1-8 言挙げ

 翌朝、和音は登校するなり、自分の席を取り囲んだ女子生徒達の背中を見た。

 亜美一派だった。

 クラス中の視線が、和音に集中する。亜美達もこちらに気づき、決まり悪そうに呻いて後ずさった。和音の登校はまだ先だと、鷹を括っていたらしい。

 現行犯を押さえられた程度で動揺するなら、最初からくだらない工作などよせばいいのに。和音が呆れながら普段の調子で歩いていくと、亜美は開き直ったらしい。下卑た笑みをニキビの浮いた顔に乗せると、取り巻き達も判で押したように無個性な顔で粘々と笑った。クラスの男子生徒は緊張の目でこちらを見つめる者ばかりで、ふざけた笑い方をする生徒は特にいない。女子生徒は戸惑う者が半数、亜美のように笑う者が半数だ。やはり、敵だらけらしい。

 和音が机まであと一メートルもないという距離に迫った時、亜美の身体で隠れた机の様相が垣間見えた。机の上には油性ペンが転がっている。何をされたのか、細部を見ずとも把握した。

 今日日きょうび、これほどベタでくだらない苛めの痕跡があるだろうか。もっと陰湿な手段なら幾らでもあるだろうに、他にやりようはなかったのか。

 呆れが極まって妙な顔になった和音をよそに、亜美達が手を打ち鳴らしながら爆笑した。まるで猿のようだと思っていると、もう用は済んだとばかりに、亜美達が机から離れ始めた。和音とすれ違った亜美は、どん、と肩を当ててきた。

 肉付きのいい身体の脂肪が、骨ばった和音の身体に、ぶつかった時――すれ違う身体が視界から消え去るよりずっと早く、和音は動いていた。

 一歩大きく踏み込んで、その勢いを殺さないまま身体の向きをくるりと変える。流れるように伸びた手が、机の上を掠めて攫う。インクの匂いが鼻腔に届いた。

 油性マジック。キャップは既に外れていた。誰の物でも構わない。和音は使われた物を使うだけだ。身を翻して駆け出す和音に、教室の全員が気づいていた。反応できなかったのは、この動きを予想できなかった亜美だけだ。気づいた亜美の取り巻きが、慌てた様子で手を伸ばす。道場通いで鍛えられた軽い足取りでそれをかわすと、伸ばされた手は視界の端で空振りした。机か椅子か、あるいは人間が倒れる凄い音がしたが、和音に構う余裕はなかった。

 疾走する視界の中で、クラスメイトの視線が過る。毬がいた。美也子もいる。驚きで顔を真っ青にして、二人の友人は和音を見る。

 ――助けて欲しい。一度は思った。けれど、もう、望まない。けれど、誤解しないで欲しかった。この感情は失望ではなく、嘘でも演技でもないのだ。和音は二人の事がきっと好きだ。

 たとえこの行為が愚かでも、見栄も体裁もどうでもよかった。今動くことで、変わる何かがある。この奇行は進路に響くだろうかとも頭の隅で考えたが、そんなもの、成績で十二分に補填可能だ。

 抜きんでた器用さはないが、足りないものは努力で補う。不足感が落下感に繋がるならば、それをも上回る燃料を努力で足し続ければいい。ストイックに割り切ってしまえば、さほど難しい問題ではなかった。

 最初から、分かりきっていたことなのだ。行動に移せなかった原因は、自分を平凡だと割り切った、己の劣等感故だ。

 和音は、笑う。この劣等感は、案外捨てたものではないかもしれない。

 亜美の驚愕の表情を前に、上履きを床に強く擦りながら立ち止まった和音の腕は、床と水平に伸びきり、振りかぶった反動で、背の方に反り返っていた。横一文字に一閃したペン先の向こうで、黒い軌跡が顔面に踊る。目を見開いた亜美は、呆然という言葉がこの上なく似合う顔をしていた。

「あんた、何、して……」

 亜美のわななく唇が、疑問を呈する言葉を紡ぐ。和音はしれっとこう答えた。

「やられたことを、やり返しただけ」

 あんたの顔に――とまでは、残念ながら言わせてもらえなかった。

 憤怒の形相で襲い掛かってきた亜美を、ひらりと難なく躱した和音は、ポニーテールに結った髪を靡かせて、文字通りの戦場となった教室へ――『可も不可もなく』を捨てた世界へ、その身を躍らせたのだった。


