2-4 愛

 柊吾の母、三浦遥奈はるなは病弱だ。物心ついた時から柊吾にとって家族とは、父が母を労わりながら暮らすという、そんな生活基盤そのものを指していた。

 母は昔から、意識を失って倒れ伏すことが多かった。たくさん歩いた日。日差しの強い日。寒暖差が激しい日。環境の変化に対応できず、体調を崩して寝込みがちな母は、柊吾たち人間とは違う繊細な生き物か、育てるのがとても難しいという薔薇のようだ。その考え方は、最近読んだ本の影響もあるだろう。サン・テグジュペリの『星の王子さま』。熱心に薔薇の世話をする少年の姿を目にした時、すとんと符号が胸に落ちて、ああ、と瞠目どうもくしたのを覚えている。まるで、あの頃の我が家だからだ。

 薔薇を守る少年は、薔薇からの見返りを求めていたわけではない。それは柊吾も父も同じだった。母の事が好きだからだ。母に傍にいて欲しいからだ。そんな素朴な想いさえも、きっと理由には当たらない。母を守るという行為に、理由は何も要らないのだ。

 幼い柊吾に手を引かれて歩く母は「王子様みたいね」と言って微笑わらっていて、反対側の手はいつも、父にしっかりと握られていた。

 笑顔以外の顔を思い出すのが難しいほど、父が母を見る目は優しかった。多分あれが、愛の正体なのだと柊吾は思う。本や流行歌で山ほどうたわれるものとは格が違う、薔薇が花弁に受けた朝露のように透明で、その輝きで花輪を編むように穏やかな言葉を紡ぐ父は、母を深く愛していた。普段は「母さん」と母を呼ぶのに、柊吾が少しでも場を離れると、「遥奈」と呼び名を変えている。そんな父の事を母も「シュンちゃん」と呼んでいて、まるで新婚ほやほやの夫婦か付き合いたてのカップルのようだと、今ならば少し呆れただろう。けれど柊吾はそんな両親が好きだった。むしろ柊吾が近寄ると呼び名を改められるのが、少し不満だったくらいだ。好きに呼び合えばいいのにと指摘すれば二人で見つめ合ってはぐらかされ、それも何だか面白くなかった。完全に二人の世界だった。

 柊吾が小学六年生の春まで、そんな夫婦の愛は続いた。

 そして、唐突に終わったのだ。


 会社帰りに。

 信号待ちをしていたら。

 歩道に乗り上げてきた車に。

 撥ねられて。

 即死。


 新聞記事を出鱈目でたらめに切り裂いてばら撒いたような情報が、十一歳の柊吾の頭を殴りつけてきた日に起きた事は、きっと世間的にはありふれていて、珍しい話ではないのだろう。だが、どこにでも転がっていそうな悲劇の一例が、我が家に降りかかってくるなんて、夢にも思いはしなかった。

 ――愛している。

 生前の父は、母に毎日のように囁いた。そんなに言えば価値が薄れて消えてしまうのではないかと呆れるほどに、甘い言葉をよく掛けた。

 どうして、言葉を重ねるのだろう。小学二年生頃に、柊吾は訊いた事がある。

 あいしている。意味は分かる。好きな人に言う言葉だ。それに「好き」と言うよりもずっと難しい言葉だろう。言葉の使い方はあれほど見せつけられたら嫌でも分かるが、どうして毎日言うのだろう。繰り返し言われなくても、母は父に愛されていることを知っている。母も父を愛していて、二人はとても幸せだ。

 質問を受けた父は、瞳によぎった寂しさを微笑でそっと隠して膝を折り、幼い柊吾と目を合わせた。

『柊吾。今から、少しだけ難しい話をする。分からなかったら、何が分からなかったか訊いてくれ。きちんと、柊吾が分かるように話すから』

 父の落ち着いた台詞からは、普段の明るさが薄れていた。代わりに覗いた真剣さが、今から始まる話が大切なものであり、身を入れて聞くべき教育なのだと悟らせた。柊吾がズボンのポケットに突っ込んでいた手を引き抜くと、父は幼い息子が自ら居住まいを正した姿を、どことなく微笑ましげに見つめていた。

『柊吾。母さんは、身体があんまり丈夫じゃないだろう? 陽一郎君や撫子ちゃん、みいちゃんのお母さん達みたいに、柊吾と一緒に走ったり遊んだりするのが、長い時間は難しいだろう?』

『うん。でも、そんなの仕方ないじゃん。おかあさんが疲れるの、いやだ』

『お前は優しいな』

 父に髪をくしゃくしゃと撫でられた時、何故だか柊吾は泣きそうになった。だが、我慢した。父と話している間に、涙を見せるのは嫌だった。泣く時は、父も母も見ていない所で一人がいい。生まれて初めて、そう思ったのだ。

