1-4 美也子

 しゃ、しゃ、と斜めに倒した鉛筆の芯が画用紙を滑り、最初は気になっていた誰かの小声のお喋りは、いつの間にか遠い音になっていた。

 チャイムの音が六時間目の授業の終わりを報せた時、和音は世界に音が戻ってくる感覚とともに、心地よい疲れに身を浸した。美術教師からの「デッサンが途中の生徒は、来週中に終わらせるように」という指示を合図に、生徒達が椅子を鳴らして立ち上がる。和音も帰り支度を始めると、鉛筆で真っ黒に汚れた自分の手が目に入った。

 今まで打ち込んでいたものが問題集ならよかったのに、と集中力が切れた頭で思う。手が黒くなればなるほど、量をこなした気分になる。学習の名残のような努力のメモリから顔を上げると、和音は画用紙裏面に名前を書き込んだのを確認してから、リンゴとオレンジの盛り合わせの模写を教卓の上に提出した。

 振り返って毬を探すと、まだデッサンと格闘しているショートボブの頭が見えた。美術の他にも技術や家庭科の授業でも、毬は同じように居残っている。熱心な姿を微笑ましく見守ってから、和音は美術室内の手洗い場に並び、石鹸で黒い汚れを洗い流した。冷えた水は虹色のシャボンを乗せて、排水溝で渦を作る。その水音に紛れて、廊下から淑やかな笑い声が聞こえてきた。

 ――呉野氷花だ。

 和音は、そう直感する。凛と張りのある声は、不思議と記憶に残っていた。

 先週の集会から、非日常はまだ続いていた。学校は氷花を中心に極彩色の花が咲いたように、華やかな声が絶えなかった。早くも袴塚中学に馴染んだ転校生を和音も教室移動の際に見かけたが、別段何も感じなかった。唯一思ったことといえば、体育館で見た眼光の鋭さは何だったのだろう、と己の記憶を疑うほどに、氷花の笑みが真っ当な少女らしいもので驚いた程度。

 憧れはなく、関心もなく、氷花の美貌は氷花のもので、決して自分のものになりはしない。そんな不動の事実に対し、感想などあるわけがない。あまりにないない尽くしで苦笑するしかなく、自分は少し冷たいのかもしれない。美也子などはまだ転校生に羨望めいた眼差しを送っているので、十人十色を受け入れた和音は、この話題になると適当に話を合わせ、曖昧に濁すことに徹していた。

 日常に些細な変化があれど、和音の行動は変わらない。普通という得難い安寧を守るだけだ。蛇口を捻って水を止め、背後に並んでいた生徒に水道を譲って席に戻ると、毬はわたわたと片づけを始めたところだった。

「あ、和音ちゃん。ごめん、手だけ洗ってきていい?」

「うん。ゆっくりでいいよ」

 毬は申し訳なさそうに「ごめんね」と繰り返してから、小走りで手洗い場に向かった。手持無沙汰になると学習ノートを見直すのが和音の常だが、今は美術の教科書と筆箱しか持っていない。和音の視線は、自然と室内を彷徨い始めた。

 美術室からは既に半数の生徒が出払い、呉野氷花の声が消えた廊下からは大勢の気配や靴音が、小波のように聞こえてくる。日常の音にぼんやりと耳を傾けていると、和音は美術室に残った生徒の中に、美也子の姿を見つけた。

 そして、今日も綺麗に髪を巻いた友人の姿を、視界に捉えた瞬間――微かだが、顔の筋肉が強張った。

「……」

 和音は、毬へ視線を転じた。毬はまだ手洗い場に並んでいて、前列に並んだ生徒の背中をぼうっと眺めている。やがて手を洗っていた男子生徒が一人退いたので、ほっとした様子で列を詰めて、空いた場所で手を洗い始めた。

 ――早く。

 いつしか和音は、内心でそう呼び掛けていた。早く、毬。本当は、急かしたくなどない。今この瞬間の願いだって、心底望んでの事ではないのだ。それでも、今だけは念じる。急いで、毬、と。