     *


 閑散とした神社の境内には、二人の人間の姿があった。

 一人は、呉野和泉。神職の装いに身を包んだ、青い瞳と異国の風貌を持つ男。

 もう一人は、呉野氷花。袴塚こづか中学の制服姿の、切れ長の目をした黒髪の少女。

「佐々木和音に何をしたの」

 青空の下、昼下がりの長閑な空気を、氷花の言葉が切りつけた。剥き出しの敵意を向けられた和泉は、首をおっとりと傾けた。

「僕は何もしていませんよ」

「嘘よ。あの子に接触したでしょう」

「おや、ご自分では気づいていないようですね。今の貴女の台詞、あの少年のものと同じですよ。それより貴女、学校はどうしたのです? 授業中のはずですよ」

「話を逸らさないで!」

 苦々しげに氷花が叫び、木々から聞こえる鳥のさえずりが、時を止めたかのようにぴたりと止んだ。遅れて聞こえた羽ばたきが世界を揺り動かした時、憤りに満ちた氷花の声が、神域へ呪詛のように流れ始めた。

「今日、佐々木和音と野島亜美、あと彼女の子分が職員室に呼ばれたわ。クラスで乱闘があったみたい。佐々木和音は無傷。野島亜美達は怪我をしていて、それを佐々木和音にやられたと主張しているわ」

「ほう。それで?」

「後からすぐに、風見美也子と綱田毬が職員室に駆けつけたわ。他にも何人か生徒が来たわ。佐々木和音を庇いに。実際のところ佐々木和音は、野島亜美に一度マジックを振りかざした以外、全く何もしていない。殴りかかろうとした野島亜美達を避け続けただけ。それでも彼女達が怪我をしたのはただの自滅。佐々木和音を追ううちに転んだりぶつかったりしただけ。結局、佐々木和音の机にされた落書きや、その他の苛めの痕跡が教師の知るところとなって、野島亜美一派の敗北。これからこってり絞られるそうよ。他にも苛められてた子が学校には随分いたみたいね。そういう子達の上奏まで押し寄せて来る始末で、学校中がてんやわんやだったわ。馬鹿らしいお祭り騒ぎみたい。……もう一度訊くわ。佐々木和音に何をしたの」

「成程」

 和泉は、悠々と微笑んだ。佐々木和音に向けた笑みとは似て非なる微笑みで、十五歳の妹と対峙している。

「大したものです。彼女には際立って人より劣るものなどなかったというのに、その平凡を劣等感と見なし、自己研鑽に励んでいました。大層努力されたのだと思いますよ。能ある鷹は爪を隠すと言いますが、彼女はそれを体現していますね」

「嫌に褒めるのね」

 氷花は苛立たしげに吐き捨てたが、和泉は飄々ひょうひょうとした笑みで応じた。

「なぜ少林寺拳法を選んだのかという僕の問いに、彼女はしっかりと答えてみせました。求める強さを自覚の上で、適した強さを体得しようとしています。これからも己の道を踏み外すことなく、彼女は生きていけるでしょう。多少、野放図な手段に訴える事はあるかもしれませんが。好戦的な性質たちを自覚されたようです」

「そんな戯言たわごとはどうでもいいわ」

 唇を歪めた氷花が、鬱陶しそうに長い黒髪を片手で払った。

「もっと崩しやすそうな子だったのに、何てことをしてくれるの。もの凄い野蛮児になってたわ。もうあんなの全然私好みじゃない。つまらないわ」

「貴女の好みの話など、それこそ戯言ですね。和音さんには何の関係もないことです。ああ、一応確認しておきましょうか。貴女は和音さんをどのように追い詰めるつもりでした?」

「聞きたいのね?」

 憎々しげな顔が一転して、氷花は待ってましたとばかりに瞳を輝かせた。

「あの子の『弱み』は『唄を恐れている』ことよ。学校帰りに偶然、道場から出てくる佐々木和音を見たの。唄を小声で唄ってた。でも知っているわ。怖いくせに。そのくせ愛着はあるみたいだから、口ずさんでしまうのね。だから、少し私と会話して、唄への恐れが今より大きなものになれば。。もしそんな風に少しでもぐらついた状態で、あの子が唄を一度でも唄えば、どうなると思う? おあつらえ向きに『遠野物語』だって読んでいたもの。上手くいけばこの現代に、神隠しが発生したかもしれないわよ? まあ、報道はただの家出少女でしょうけどね」

