2-2 柊吾
追いつかれては困る。そう思っての行動だったが、相手も簡単にこちらを逃がす気はなかったらしい。
「
慌てた様子の声が、背後から聞こえてきた。変声期を迎えても、この級友の声は少し高い。身体の線の細さも相まって、女子のようだと時折思う。
――無視する。
振り返らずに大股で歩く度、肩から提げた学校指定の通学鞄が、胴に当たってぱかぱか揺れた。「柊吾ってば! 待ってよ!」ともう一度声が掛かったが、当然それも無視だ。他の行動などあり得ない。それでも小走りでついてくる足音から逃げてやろうかと思ったが、意地を張って足を早めるのも癪だった。それに無理やり振り切って
先に片付けるか、後で片付けるか。
……先に片付けた方が、少しはマシか。
そうやって、雑に結論付けると――
「待ってって……言ったのに……!」
「じゃあ、ついて来なきゃいいだろ」
「だって……柊吾、逃げるから……」
「……」
こいつから逃げてやろうか、と。先程自分でも思ったところだ。だが実際に目の前の人間から言われてみると、承服しかねるものがある。柊吾はぎろりと
「おい、用がねえなら帰るぞ。俺、急ぐんだけど」
こちらの声音が恫喝を含んでいたからか、陽一郎が怯んだ。自分は柊吾の機嫌を損ねるような事を言っただろうか。そんな風に気を揉んで、まごついているように見える。裏表なく人と接する陽一郎は、思考がすぐに顔に出る。その狼狽も、戸惑いも、手に取るように分かりやすい。
だが、逆は無理だ。柊吾には陽一郎の考えが分かったが、陽一郎にはきっと分からないだろう。何故、柊吾が気分を害したのか。何故、接触を避けているのか。そして何故、逃げるのか。陽一郎には、分からない。分かるわけがない。
――分かって欲しくないとも言う。
そのエゴには自覚があったが、それらを全てひっくるめた総合評価によって、今の柊吾は陽一郎が嫌いだ。大嫌いだと言ってもいい。近寄りたくないし、極力会話をしたくない。いや、極力どころではなく、何も話したくないのだ。口など利きたくないし顔も見たくない。そういうレベルで柊吾は今、陽一郎が嫌いだった。幼馴染同然の友人をこれほど嫌う日が来ようとは自分でも驚きだが、
決まっている。無視だ。何も言わなければいい。このまま関係を断てばいい。簡単なことなのだ。それで万事が丸く収まる。それなのに、ひょろひょろとした痩躯で立ちはだかって柊吾の帰宅を邪魔立てし、関係を容易には断たせてくれない日比谷陽一郎が、この上なく憎らしかった。
「だって、その……えっと」
陽一郎は、歯切れ悪く言葉をぶつ切りにして、俯いて押し黙り、口を開いてはもごもご喋る。掛ける言葉を探しあぐねて途方に暮れている姿は、死病を患った家族へ病名を告げる医者のようだ。その印象は、おそらく
「陽一郎」
「え、何?」
「
先手を打つなり、陽一郎の顔が青くなった。大当たりらしい。それ以外に予想のしようもなかったが、露骨な反応を目の当たりにした柊吾の心は、激しい苛立ちで黒く染まった。
「うん。えっと……
――撫子。
歯に物が詰まったような言い様は、何も女子生徒の名を呼び捨てにする事への抵抗ではない。やはり柊吾への配慮によるものだ。陽一郎本人は配慮だと信じて疑っていないだろうが、こちらからすれば配慮の皮を被った偽善にしか聞こえない。よって、最後まで聞いてやる義理はなかった。
「柊吾、あの、僕は……」
俯く陽一郎が何か言いかけたが、柊吾は廊下をずんずん進んで階段を下りた。「柊吾ぉ!」と哀願を含んだしつこい級友の呼び掛けを、ひたすらに無視して一階を目指す。
無視しなければ、何を言うか分からなかった。今、こんな精神状態で陽一郎と会話を続ければ、柊吾は間違いなく暴言を吐く。自分でもそれがどれほど格好が悪くて
もう既に気取られていると、心のどこかで気づいている。