 祈りが通じたのか、毬はすぐに手洗い場を離れ、ハンカチで手を拭きながら戻ってきた。自席で荷物を抱えてから、和音の元に来て微笑んでくる。

「和音ちゃん、お待たせ」

「うん」

「あれ? ミヤちゃんは」

 毬の声が、そこで途切れた。友人を黙らせた元凶へ、和音も無言で目を向けた。

 和音達が教室の出口付近に立つのに対し、美也子は美術室の奥の窓際にいる。室内のほぼ対角線上に、和音達は立ち位置を分けていた。

 学校での和音達は、基本的に毬と美也子の三人だ。教室移動や体育の着替えなどを、このメンバーで行動している。

 ただ、風見美也子は和音達の中で、最も社交的で友人が多い。流行りにも敏感で可愛らしい美也子は、クラスのマスコット的存在であり、和音達以外の友人と連れ立って話し込むのもざらであり――今日も、それは同じらしい。

 美也子は、毬のように課題に没頭しているわけでもなければ、片付けにもたついているわけでもない。数人の女子生徒の群れに混じって、仲睦まじげに歓談していた。

「……毬。美也子、時間かかると思う。先に教室帰ろっか」

 心持ち声を潜めて、和音は言う。隣で竦んでいた毬は、まるで和音の言葉で金縛りが解けたかのようにはっとすると、首を小さく横に振った。

「いい……和音ちゃん、大丈夫」

 安否を気遣ったわけではない。にもかかわらず、そんな言葉が返ってきた。気丈にも笑みを浮かべる毬を見下ろしながら、和音は内心で燻った感情の火種を揉み消すように、唇を噛んだ。

 和音と毬との間で、こういった暗黙の了解めいたやり取りが強いられるのは、初めてのことではない。

 ――美也子の隣にいる人物が、問題を抱えている所為だ。

「あははは、亜美あみちゃんてば面白いー」

 美也子がくすくすと笑う声に続いて、ぎゃははは! と品のない大きな笑い声が弾けた。びくりと毬が肩を硬直させる。「毬」と堪えきれずに和音は呼び掛けたが、毬は筆箱をお守りのように抱きしめて震えている。

 ――長い前髪を耳へ流した女子生徒は、同級生の女子達よりも大柄で、隣の美也子が小柄な所為か、恰幅の良さが際立っていた。

 名前を、野島のじま亜美という。あまり話したことがない相手だが、和音は美也子の友人ということで一目置かれているらしく、間接的にだが友人として扱われているようなのだ。こちらは「野島さん」とさえ呼んだ覚えがないのに、向こうはどういうわけだか「和音ちゃん」と呼んでくる。毬の事は、どう呼んでいるのか分からない。呼んでいるところを、一度も聞いたことがない。

 美也子としてはデッサン班のメンバーで話しているだけなのだろうが、和音としては迷惑なことこの上なかった。気性の荒い亜美は、こちらの方が言動に細心の注意を払って接しなければならず、それが袴塚中学に蔓延する暗黙の『ルール』だ。

 美也子と亜美は六人ほどで話し込んでいたが、やがてその輪から美也子が外れ、よりにもよって亜美と共に歩き出した。

 思わず、焦る。このままでは、美也子が和音達に声を掛けるだろう。そしてそのまま、美也子が悪気なく連れてきた亜美と、一緒に帰ることになる。

 たかが教室までの帰り道だ。そう割り切るのは容易い。――和音にとっては。

「……」

 隣で俯く毬の顔は強張っていたが、なんとか普段通りの表情を取り繕おうと腐心している様が見て取れた。毬と亜美は挨拶さえろくに交わしたことのない間柄のはずだが、亜美が全身から放つ優位性に、毬は既に負けていた。肩を窄める小さな姿を見ていると、喉の奥で声がつかえた。結局動けないでいるうちに美也子に気づかれ、無邪気な笑みを向けられてしまった。

「あっ。和音ちゃん、毬ちゃん、お待たせー」

「和音ちゃん、あたしらのこと待っててくれたの?」

 無遠慮に大きくハスキーな声に横面を張られ、痺れた痛みが鼓膜に響く。毬の名は呼ばなかった少女へ、和音は「うん」と短い返事を寄越して軽い笑みを浮かべると、美也子と亜美を先に歩かせて美術室を出た。毬も覚悟を決めたように廊下へ出ると、和音と並んで歩き出す。

 亜美を拒まなかった毬の行為は、劣等感故の克己だろうか。この消極的過ぎる苦行は、毬の戦いなのだろうか。もしそうだとしたら、『可も不可もなく』を極める和音に、口出しする資格はない。

 だから和音は、この時了承してしまったのだろうか。美也子を待つという毬の覚悟と意地を。亜美に耐えようとする健気で痛ましい努力を。毬に対する引け目が、現状に流された甘さを許したのだろうか。

