身の内を過る感情は、綿雲のように茫洋としていて、一向に手応えを掴めない。恭嗣はぽかんとした様子で、柊吾の顔を見つめている。隣では母も呆然の顔で、口元を手で押さえていた。

「シュウゴ、それ……えっ、野球? マジで?」

「ん。マジ」

「おお」

 感嘆の声で、恭嗣は言う。だが口調とは裏腹に、その表情は神妙だった。剽軽な側面が目立ちがちな伯父らしくない、真剣な顔つきだった。

「……そうか。東袴塚か。あんまり詳しくないけど、強いのか?」

「ああ。強豪だってさ」

 恭嗣は、黙ったまま箸を握った。自分が食べなければ誰も食べないと思ったのか、餃子を一つ摘まんで小皿に取っている。湯気がふわっと、箸の動きを追いかける。熱せられた胡麻油の匂いが、テーブル席に広がった。柊吾も餃子に箸を伸ばしたが、丁度そのタイミングで恭嗣が言った。

「返事、もう決めてんのか?」

「……。まだ決めてない。でも、前向きに考えようとは思ってる」

「ん。そうか」

 簡素な言葉だった。先程までの盛り上がりが嘘のように、場が打って変わって静かになる。母が口を開きかけたが、それよりも恭嗣の方が早かった。

「……あんまりさあ、回りくどいの、俺苦手なんだよな。だから、はっきり言うぞ。シュウゴ。……お前。普通科の進学、金の事とか気にしてるだろ」

「義兄さん」

 掠れた声を上げた母を、「ハルちゃん、いいから」と恭嗣がやんわり制し、柊吾の瞳をじっと見た。

「俺が出す。気にするな。押し付けてるわけじゃない。恩に着せてるわけでもない。だからその上で、きちんと考えろ。お前、本とかろくに読んでこなかった運動馬鹿だけど、勉強が全くできないわけじゃないだろ。受験が嫌で逃げようとか考えてるわけじゃないはずだ」

「……。そういう言い方されたら、ないとは言えない」

 皆と違って、受験をせずに済むかもしれない。それは魅力的だと柊吾は確かに思ったからだ。聞いた恭嗣は、からからと笑った。

「素直なもんだな。勉強からは、好きなだけ逃げてもいい。けどな、こっちの問題からは、シュウゴ。逃がさないからな」

「大人としてどうなんだ。その発言」

 呆れた柊吾が指摘すると、恭嗣はやはり明るく笑って「はい、じゃあこの話はおしまいな」と言って手を叩き、話を勝手に締めくくった。

「せっかく親戚で楽しくめし食いにきたのに、悪かったな。餃子が冷める」

「ほんとにな」

 柊吾が強く頷いてやると、「こら」とふざけ半分の拳が突き出されてくる。骨ばった大人の握り拳へ己の手の平を打ち付けながら、柊吾はにやりと笑ってやった。

「ユキツグ伯父さん」

「ん」

「さんきゅ」

「おう」

 義兄と息子のやり取りを、母は無言で見守っていた。そして、どことなく儚さを感じさせる笑みを、まだ老いの影がまるで見えない白い頬へ浮かべて――

「ありがとうございます。恭嗣義兄さん」

 深く、頭を下げたのだった。

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