1-3 転校生
佐々木和音にとって学校とは、『可も不可もなく』を徹底的に極める戦場だった。
突出した才能はなく、容貌も並み。唯一の特徴と言えばポニーテールに結っている長めの髪くらいのもので、個性など無いに等しいと言えるだろう。
非凡さを得たいとは思わなかった。良くも悪くも衆目を集めたことで苛めの標的となった同級生を、この目で何度も見たからだ。災いの火種が一度でも爆ぜれば、同じ日常は帰ってこない。新しい日常を作るにしても、進級してクラスが変わるか、転校するか、転機を迎えない限り厳しいだろう。
その事実に気づいた時、和音は己の身の振り方を、目を逸らさずにじっと見つめ、そして腹を決めたのだ。
――自分はここで、生き残る、と。
まずは、目立たないよう心掛けた。ただし存在感が希薄過ぎるのも問題だ。匙加減が難しいが、悪目立ちだけは絶対にいけない。人の輪の中心で溌溂とした学校生活を満喫している者もいるが、和音には彼等と同じスポットライトを浴びる気は毛頭なく、煌びやかな舞台への興味もなかった。息を吸うように交わされる恋の話やドラマの話も、それら全てに一生懸命になれない和音にとっては、どれも真の意味での雑談だった。かといって、演技の防御を捨てた瞬間、和音は足場を失くすだろう。コミュニケーションの放棄によって生まれる弊害は、掃いて捨てるほど想像がつく。
だから、和音は極めるのだ。『可も不可もなく』を、徹底的に。
抜きんでた器用さはないが、足りないものは努力で補う。不足感が落下感に繋がるならば、それをも上回る燃料を努力で足し続ければいい。ストイックに割り切ってしまえば、さほど難しい問題ではなかった。この行動原理が居場所の喪失への恐怖なのか、生存本能なのか、答えの見極めはつかないが、何であれ和音の行動は変わらない。特に感情もなく人に合わせ、それを繰り返しながら生きていく。
中学というフィールドでの戦いが、あと少しで終わる。それは辛抱という言葉を使うほどの苦行ではなかったが、一仕事を終えたような達成感を和音に
そんな己のスタンスが、根底から覆される事になるなんて――その朝を迎えるまで、知らずにいた。
*
「和音ちゃん、毬ちゃん、おはよう」
聞き慣れた甘い声に呼ばれ、和音と毬は振り返った。
始業前の廊下は、体育館へ向かう生徒達でごった返している。和音の背は同学年の女子の平均よりはやや高いので、一際混み合う階段前で、手をひらひら振っている
「美也子。おはよう」
「おはよう」
背格好の小柄さを活かした美也子が、人ごみを上手く掻い潜り、弾む足取りで隣に並ぶ。緩やかに巻かれた髪が、窓からの風にふわふわ揺れた。
「間に合ってよかった。ぎりぎりになっちゃった。えへ」
悪びれずに微笑む友人の遅刻すれすれの原因は、おそらくこの髪にある。毎朝身だしなみを整えてくるのは立派だが、和音はこれほど
「急いで教室に行ったのに、集会って黒板に書いてたからびっくりしちゃった。もー、早く言ってよおって文句言いたいよお」
「美也子、知ってたんじゃなかったの?」
「知らないよお、和音ちゃん。集会で紹介するなんて知らなかった」
屈託なく、美也子は唇を尖らせる。美也子でも掴めない情報があったのか、と和音は少し意外に思った。
一時間目の授業の前半は、学年集会に変更。そんな突然の伝達を、和音も美也子同様に、黒板前の人だかりを見て知った。
体育館へ向かう中学三年の生徒達は、皆どこか浮き足立っているように見えた。ここ最近は誰もが受験を意識してぴりぴりした空気を纏っていたので、久しぶりに陽だまりの空気を吸えた気がする。些細な非日常にすぐさま飛びついてしまうほど、今の和音達には余裕がないのだろうか。だとしたら、この椿事は良い息抜きになるかもしれない。
「転校生かあ。どんな子だろ。何組に入るのかな」
そう呟いた毬は、興味よりも心細さが勝るのか、まるで自分が転校してきたかのように畏まっている。「毬ちゃんの方が緊張してる」とからかった美也子が、毬の手を取って大きく振った。