 だからこれは、当然の帰結だった。

 詰めの甘い和音の演技は、この日、仮面を取り落として終わったのだ。

「え? 亜美ちゃん、また喧嘩しちゃったの?」

「んー、まあね」

 廊下を歩く美也子と亜美は、大いに盛り上がっていた。その後ろについた和音と毬の間に会話はない。毬はやはり小動物のように縮こまっていて、和音にはそれが面白くなかった。

「だってさあ、向こうが悪いんだよ? こっちは親切で言ったのに、余計なお世話だーって!」

「ねえ、仲直りは? ミサちゃん、あんなに仲良かったのに」

「仲良く? もうしない。ってか無理!」

 濁った笑い声を立てて、亜美は吐き捨てた。

「喧嘩した相手なんてもう無理! そんなのとまた友達とか、あり得ない! 一回喧嘩しちゃったら、修復なんてできないって!」

 和音と毬は、黙り続けた。会話相手の美也子だけは黙らず、「んー、そうなのかなあ」と答えて、無垢に小首を傾げている。

「私も友達と喧嘩したら、そんな風に思うのかなあ」

「思うって、絶対。その時は美也子だって、そいつらとは友達に戻れないよ」

「えー、寂しいよお。じゃあ私、一生誰とも喧嘩したくないなぁ。ね、そうしたら皆とずーっと友達でいられるでしょ? 卒業しても、離れ離れになっても」

「ファンタジーじゃん、そんなの」

 亜美は鼻で笑い、話題は美術教師への悪口に流れていった。和音はいつしか、拳を固く握り込んでいた。何故だか焼却できない怒りの強さに、自分自身でも酷く戸惑う。毬が余計に俯いてしまい、怒りを殺す和音の顔を、俯く刹那に見た気がした。気遣われた。気づいていた。吸い込む空気が気道で震え、この上なく明瞭に理解した。

 和音はやはり、亜美の事が嫌いらしい。嫌いなものに無理に合わせているという状況も、腸が煮えくり返るほど嫌なのだ。不快感の原因が判って少し溜飲を下げた和音は、そんな思索に溺れていて、気づくのが遅れていた。

 亜美がこちらを振り返っていた事に、気づくのが遅れていた。

「何、和音ちゃん。その目」

「……」

 バレた。だが肝が冷えたのは一瞬だけで、不思議と動揺は少なかった。和音が白けた目で開き直ると、凄む亜美の顔に朱が差した。

「――何とか言えよ! おい!」

 女子のものとは思えない怒号が炸裂した。突然の激昂は凶悪な打撃力で廊下の空気を叩きつけ、毬が短い悲鳴を上げた。教室移動中の生徒達も、何事かと竦み上がった。しかし和音だけは微動だにせず、亜美を睥睨へいげいする目も改めなかった。挑発になると分かっていても、倦怠感が霧のように脳へ被さり、態度を取り繕うのが億劫で、心の淀みを曝け出す方が気分がよかった。きっと、連日の睡眠不足がいけなかった。やはり是正すべきだったのだ。

 亜美、と呼び声が複数聞こえ、背後から足音が近寄ってくる。亜美の取り巻き達だ。声で識別できたので、和音は振り返らずに歩き出す。怒りにぶるぶる震える亜美と、驚きで声も出ない様子の美也子、両者の間を通り抜ける。毬を残すことには抵抗を感じたが、今の和音では駄目なのだ。巻き込んでしまう。だから、毬の手は引けなくていい。これが、正しい選択だ。

「あんたさぁ」

 歩み去る和音の背中に、険のある亜美の声が投げつけられた。

「前もさ、時々そういう顔してたよね。呉野さんが来た時とか!」

 呉野氷花。この場には何の関係もない名前を、何故取り沙汰するのだろう。胡乱げに眉を寄せた和音の背中へ、亜美は尚も叫んできた。

「面白くなさそうな顔してたの、知ってるんだからね! 妬んでんの? ばぁか!」

 和音は適当にしか耳を貸さなかったが、なんだ、とは思ってしまった。所詮和音の演技などその程度でしかなかったのだ。亜美のような人間も騙せない。

 そんな拙い演技で糊塗した日常など、もうどうにでもなればいい。

 はらはらした様子でこちらを見守る生徒達を廊下に残し、口汚く和音を罵る亜美に構わないまま、和音は一度も振り返らずに、その場から立ち去った。

 演技の守りが砕けた世界は、覚悟していた通り薄ら寒く、しかし想像よりは幾分見晴らしがよく、そう悪いものではないと思えたことが、唯一の救いかもしれなかった。

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