1-7 通りゃんせ

「彼女の、言葉が……?」

「僕の不肖の妹は、実に困った性格をしておりまして。自らの発する言葉には尋常ならざる霊威れいいが宿っていると、何やら妄信しているのですよ」

 上品な笑い声が、冬の寒さの所為だけでなく張りつめた空気に、妖しく溶ける。和音が疑問を挟む間もなく、和装の男は語り続けた。

可笑おかしいでしょう。十五にもなる少女が、世界は己の思うままだと信じて疑わないのです。例えば、明日の天気は雨がいいと一言願いを天にかければ、言の葉の御霊みたまの導きで、大地に雨を呼ぶような。彼女がこういった平和な〝言挙ことあげ〟をしたことはありませんが、ともあれ。それは本当に異能にるものでしょうか? 単なる偶然の連鎖を奇跡と信じ、自惚うぬぼれに溺れているのです。――そうして、人をもてあそびます」

 言葉の柔らかさとは裏腹に、黄昏時の空色に染まる瞳には、抜き差しならない光があった。和音は肌寒さを意識して、コートの腕を思わず抱いた。

「あの子は他者に、酷薄な遊戯を仕掛けてきます。他者に妙な〝言霊〟を吹き込むことで、己の言葉が他者に与える影響力を実験し、他者を玩具おもちゃに一人遊びをするのです。ただし、あの子の操る〝言霊〟は『会話』が絶対条件のようですが。一人でぼそぼそと何事かを呟いたところで効果はなく、必ず他者との『会話』を引き金にして相手の『弱み』を引きずり出し、そこへ妄言をぶつけてくるのです」

「和泉さん、ちょっと……やめて下さい。何の冗談ですか?」

「はい。冗談ですよ」

「……。はあ?」

「ただ、あの子が他者に迷惑をかけてしまうのは事実です。人の弱みにつけ込む、とはよく言ったものでして。人が『恐れているもの』、『引け目に思っているもの』、すなわち『弱み』に対して、あの子は己の影響力を執拗に誇示してきます。『弱み』をあの子に悟られたら厄介です。鬼の首を取ったように得意になり、他人が聞けば戯言たわごととしか思えない妄言を武器に迫ってきます」

「……すみません。意味が全く分かりません」

「では、分かりやすく言いましょう」

 清廉な衣裳いしょうに身を包んだ夢のように美しい男は、先程の妖しさなどそっくり消え失せた透明な微笑で、言葉通り冗談のような言葉を紡いだのだった。

「あの子は人の弱みが三度の飯より好きな愉快犯です。『弱み』を握られたら最後、それをネタにしつこく言い寄られ、和音さんは気分を害されると思います。また、相手に与えたその不快感は、己の異能の力が齎したものだと信じています」

「……」

 沈黙する和音は、かなり間が抜けた顔をしていたと思う。全部嘘だと言ってくれたら笑い飛ばせるのに、和音が黙れば黙るほど、両者の沈黙が長引くだけだ。言おうか言うまいか随分迷ったが、どうしても我慢できずに和音は言った。

「……すみませんけど、その。あなたの妹さん、馬鹿なんじゃないですか」

「全くもってその通りです。言い訳の余地もありませんね」

 身内をおとしめたにも関わらず、和泉は可笑しそうに同調してくれた。おそらくは、和音の反応を見透かした上で、調子を合わせて笑っている。和音も演技に手を染めた人間だから、小さな違和感には気づいてしまう。

「和泉さんは、どうして私の考えが読めるんですか?」

「人生経験による学習の成果です。貴女にもできるようになりますよ」

 思い切って直球で訊ねたのに、大人の言い訳が返ってきた。和音としては不服だが、和泉は肩を竦めてはぐらかした。

「僕は、貴女が心配だったのです。妹の話しぶりでは、次の狙いは貴女のようでしたから。妹がご迷惑をおかけする前に、貴女にお会いしたいと考えていたのですが……僕の心配は、杞憂だったようですね」

 白い着物に包まれた腕が持ち上がり、細くしなやかな指が和音の頭に触れた。骨ばった男の手の平にどきりとして、和音は動けなくなる。

「僕が思っていたよりも、貴女は己の身を守る術にけていました。貴女の師の教えも良いのでしょうね。思うままに行動すれば、きっと大丈夫ですよ」

「それは、神主さんとしての言葉ですか?」

「いいえ。神主も神ではなく人間ですから。一人の人生の先輩が、後輩に送る激励です」

 髪に触れた指と温度が、離れていく。和音は、手元の文庫本を見下ろした。

 後半部分が引き千切られて、背表紙を失った『遠野物語』。民間伝承の詰まった本を通して、和音は見つめた。己の身に降りかかった出来事を。話し相手の、呉野和泉を。そして、その妹の、呉野氷花を。

 ――氷花は何故、和音を狙おうと決めたのだろう?