「嬉しそうに語るほどの内容ではありませんね。その企ては上手くいきませんよ。必ず失敗するよう方方ほうぼうに釘を刺しておきました」

 和泉は穏やかに断定した。氷花の表情は元通りの不愉快を極めたものに戻ったが、やがてにやりと、口の端だけで嘲笑った。

「いいわ。佐々木和音は見逃してあげる。代わりに、あの子の友達に標的を変えるわ。小動物みたいに怯えてる可愛い子がいるの。綱田毬がどういう目に遭えば、佐々木和音とあんたは傷つくかしら?」

「そこで彼女にいきますか。弱いもの苛めの極みですね。確実に落とせる獲物しか狙わない辺りにプライドの低さが窺えます。格好悪いですよ。氷花さん」

「ふぅん、負け惜しみ? じゃあ守って見せなさいよ、今回みたいに。学校は私のフィールドよ? どこまで頑張れるの? お兄様」

 氷花は余裕の笑みでうそぶいたが、悪態の声は微かに震えていた。兄の言葉に過敏な反応を示す妹へ、和泉は朗々たる声で追い打ちをかけた。

「貴女は〝言挙ことあげ〟という言葉を知っていますか?」

「言挙げ? そんな言葉、どうでもいいわ。薀蓄うんちくなら結構よ」

「まあ、そう仰らずに」

 氷花は露骨に面倒臭がったが、和泉は構わず先を続けた。

「言挙げとは、己の意思をはっきりとした声に出して、言葉の形にすることです。ただし、その言葉がもし己の慢心から生まれたものならば、良くない結果が齎されます」

「兄さんが何を言いたいのか分からないわ。もっと分かりやすく言って」

「では、例を挙げて説明しましょう。〝言挙げ〟という言葉を扱った最古の物語とされている『古事記』には、こんなお話があります。――日本の古代史における伝説の英雄・倭建命ヤマトタケルノミコトは、伊吹いぶき山の神様を討ち取る為に、素手で山へ分け入ります。その道中で、牛と見紛うほど大きな白猪しろいのししと遭遇し、こんな言葉を告げたのです。――『きっとこの白猪は、神の使者に違いない。今は殺さずに、帰りに殺そう』。これが、倭建命の行った〝言挙げ〟です」

「随分と野蛮ね」

 氷花はせせら笑う。和泉は相槌を打たず、淡々と物語の終焉を口にした。

「しかし、その言葉は倭建命の慢心によるものでした。何故ならその白猪は、神の使者ではなく、他ならぬ神自身だったからです。倭建命の〝言挙げ〟は誤りでした。そしてこの誤った〝言挙げ〟により、倭建命は神様から祟りを受けて、命を落としてしまうのです」

 氷花の顔から、表情が消えた。

「先程も言いましたが。言挙げとは、己の意思をはっきりと声の形で告げることです。それは古来、神の領域だと考えられていました。個々の意見を明確に主張することは神にのみ許された行為であり、神に承認された主張でなくては、個人の主張は命取りです。〝言挙げ〟に誤りがあった時、人は破滅するのです。だからこそ慎み、禁忌とされてきました。みだりには使いません」

「……。何が言いたいの」

「いいえ、何も。ただ、貴女の遊戯と似ていると感じたものですから。……貴女が自信満々に放ってきた言葉は、果たして神に承認されたものでしょうか。あるいは、慢心から出た戯言でしょうか。一体どちらでしょうね」

 氷花の無表情が、血の色をした憎悪に染まった。

「いつか己の遊戯で破滅するところを、早く拝みたいものです」

 氷花は返事をせずに、和泉に背中を向けた。拝殿と鳥居を結ぶ石畳から脇に逸れて、鎮守の森へ歩き始める。

「そんな僕の悲願の成就を約束するかのように、彼女は凛々しい〝言挙げ〟を響かせました。思い返せば、貴女が昨年の初夏に破滅し損なった少年に似ていますね。そんな彼女が、貴女のお遊びくらいで破滅するわけがないでしょう?」

「殺す」

 おもむろに、氷花が振り返った。

「私はいつか必ず、貴方を殺すわ。佐々木和音も、やっぱり見逃してなんかやらないから」

「どうぞ。できるものなら」

 異能を宿す妹は、黒髪を翻して森の奥へ消えていく。

 その背中を見送る兄の顔には、妹の憎悪と相反する慈愛があった。

「――て。これにてようやく役者が揃い、舞台が整ったようですね。〝赤ら顔の異人さん〟は、普通を愛した少女を攫い、〝アソビ〟の舞台へいざないました。……氷花さん。僕と貴女の〝コトダマアソビ〟まで、あと少しです」



【第1章・赤ら顔の異人さん:END】→

【NEXT:第2章・呉野氷花のラスコーリニコフ理論】

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