だがだからといって、そんな弱みをむざむざ晒してやる気にはなれなかった。傷ついていると哀れまれ、陽一郎に気遣われるくらいなら死んだ方がマシだ。乱暴な足取りで歩く柊吾の姿を、すれ違う生徒達が怪訝そうにちらりと見た。
最近背がめきめき伸びた事もあり、柊吾は中学二年生ながらも高校生に引けを取らないほど身体つきががっしりしている。大柄だと何かと目を引くのか、視線を集めてしまう場面もかなり多い。それ自体は慣れているので何とも思わないが、今のように機嫌がすこぶる悪い時に限っては、同じようには思えないから難儀だった。見るなよと舌打ちでもしたい心境だったが、無作為に八つ当たりの対象を広げても仕方がないので、一階に着いた柊吾は生徒達の下校ラッシュでごった返す昇降口へ分け入ると、下駄箱からローファーを取り出した。
その時、野太く溌溂とした声が、急ぐ柊吾を呼び止めた。
「あ、三浦!」
今日は、背中に声をぶつけられてばかりだ。今度も声だけで相手が
「監督」
窓から入る外光で白々と輝く青磁色の床に立っていたのは、野球部の監督である
柊吾は我に返り、少し焦った。このままでは、陽一郎に追いつかれる。またあしらえばいいだけの話だが、できれば今日はもう陽一郎の顔など見たくない。高めの声が
今日はもう、うんざりだった。
「監督、すみません。俺、急いでるんでっ」
早口で言い捨てて、素早く靴を履き替える。「休みは聞いてたが、そんなに急ぐ用事だったか?」と森定は呆れ声で首を捻った。ポロシャツの前で組まれた腕は、日に焼けて浅黒い。柊吾も日焼けしているが、森定ほどではない。柊吾はローファーの爪先でとんとんとタイルを小突きながら、謝った。
「練習、今日出られなくてすみません」
「いや、別にそれはいいんだ。届けも貰ってるしな。他のメンバーも三浦くらいきちんとやってくれたらいいんだがなあ」
屈強な体格に似合わず、人懐こさを窺わせる
「すみませんっ、本当に時間無いんで、明日必ず聞きます!」
「ああ、そうだったな。すまなかった」
切迫した柊吾の声を聞いた森定は、ふと我に返った様子で謝ってきた。柊吾はがりがりと短い頭髪をかき回すと「いえ、すみません」とこちらも謝り、悪いとは思ったが通学鞄を肩に提げ直し、昇降口へ身体の向きを変えた。
「三浦」
森定の声が、再び柊吾の背中を引き留めた。
まだ、何か用があるのだろうか。柊吾は振り返りかけたが、潜められた声が耳に入り、動きを止めた。
「……推薦の事。急かすわけじゃないんだが、できるだけ早めに返事をもらえないか? もちろん三浦の将来の事だし、親御さんときっちり話し合って決めてもらわないといけないんだがな……また近いうちにでも、今どういう風に考えてるのか、三浦の考えを一度聞かせてくれないか?」
森定が柊吾に向けた顔は、普段通りのものだった。快活で、豪胆で、それでいて穏やかに笑う、部活の監督の顔だった。
同じように笑って見せるには、今の柊吾には余裕がなさ過ぎた。それでも強張っていた顔の筋肉が僅かに解れ、柊吾は口の端を少し持ち上げると、森定に身体ごと向き直った。
「近いうちに、ちゃんと決めます。待たせてすみません」
「ああ、謝るな謝るな。明日の部活、皆で待ってるぞ」
「……はい。失礼します」
鷹揚に笑う森定へ、柊吾がようやく笑みを返せた時だった。
「柊吾!」
背後から声が
やはり、接近されていた。胃の底へ落ちた苦渋が、ヘドロのように重く溜まる。柊吾は昇降口の扉をくぐり、正午過ぎの青天の下へ、校舎の外へ踏み出した。相手はまだ上履きのはずだ。外までは追ってこないだろう。
だが、背後の声は柊吾の予想を覆す執拗さを見せてきた。
「柊吾! ……待って、柊吾ってば! 聞いてほしいんだ!」