 もし和泉の言葉通りなら、和音は氷花から近々接触を受けることになる。そうして和泉の言うところの『妄言』をぶつけられ、『厄介な』ことが起こる。それは和音としても、異能の力とやらの設定に甘えた戯言としか思えない。

 ともあれ、今の時点で判明した事実が一つある。

 和音は、呉野氷花から――悪意を向けられているらしい。

「……和泉さん。私が次に何を言うつもりなのか、予想できますか?」

 女子中学生の眼差しを受け止めた和泉は、勝負を挑まれたと気取けどったらしい。柔和な笑みに、面白がる色が差し込んだ。

「まだ、僕が心を読めると疑っていますね。それにこの勝負、フェアではありませんね。貴女が勝ちを望むなら、僕がどんな予想を述べようと無意味です。貴女から否定の言葉を返されたら、真実がどうであれ僕の負けになりますから」

「いいえ。勝負は簡単です。私が、和泉さんを驚かせられたらそれでいい。これから私が言う言葉が、和泉さんの予想通りか、違うか。反応が見たいんです」

「……成程。貴女の〝言霊〟がどのように世界を変えるのか、僕も興味が湧きました。その勝負、乗りましょう」

「はい。それじゃあ……」

 頷いた和音は、自らの言葉をはっきりと告げた。

「私は、呉野氷花に抗います」

 灰茶色の睫毛が震え、和装姿の異邦人は、青色の目を見開いた。

「言葉の力で不吉な事が起こるなら、それは呉野氷花の身に起こるはずです。私が傷つくことはありません。でも、もしあなたの妹が、私や私の周りの人達を傷つけるなら、抗います。私は、あなたの妹の悪意なんかに、負けません」

 ざああ――と冬の風が、女子中学生と男以外には誰もいない境内に吹き抜ける。息さえ止めたと見紛うほどに沈黙を守る呉野和泉は、文箱ふばこの奥に眠る秘密を和歌で詠み当てられたかのように、淑やかな驚嘆を瞳の内に揺蕩たゆたわせていた。和音は申し訳なくなって、頭を下げた。

「すみません、調子に乗りました。妹さんが私を狙ってるって聞いて、ちょっとだけ腹が立ったんです」

「いいえ。構いませんよ」

 さすがに身内をけなし過ぎただろうか。和音は気まずさから謝罪を重ねようとしたが、和泉が次に放った言葉は、和音の予想とは大きく異なるものだった。

「あのお唄。しばらく貴女は唄わない方がいいでしょう」

「え? 唄?」

 咄嗟には何を言及されたかすら分からなかったが、一拍遅れで気がついた。

 ――通りゃんせ。あの唄だ。

「道場の師範とは、僕も少なからず交流があります。師範には僕からもお願いしておきましょう。師範が唄えば貴女も釣られて唄ってしまいそうですので、師範にもしばらくの間は謹んで頂くようお願いしなくてはなりませんね。四か月ほどで結構です。和音さんがこの唄をそらんじる事を、禁止します」

「き……禁止っ?」

 吃驚のあまり、上ずった声が出てしまった。それはあまりに脈絡がなく、横暴とも取れる発言だった。

「唄っちゃ駄目って……どうしてですか?」

「四か月の間だけで結構です。中学に通っている期間は、どうか。お願いします」

 質問の答えになっていない。だが、和泉の声には有無を言わさぬものがあった。

「この唄は、様々な解釈を呼ぶ唄として有名です。歌詞に『この子の七つのお祝いに』とあるでしょう。日本では昔、乳幼児の死亡率がとても高く、七つまで生きる事が難しかったそうです。ですから子供が産まれると、健やかな成長を願う為に、人型に切り抜いた紙やお札を守り神としていた風習がありました」

「あ……それ、師範に聞いたことがあります」

 和音はぽつりと答えた。年少の子供を怖がらせてばかりの師範だが、和音達に唄の由来なども教えてくれる。異邦の男は、何故だか肉親を褒められたかのように、得意げに頷いた。

