1ー6 和泉
「『遠野物語』を中学生のうちから読むとは感心です。難しいでしょう」
「はい。でも、面白いですよ。私、少林寺拳法を習っていて、そこの師範が教えてくれたんです。『遠野物語』を執筆された人が、民俗学という学問を提唱したそうです。民俗学は、昔の風習とか、伝説とか、民間伝承……言い伝えとか、そういうものを指していて……」
どういう形で表現すれば、異国の男に伝わるだろう。説明に骨を折るうちに、はたと和音は気がついた。そもそも相手はこの神社の神主であり、日本暮らしも長いのだ。噛み砕いた説明など、必要としないのではないだろうか。その考えは当たっていて、和泉は気さくに頷いた。
「道理で。〝赤ら顔をした異人が現れて、子供や娘を山に攫う〟というのは
当たりどころか、大当たりだったのかもしれない。
「……『遠野物語』、ひょっとして、読まれたことがあるんですか?」
「はい。日本文化や文学、民俗学に
古風な文体で綴られた物語を、和泉はものともせずに読んだのだ。目の前の人間が本当に異邦人なのか、和音はこっそり疑った。
「和音さんが連想したのは、神隠しの暗喩である唄と、『遠野物語』の人攫いのお話でしょう。『里』の人間を『山』の異人――赤ら顔で眼光が鋭く、山の神、天狗といった名でも呼称された存在が、何処かへ攫っていくという伝承ですね。特徴としては赤ら顔だけでなく、巨躯であったり顔の彫りが深かったりと、伝承によって異なる点も興味深いですね。いやはや、『外人』と言われた事は多々ありますが、『異人』はなかなかありません。少し異なるだけでも面白いものですね」
和音は、頬を赤くして俯いた。何故そこまで見抜けるのだろう。からかわれるかと思ったが、男が次に発した言葉は、淡い労りに包まれていた。
「本、破れたのですね」
「……はい」
火照った顔と意識から、すっと熱が抜けていく。神職の男は、最初から気づいていたのだろう。話そうか話すまいかをしばらく迷い、どう説明すべきかも迷ったが、今までの奇妙な会話を思い出すと、無駄な配慮だと吹っ切れた。着物の帯を解くように私的な話を紐解いても、この人なら大丈夫だ。茫洋とした信頼を胸に、和音は空を振り仰いだ。
「……破られました。これ以外に、ノートも。今日、クラスのリーダー格の子と喧嘩したんです。多分十人くらいで私を潰そうと頑張ってます。クラスの四分の一が、私の敵みたいです」
「変わった言い方をされますね。まるで他人事のようです」
青色の目を細め、くつくつと和泉が可笑しそうに笑った。
「自分でも、そう思います。でも、思っていたより傷つきませんでした」
その言葉に嘘はなく、気分は不思議と晴れやかだ。声の形で生まれたばかりの言葉を反芻し、指でなぞるように慈しむと、和音も和泉につられるように、いつしか微笑みを浮かべていた。
「放課後の掃除で教室を出ていた間に、ノートと本がやられてました。私が教室に戻るまでの短い時間で、リーダー格の子達が破いたみたいです」
「それはそれは、ご丁寧なことで」
「楽しそうですね。和音さん」
「楽しい?」
意外な言葉を受けて、瞬きした。だが、そういう風に言われるのは嫌ではなかった。深刻に落ち込んでいたなら重く響いた言葉だろうが、今の和音には
「そうかもしれません。友達……毬の事は、気になります。巻き込みたくなかったから、置いていくしかなかったけど……でも、本当は巻き込みたかったんです。あの時、一緒に来てくれたら嬉しかった。美也子の事もそう。なんで野島さんなんか連れて来るんだろうって恨んでました。でも、今はそうでもないです。私は、毬や美也子ほど、周りの誰かと一生懸命に向き合おうとなんてしなかったから。そんな私が今になって、二人に友達としての役割みたいなものを要求するのは、都合がよくて、身勝手です。もっと悲しくなったり、苦しくなったりすると思ってたのに、そんなことにはならなくて……変なんですけど。すっきりしました」
「きっと、無理をされていたからですよ。貴女はしっかり者ですからね」
不意打ちで褒められ、和音は驚いて隣を見上げた。温もりと慈悲深さを湛えた青い目で、和泉はこちらを見下ろしていた。
「多様な感情の海の中には、直視を恐れる汚れもありましょう。それらを声に出して吐き出す行為は、相当の勇気が必要です。己の内面を真摯に見つめ、言葉の形で告げた貴女はご立派です」
「そうでしょうか……」
「そういうものですよ。貴女は調和の為に人格を歪めなくとも、人と調和できるのです。無理な自己変容を強いれば綻びが生じ、亀裂はたとえ小さくとも鬼のつけ入る隙になります。それをきっと、人は『弱さ』と呼ぶのでしょうね……」
「……? よく分かりませんけど、何となくなら分かります」
「有難う御座います。そういえば先程、少林寺拳法を習っていると仰いましたね。何故少林寺を選んだのです? 空手や合気道など、様々な武道があったでしょう」
「それは、さっき言った毬って子がきっかけなんです。あの子の通ってる道場に、見学に行ったのがきっかけでした」
答えた和音は、懐かしさを覚えた。十二歳から少林寺拳法を習い始めたという毬は、覚えがあまり良くはなく、技を体得するのにもかなり時間をかけていた。今ではすっかり和音の方が上達しており、そんな落差を毬は楽しそうに笑っていて、師範も一緒になって笑いながら、毬の頭をぽんぽんと優しく撫でていた。
「少林寺って、それまで空手との違いもあんまりよく分かってなかったんですけど……人を傷つけず、自分の身を守る。そんな精神の拳法なんです。私は別に、人を倒す為に強くなりたいわけじゃなくて、そういうのを楽しむわけでもなくて、自分の身を守れるくらいには、きちんと鍛えたかっただけなんです。だから、この流儀が一番しっくりきて……それで、始めました」
言いながら照れ臭くなり、和音はそそくさと締めくくった。この調子で穏やかな会話が続いていくものかと思いきや、夕日の赤に染まった横顔が、何故だかぞっとするほど冷たいものを孕んだ気がして、和音は息を止めた。
「貴女は、危険です。狙われています」
「……え?」
「言霊という言葉をご存知でしょうか」
灰茶の髪を夕刻の風に遊ばせた和泉は、端整な横顔に作り物のような微笑みを乗せて、和音が先程そうしたように、空を大きく振り仰いだ。
「言霊とは、声に出して発した言葉には力が宿り、現実に対して何らかの影響を与えるという考え方です。その言葉を人が聞く、聞かないに関わらずです。声に出すという行為だけで現実に対する打撃力となり、良い事を言えば良い事が、そして良くない事……不吉な事を言えば、不吉な事が起こります」
冷えた風が、頬を打つ。見下ろす住宅街のどこかから、
――言霊。
意味なら分かるが、詳しい知識は持っていない。そういった日本的な教養を異国の男から授けられるとは思いもよらず、和音は面食らっていた。
「そして、ここで僕の妹、呉野氷花さんが出てくるのですが――彼女の〝言葉〟が、どうやらそれに当たるらしいのです」
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