『柊吾。母さんは、とても怖いと思うんだ』

『こわい? 何が?』

『生きられないことが、怖いと思うんだ。父さんや柊吾と離れ離れになることが、とても怖いと思うんだ』

『おかあさんは死なない』

 柊吾は、大きな声で言った。泣かないと決めていたのに、すぐ近くにある父の顔が、どんどん滲んで見えなくなる。これ以上泣くもんかと歯を食いしばったが、鼻の奥がつんとした。

『死なない。いるよ。ずっといる』

『ああ。死なないよ。大丈夫だ。柊吾』

 父の腕が、伸びてくる。柊吾の頭に置かれた手はそのままに、空いている方の手が背中に回され、抱きしめられた。

『死なない。死なない。死なない』

 力任せに父の胸板を殴ったが、十にも満たない少年の拳など、大人にはまるで敵わない。自分の手が、痛いだけだ。父の身体は、がっしりしていた。母を守れる大人の身体だ。柊吾とは背丈も丈夫さも違う身体に、どんな痛みをぶつけられるというのだろう。柊吾の手は、小さ過ぎた。柔らか過ぎて、非力過ぎた。母は死なないという言葉で、自分を勇気づけているだけだった。やがて殴り疲れ、泣き疲れ、父の服に顔を埋めていると、背中が優しくさすられた。

『柊吾。悲しい話をして、すまなかった。でもな、怖いのは母さんだけじゃない。それに、柊吾だけじゃない。まだ、母さんがいなくなってしまう事を、怖いと思っている人がいるよな? 誰だと、思う?』

 腫れぼったい目を真上に向けたが、父は笑って、柊吾の顔を自分の胸に押し付けた。

『考えてしまうんだ。遥奈がいなくなったらどうしようって。僕はとても弱いから、遥奈がいないと駄目なんだ。でも、遥奈はいつか、僕が見送ることになる。それが、もし明日だったら? そんな風に、考えてしまうんだ』

『おとうさん』

『怖いよ。とても。だから、言うんだ。遥奈がいなくなってしまう日に、愛してるって言えなかったことが、後悔にならないように。毎日本気で、心から言うんだ』

 父の手が柊吾の頭から外れ、両腕できつく抱きしめられた。

『お前もいつか、そんな風に思える女の子ができたら、こっそり父さんに教えてくれよな』

 そういう台詞は、女親が言うものだろう。今なら言ってやりたい文句が山ほど思い浮かぶのに、当時は一つも考え付かなかった。中学生になった今なら、柊吾にも分かることが一つある。あの時、父が柊吾をなかなか離さなかったのは、父も泣いていたからだ。

 皮肉なものだと思う。早逝そうせいしたのは、虚弱体質の母ではなく、父だった。こんな結末、誰が予想できただろう。父としても予想外だったに違いないが、狡いな、と柊吾は時々、遺影を見つめながら思っている。父はこの結末を、どこかで喜んでいる気がするからだ。母を見送る役目を永遠に放棄できて、その辛さから永劫に解放されたことを、確実に一ミリくらいは喜んでいる。

 柊吾の予想を聞いた母は、目尻に涙を滲ませて笑っていた。そこには惜別の想いもあったのかもしれないが、明るく笑い合えるほど、傷は癒えていたと思う。

 ただ、柊吾と母がそんな心境に至るまでの変遷は、順風満帆とは言い難かった。

 病弱な母と育ち盛りの息子がこれまで通りに生きていくには、あまりに柊吾達に力がなかった。今でこそ母は体調を持ち直して仕事へ出られるようになったが、当時は寝込みがちなままだった。それでも柊吾を養わなくてはと気負った母は、もう思い出したくない程がりがりに痩せてしまい、出かけようとする背中を柊吾は必死に止めたものだ。祖父母や親戚の援助を受けてなんとか生活は回ったものの、母子家庭を取り巻く人の目を、否応にも意識せざるを得なかった。

 柊吾は中学へ入学するなりアルバイトをしようと学校に掛けあったが、十二歳の少年が担える仕事は何もなく、大人の許可も下りなかった。柊吾の話を聞いた教師は、厳めしい顔をする者もいれば、憐みの目をする者もいた。その両方の人間が、柊吾の話を突っ撥ねた。

 いわく、子供が社会に出る年齢には達していない。

 その言い分は柊吾にとって、到底受け入れられないものだった。

 卒業まで待てと言うのなら、その間に壊れてしまうものに、手が届かないではないか。柊吾達が今のような生活を続けていけば、おそらく母は、いつか笑ってくれなくなる。それを分かっているのは柊吾だけだ。茎に痛々しい傷を負った花に包帯を結んで救う行為の、一体何が駄目なのだ。この局面で唯々諾々と引き下がる程度の覚悟なら、初めから教師の元になど来ていない。ごり押す覚悟で来ているのだ。邪魔をするつもりなら、勝手にやるだけの話だった。

