2-3 ユキツグ

 袴塚西こづかにし駅に着くと、人通りが緩やかな改札口を素通りし、待ち人の姿を探した。

 待ち合わせの時刻は十三時。図らずも急いで学校を飛び出してきたので、十五分も早く着いてしまった。相手はまだ現れていないかもしれない。

 待ち人は何に対しても大雑把なので、待ち合わせの時刻を決めた時も「十三時前後くらいで」と気楽に言っていた。本人いわく、分度器で角度を測るように何かを正確に定めるということが苦手らしい。意味はあまり分からないが、漠然とした共感は呼ぶ言葉だった。

 柊吾にもできないこと、苦手なことはある。その最たるものが学校の勉強だ。決して成績が悪いわけではないが、どんなにテスト前に根を詰めても、順位は中の上が限界だった。きっと勉強の仕方や要領が悪いのだろう。

 ともかく、柊吾にとっての『勉強』が、相手にとっては『時間』なのだ。その程度の些事にまで神経を尖らせていては、自分は近々、限界を迎える。野球がストレス発散になれば良いのだが、今はそちらに意識を回すことも、煩悶はんもんを助長させるだけだった。重い思索に意識が引き摺られかけた時、午後の穏やかな喧騒を掻い潜って、聞き慣れた波長の声がした。

「シュウゴ」

 はっと辺りを見回すと、駅前ロータリーの隅に白い車を見つけた。運転席から出てきた中肉中背の男が、こちらへ片手を挙げている。助手席には白いワンピース姿の女性もいた。早く着いたつもりでいたが、一番遅れていたようだ。頷いた柊吾は、くすんだコーラルピンク色の煉瓦で舗装された道を走る。細長いプランターで咲く薄紫のデイジーの傍を通り過ぎ、あっという間に男の正面に到着すると、余所行よそゆきの笑みを形ばかり浮かべて見せて、すっと浅くお辞儀した。

「ユキツグ伯父おじさん。お久しぶりです」

「なんだお前。敬語なんか使いやがって。つれねえなあ」

 せっかく礼儀正しく振る舞ったというのに、つっけんどんにあしらわれた。憮然とした柊吾が「なんだよ」と悪態をくと、「ん、やっぱりそういう喋り方の方が落ち着くよ」と快活に答えた男は、目尻に微かな小皺を刻み、柊吾の短い髪を撫でた。

 あまり好きな仕草ではないので、柊吾は抗議の意味を込めて、手を軽く振り払う。慣れている男も肩を竦めて「反抗期か?」と茶化してきたので、歯をむき出しにして笑ってやった。

「そりゃあ、まあ。中二だから」

「おお。真っ盛りじゃん。それなら仕方ねえか」

 拳を突き出してくる男へ、柊吾も同じように拳を突き返す。二人でじゃれ合っていると、ぶーん……と機械の作動音が聞こえ、車の窓が開いた。助手席に座った人物が、カンカン照りの下で小突き合う中年男と中学生男子の二人を、微笑ましげに見つめている。少し照れ臭くなった柊吾は、ぶつけ合っていた拳を、ズボンの横に下ろした。

恭嗣ゆきつぐ義兄にいさんったら。いつまで柊吾をからかってるの」

 日差しの熱気がアスファルトから立ち上る中で、蝉の音と混じり合ったその声は、風鈴のように涼やかだ。軒先に水を打つような清涼感を、かつて別の人物に対しても連想した事を思い出して、息が止まる。既視感を振り切る為にかぶりを振ると、車内の人物の笑みがほんの一瞬静止したが、やがて薄く笑ってくれた。

「おかえりなさい。柊吾」

「ただいま。母さん。ユキツグ伯父さんも」

「俺はついでか。生意気になったもんだな」

 豪快に笑い飛ばされ、柊吾も釣られて少し笑った。後部座席の扉を開けて車内に入ると、白シャツから伸びる剥き出しの腕に、空調の冷えた風が吹きつける。

「これから、何を食いに行くんだっけ?」

「中華よ。もう、柊吾がラーメンと餃子を食べたいって言ったからお店決めたのに。すぐ忘れちゃうんだから」

「ああ、そうだっけ。ごめん」

 通学鞄を座席の空いた所へ投げ出した柊吾は、助手席の黒髪をぼんやり眺める。肩の辺りで丸く切り揃えられた、線の細い柔い髪。艶やかな毛先が掠める、白くほっそりとしたうなじ

 華奢きゃしゃだと思う。授業参観で見た同年代の母親達の、誰より華奢で脆いと思う。その感想は多分だが、これからも変わらないのだろう。変わる日が来ればいいと切に願うが、今のところ柊吾の願いは叶っていない。

「シュウゴも来たことだし。行くか」

 音を立てて扉が閉まり、初夏の日差しが遮断された。快適な温度に調整された影の内側から眺める駅前は、陽光に炙られて輝いて見える。街路樹の葉が落とす影には、夏空色が映っていた。何となく、そちらに行きたいと柊吾は思う。そちらの方が、気持ちがいい気がした。発車の振動に身を任せ、背中を座席のシートにうずめると、柊吾はミラーに映った顔を見る。運転席に座る男の目は、猫に似たアーモンド形で、子供のような茶目っ気を含んでいる。普段はあまり意識しないが、ほんの少し、父に似ていた。

 ――まだ、三年も経っていないのだ。

 もっと経った気もすれば、まだまだ全然経っていない気にもなる。どちらだか分からないのが何だか奇妙で、感情も上手く働かない。毎日が忙しいから、麻痺してしまったのだろうか。がむしゃらに生きるということは、代償に感覚の鈍磨どんまを受け入れるということだろうか。柊吾は感情を思い出そうと自分の心と向き合ってみるが、回想して掘り起こされる感情は、母の涙を伴っている。すぐにやり切れなくなって、思考を放棄した。

 今は、目先の団欒だんらんに集中した方がいい。

 伯父との会食は、一か月ぶりだっただろうか。車窓から眺める駅の景色が流れ去るのを、空っぽの心で柊吾は見る。

 そして、笑顔で会話を振ってくる男、三浦恭嗣――死別した柊吾の父、三浦駿弥しゅんやの兄――の言葉が聞こえてきたので、無為むいな思索をさっぱりと断ち切ると、会話に応じる為に、そちらを向いた。

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