第2章 呉野氷花のラスコーリニコフ理論
2-1 初夏
図書室の扉が開け放たれた瞬間から、
がらららら……と。引き戸が立てた音は、さほど大きなものではない。だが、授業中の静寂に慣れた全ての人間の聴覚を
全員が一斉に振り返り、そこに現れた異質な存在に目を留めて、息を止める。
少女が一人、立っていた。
白い半袖のブラウスに、青と白のチェック柄のスカート。同色のリボンタイの中央で、金色のボタンが光っている。栗色の髪は肩にぎりぎり届くほどの長さで整えられ、二束だけ高めの位置で結われていた。
背が低く、痩せた身体の――クラスメイトの、女子生徒。
窓の外で、蝉が盛んに鳴いている。けたたましいはずの初夏の音が、少女の登場と共に、すうと遠ざかっていく。青い影を満たした水槽のような箱庭で、自分達が魚であるかのような錯覚に、意識が刹那囚われる。
――とん、と上履きを履いた少女の足が、図書室へ一歩踏み込んだ。きい、と木の床が小さく軋り、誰かが声を押し殺した。まるで悲鳴のようだった。実際に悲鳴だったかもしれない。クラスメイトの中には、少女を恐れる者もいる。
――とん、と少女がさらに進む。林立する本棚を抜けて、長机やパイプ椅子が並ぶエリアにやってくる。こちらの方に、やってくる。
――とん、と少女がまだ進む。本棚のような遮蔽物はなくなった。少女が全身をこちらに晒し、歩いてくる。
今や、クラスメイト達は蒼白だった。強い戸惑いの視線が、二つの方向へ、二人の人間へ分かれて集まっていく。
一人は、国語の授業を受け持つ初老の男性教師。生徒の半数が教師を注視したが、切羽詰まった哀願の目に、教師が応える事はなかった。だから、少女の方が先に言った。
「遅刻してしまって、すみません」
落ち着いたトーンの声は、風鈴のように澄んでいた。狼狽えた教師は、「あ……ああ。早く着席しなさい」と歯切れ悪く少女を促す。少女は頷き、歩調を早めた。
――とん、とん、とん。長机とパイプ椅子、着席するクラスメイト達の間を、少女は淡々と歩いていく。室内はクーラーが付いていないにもかかわらず、少女の動きには清涼さがあった。だが、そんな爽やかさが最早この少女にとってどれほど縁遠いものなのか、既に皆、知っている。
空席に近づく途中で、少女の腕がパイプ椅子の一つに当たった。肩に提げた通学鞄は、そこに座る男子生徒にもぶつかった。男子生徒は、
異様な少女が齎した、異様な沈黙の只中で、すすり泣く声が他にも聞こえる。水槽の
教師が当てにならなかった以上、もう〝こいつ〟しか残っていない。
他の人間では駄目なのだ。クラスメイトも、教室で育んできた友情も、何もかもが、今では無意味だ。だから、見つめる。視線で問う。お前は、どうするのか――と。
視線を受けた〝そいつ〟は、真っ青な顔で竦んでいた。焦りに似た驚きを瞳に浮かべ、集まった視線の熱に怖気づいたように手を握り込み、パイプ椅子に着席したまま、声も出せずに固まっていた。
やがて――少女の琥珀色の目が、〝そいつ〟の姿を視界に捉える。無表情だった少女の目に、初めて光が、薄く浮かぶ。
「
好意を寄せる少年の名を呼び、花のように微笑んだ。
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