まだ呼んでいる。まだ諦めていない。三浦柊吾を呼んでいる。下校中の生徒達が昇降口を振り向いたが、人目を憚りながらの陽一郎の声は、初夏を謳歌している蝉の音よりもずっと小さく控えめで、気に留めていない者も多かった。柊吾も聞こえない振りを決め込んだが、陽一郎はめげなかった。「柊吾!」ともう何度目かも分からない呼び声が、背中に叩きつけられる。
この段になってようやく、柊吾は陽一郎の態度を訝しんだ。校舎を出た時点で勝ちだと決め込んでいたが、何かがおかしい。普段の陽一郎なら間違いなく、人目を気にして諦める頃合いだった。
――さすがに、しつこ過ぎる。
日比谷陽一郎は普段から天真爛漫で能天気な人柄で、優しい面立ちとなよなよした頼りなさは、クラスの誰もが知っている。どん臭さから悪目立ちすることも多々あるが、本人は進んで目立ちたいとは思っていないはずなのだ。
そんな陽一郎が突然見せた切迫感と必死さが、柊吾の肝を不穏に冷やした。校庭に続く緩い坂道を下ることに専念すると、背後の息遣いに、焦燥が混じった。
「僕! 考えてたんだ! ……撫子のこと!」
――関わってはいけない。
直感だった。義務感にも似ていた。しかし、その嫌な予感から、柊吾はついに逃げ切れなかった。
「別れよう、と、思う」
――ぴたりと、柊吾は足を止めた。
「撫子と、別れようって、考えてる……」
――迫るのは、一瞬だった。
空気が切れる音がして、色を残して景色が崩れる。素早く振り返って見上げた場所で、昇降口から出てくる生徒の群れに、幼馴染の痩躯を見つけた。柊吾はこちらの権幕に息を呑む陽一郎の元へ、一足飛びに舞い戻って肉薄し、シャツの襟首を鷲掴みにした。
ぶつんっ――と、糸が引き千切られる音が弾け、ボタンが一つ、硬く強張った手の隙間から零れていく。地面で数度跳ねたそれは、ころころと転がり、溝に落ちた。近くから女子生徒の短い悲鳴が上がり、目の前の人間は呼吸が気道を抜けるヒュウッという音だけを漏らして怯えている。他愛のない同級生の襟首をきつく絞め上げながら、柊吾は低く言った。
「今。なんつった」
陽一郎の唇は青く、微かに覗いた歯はかちかちと噛み合わさるばかりで、そこからは言い訳の言葉さえ一片も零れ落ちて来なかった。その狡さが凄まじい怒りに直結して、柊吾の方も感情で喉が塞がれる。このまま陽一郎を、力任せに殴ってしまいたい。爆発的な勢いで思考を圧迫した欲求を、柊吾は懸命に堪える。陽一郎の襟首を掴む手に過剰な力を込めることで、張り詰めた糸のような今にも切れかけの自制心で、衝動をがむしゃらに抑え込む。
一触即発の沈黙は、そう長くは続かなかった。
「三浦」
まだこちらを見ていたらしい森定に、静かな声で呼ばれたからだ。
柊吾が無言のまま見上げると、緩やかな傾斜の上、昇降口の扉前から森定はこちらを見下ろしていた。先程までの柔和さが鳴りを潜めた顔は、確かな厳しさを孕んでいた。
だが少なくとも柊吾には、森定が怒っているようには見えなかった。理知的な眼差しに諭されて、真っ向から目が合うと――力が、一気に抜けていった。
馬鹿なことを、したと思う。こんな吊し上げに、意味など皆無だ。
「……聞かなかったことにしてやる」
柊吾は吐き捨てると、青い顔の陽一郎から手を離した。
放り捨てられる格好になった陽一郎が、激しく咳き込む。大げさな声が響いて初めて、柊吾は下校途中の生徒達が、はらはらとこちらの様子を窺っていたことに気がついた。視界の端に映る森定の日焼けした顔は、まだ真剣みを帯びたままだったが――僅かに労しげな感情の色がそこに含まれているのを認め、奥歯を強く噛みしめた。
――森定にまで、事情を知られているのだ。
何だか余計にやりきれず、何もかもが
――これでは本当に、逃げているようだ。
自嘲気味に、そう思った。
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