 そんな反抗的な感情は、柊吾の目と顔にしっかり表れていたのだと思う。当時の担任だった男は、柊吾へ朗々と説教を垂れた。

 長く、不愉快な話だった。一年前に受けたその説教のほとんどを、柊吾はもう忘れているが、一つだけ記憶に刻み付けられた言葉があった。

 ――お前は、親や、親戚、学校の先生、色んな人に生かされて、今ここにいるのだ、と。


 生かされて。


 その言葉をぶつけられた瞬間、柊吾は尋常ならざる激昂を見せて、教師へ掴みかかっていた。

 生かされている。生かされている。生かされている。

 冗談ではなかった。生きているのだ。今、息を吸って。それを誰かの恩恵だなどと思いたくなかった。だが頭では分かっていた。そう言われても仕方のない己の立場くらいは分かっていた。実際に、周囲からの同情で食い扶持ぶちを繋いでいるようなものなのだ。それに家庭の事情を抜きにしても、一面においては間違いではないことまで分かっていた。食事には金がかかる。水を飲んでも金がかかる。教育にだって金がかかる。生きているだけで金がかかる。息をするのにだって金が絡んでいるかもしれない。

 生かされている。金食かねくい虫だ。そうだろう。正しいだろう。

 だから何だと言うのだろう。

 当たり前のことを言われて、それに対して怒るなという方が無理だった。

 ぶっ潰す。そう思った。頭に血が上った柊吾は、教師と揉み合いになったが――そこで仲裁に入ってくれたのが、野球部顧問の森定だった。

 職員室の椅子が倒れ、書類がわやくちゃになって散らばる修羅場に飛び込んできた森定は、揉み合う柊吾達の間へ屈強な身体で押し入ってくるなり、教師の方へかつを入れた。大人が大人を怒るところなど、初めて見たかもしれなかった。柊吾は他の教師達に山ほど怒られたが、そんな教師達を怒ったのは森定だった。一体何に対して憤ったのかと話をよくよく聞いてみれば、例の「生かされて」発言がかんに障ったというのだから恐れ入る。同年代のガキのような先生だ、と肩透かしを食らって怒りを学校に置き忘れてきた柊吾は、気の抜けた感想を持ったものだ。

 教師と揉め事を起こしたにもかかわらず、柊吾はお咎めなしだった。普通ならば何らかの処分もあり得そうな事態だったが、教師の指導の言葉の方にも適切でない表現がどうだとかこうだとか、何やら難しい弁護を森定がしてくれて、なんとか内々で片がついた。

 ただ、さすがに柊吾の親がこの状況を知らないまま終わるというわけにはいかなかった。この一件は母に電話で伝えられ、柊吾はその日、温厚な母にしては珍しいほど厳しく怒られてしまった。

 柊吾は当時、高校へは行かずに中卒で働くことまで考えていた。そんな柊吾の覚悟に、母はこの時気づいたのだろう。頑なに考えを曲げない柊吾に向き合い、懇々こんこんと真摯に説き伏せた。

 高校には、必ず行って欲しい、と。

 そんな願いを聞いた瞬間、学歴だとか、就職口の幅だとか、そういった心配をされているのかと思って反発した。だが母が柊吾へ説いたのは、それらとは全く別の話だった。

 高校で、たくさんの人と出会って欲しい。自分と同じ子供達の中で、色んな考えにぶつかって欲しい。それらを知って、考えて欲しい。自分と何が違うのか、学校でしか学べないことを学んで欲しい。

 それらを知ることを、父の死を名目にして諦めて欲しくない、と。

 そこまで言われて、説き伏せられて――柊吾に返す言葉など、あるはずがなかった。

 父の死を名目にしている。その言葉が胸に突き刺さった所為だろう。生かされていると言われた時には反発しか出て来なかったが、こちらは同じ図星でも、胸に染みる何かがあった。

 働きたいという願望が、薄れたわけでは決してなかった。ただ、今の自分がすべきものを、おざなりにしかけたことは、多分学べた。

 今の柊吾があるのは結局、色んな人達に支えられたおかげなのだ。今ならば、素直にそう受け入れられる。父が亡くなり、恭嗣との親交が深まり、森定に出会って、母に諭される。こうやって、一人の人間の色が変わっていく。柊吾は確実に小学生の柊吾とは違う人間になっていて、そんな変化は嫌いではなかった。

 森定と、恭嗣。家族ではないのに、柊吾を支えてくれた大人達。

 二人に対して、柊吾ができることは何だろう。

 そんな風に思考を馳せた時、何かを返したいという気持ちの他に、ほんの少しだけ窮屈さも感じ――いつもそこで、思考を停止させてしまうのだった。

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