「多分だけど、女の子だよ。
「ふうん?」
和音は相槌を打ったものの、会話に身が入らなかった。というのも昨夜、道場からの帰宅後に参考書を開いていたら、つい就寝時刻が日付を跨いだのだ。おかげで今、少し眠い。こんなやり方が常習化すれば、却って効率が悪くなるだろう。是正しなければならない。うつらうつらしながら、和音は漫然と反省した。
「和音ちゃん、眠そう」
美也子は毬にじゃれつきながら、和音とも腕を組もうとする。朝から元気が有り余っている友人には、「うん」とだけ答えておいた。ちょうど体育館に到着したので、和音は
コンクリートの上で靴が跳ねる鈍い音は、ひょっとしたら――和音の平凡な日常に、罅が入った音かもしれない。
*
「初めまして。
中学三年の受験期に、和音の通う公立
美しい黒髪を鴉の濡れ羽色と表現するが、壇上でマイクを握る少女の髪がまさにそうだった。長く艶やかな黒髪は、制服のスカートまで届いている。体育館に集う全ての同級生を見回した少女は、蕾を慎ましく開いた花のように、可憐な微笑みを見せたのだった。
――呉野氷花。
先に教師からマイク越しの紹介を受けた時、和音は聞き間違いを疑ったが「氷の花でヒョウカと読む」と補足説明が入ったので、体育館は俄かにざわついた。
酔狂な名付け親がいたものだ。同時に綺麗な名前だとも思ったが、そんな素朴な感想を和音が持ったのは、あくまで最初だけだった。
彼女は一声発しただけで、体育館の空気を見事に変えてしまったからだ。
「……呉野さんって、すっごく綺麗だねえ。モデルみたい」
出席番号の近い美也子が、瞳を好奇心できらきらさせて、和音を振り返って耳打ちした。クラス毎に並んだ列のあちこちから、同様の囁きが漏れ聞こえる。
確かに壇上の少女の美しさは、水際立ったものがあった。和音は雑誌の類は買わないが、美也子の家で目を通したことなら何度かある。そこに載った少女達と比較するまでもなく、容貌の美醜に疎い和音でも分かるほどだ。今目の前にいるのは、相当の美貌の持ち主に違いない。
ただ――目つきに関してだけは、別と言わざるを得なかった。
非の打ち所がない笑みを振り撒く氷花の切れ長の目は、鷹のように鋭い光を宿していて、怜悧で獰猛なものを感じさせた。性格のきつさを窺わせる双眸だけが、彼女の整った容貌に、微かな影を落としていた。
「ねえねえ和音ちゃん。後で話しかけに行ってみない? 五組なら友達もいるから行きやすいし」
「美也子は五組じゃなくても、どこのクラスにでも友達いるでしょ」
苦笑した和音は、教師の目を気にしながら、美也子へ控えめに囁き返した。
「私はやめとく。緊張するから」
「えー、行こうよお」
ミーハーな友人が駄々をこねる声と、教師による閉会の宣言は同時だった。スイッチの入ったラジオのように喧騒が溢れ出し、背中で
ただ、体育館を出ていく生徒よりも、その場に居残る生徒の方が圧倒的に多かった。めいめいが転校生を取り囲んだり、遠巻きに見物したりしている。和音は眠気を振り切るように深く息を吸い込むと、まだ転校生に気を取られている美也子へ「先行くよ」と声をかけた。
体育館を出たら、非日常も息抜きもおしまいだ。和音はありふれた中学三年の受験生に戻る。思考は既に、半分も削れた一時間目の授業に向いていた。
毬と教室へ帰る為に、視線を彷徨わせた、一瞬だけ――賑々しい人の輪の中心から、凄烈な視線を感じ、振り向いた。
だが、非凡な転校生に熱い視線を注ぐ者はいても、平凡な和音に目を向ける者は見当たらない。首を傾げたその時、「毬ちゃん、一緒に行こうよお」と甘い声が聞こえ、明らかに困っている様子の毬を美也子が何とか説得して、転校生の元へ引っ張っていこうとする姿に気付き、和音は呆れながら止めに入った。
それきり、怪しい視線のことは忘れてしまった。
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