「ただ、『行きはよいよい、帰りはこわい』と意味深な歌詞ですから。神隠し、人攫いの暗喩を見る人も少なくないでしょう。親が子を捨てる『口減らし』の唄という解釈もありますね。『行き』には確かに居たはずの子供が、『帰り』には居なくなっている。それを周囲から問い詰められるのが『こわい』。解釈は幅広く存在します」

「……」

「ですが、心配は要りませんよ」

「え?」

「別の解釈を提示しましょう。この唄、実存する神社のことを唄ったものだと言われているのは御存知でしたか? その神社ではかつて、参拝客が神社で見聞した機密事項を口外しないよう、大変厳しい管理体制をいていたそうです。それを揶揄やゆした唄だという説もあるのですよ」

「……参拝客? 管理?」

 唖然としてしまい、和音は言葉を継げなくなった。

 怪談色など、どこにもない。現実と、大人の都合があるだけだ。

「参拝の『行き』はよいのですが、『帰り』は手荷物を関所で何度も検分されて、大層うんざりしてしまう。それを皮肉めいた語り口で唄っているのがこの唄だ、という説ですね。他にも、もう一つ」

「まだあるんですか?」

「ええ。『こわい』という言葉にも、違う解釈の余地があるのですよ。単純に考えれば『恐ろしい』という意味に取れますが、東北地方の方言で『こわい』は『疲れた』という意味を持ちます」

「あっ。じゃあ、つまり……?」

 言葉に手を引かれるように、和音は訥々とつとつと答えを導いた。

「帰りは疲れるだろうけど、それでも通っていいよ……って。そういう意味になるんですか?」

「その解釈が正解であれ間違いであれ、どちらでも良いのだと僕は思います。何故なら、この唄には他にも『こわい』を『疲れた』という意味で扱う地域では使われていない方言も混じっているそうです。他所の方言が入り乱れているのを根拠に『こわい』イコール『疲れた』説を否定する解釈も存在するようですが、それもまた一つの解釈として楽しめばいいのです」

「楽しむ……」

「怖がることは何もありません。少しでも楽しんだ方が、唄を貴女に教えてくれた師範も喜ぶと思いますよ」

 ――楽しむ。

 優しい語り口の言葉が耳に残り、和音はしばし放心する。視界が鮮やかにひらかれて、眩しく輝いたようだった。そうか、と思った。そうだった、と思った。

 道場で開かれた読み聞かせの会で、子供を優しく見守る師範と、語りに合わせてはしゃぐ子供。温もりが煌めく空間で、間近に触れた眩しさに、やっと名前を付けられた気がした。和音は、唄を口ずさむのを楽しんでいたのだ。それがいつしか怪談や脅し文句を聞くうちに、恐怖の方へ感情が振れて、幼い子供の遊びに混ざるという面映ゆさも手伝って、素直な感情を見失いかけていた。

 和音へ理解を諭した神主の男は、やがて長い睫毛をそっと伏せた。頬に落ちた憂いの影を見てようやく、和音は和泉の申し出を思い出した。

 唄の楽しさを説いた和泉が、和音に唄を禁じている。和泉はきっと、それを気に病んでいるのだろう。

「何か、理由があるんですよね」

「心苦しいお願いをして、申し訳ありません。貴女のお唄、綺麗でしたよ」

 てらいなく言われたので、和音は頬の熱をやり過ごすのに苦労した。普段こんな風に言われることなど滅多にないので、耐性も免疫もなかった。結局和音は空に逃げ道を求めるように顔を上げて、照れ隠しで囁いた。

「四か月経ったら、また唄います。誰に頼まれなくても。師範があんまりしつこいから、身体に染みついちゃってるんです」

「……有難う御座います。和音さん」

 恭しく囁き返した和泉も、和音に倣って大空を見上げたのが分かった。

 そっと隣を盗み見ると、いつしか和泉の袴と同じ浅葱色に染まった空に向けられた眼差しは、途方もなく遠い彼方へ目を凝らしているようで、こんなにも近くにいるのに、同じ空を見上げている気がしなかった。御山の神様だと言われても信じてしまいそうな神聖さを持つ異邦の男は、悠久の未来を眺めるように目を細め、灰茶の髪を風に靡かせながら――

「この出会いが齎した僕と貴女の〝言挙げ〟にも、全てに意味があるのです。言葉の御霊が、宿るのです……」

 和音には分からない謎の言葉を、虚空へ呟いたのだった。

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