1-2 和音

「……和音ちゃん?」

 まるで夢から覚めた瞬間のような唐突さで、その呼び声を知覚した。和音は散漫になっていた意識を急いで引き締め、「ごめん、ぼんやりしてた。何?」と声の主へき返す。

 訊き返された綱田毬つなたまりは、きょとんと丸い目を瞬いた。首を傾げる仕草に合わせて、ショートボブの毛先が黒いブレザーの肩口でさらりと揺れる。

「和音ちゃんがぼんやりするなんて、珍しいね。お稽古、疲れた? 大丈夫?」

「ううん、ちょっと考え事」

 和音は学校指定のにび色のダッフルコートに袖を通すと、こちらを心配そうに見上げてくる友人の肩に、そっと手を添えて稽古場を出た。

 学校の多目的ホールの縮小版のような稽古場は、この道場の師範を務める男の家に隣接している。生垣の赤い山茶花さざんかは、道場の窓から漏れる橙色の灯りを纏い、雪洞ぼんぼりのような淡さで光っていた。玄関扉から門までを繋ぐ飛び石に沿って外に出ると、緑のチェック柄のスカートから露出した太腿を、師走しわすの凍てついた空気が容赦なく突き刺してくる。

「それで、何の話だっけ」

「あ、うん。転校生、来るんだって」

 答えた毬が、胴着の入った鞄を抱え直す。白い吐息が、左頬の泣き黒子ぼくろの傍をすうと棚引き、夜闇に薄く広がった。

 放課後の道場通いを終えると、いつも十九時を回ってしまう。夏場であれば茜色に色づく空を振り仰いで帰れるが、十二月ともなると真っ暗だ。紺色へ墨を溶いたような夜空の下、蛍光灯の白い灯りが、灰色に統一された住宅街を、ぽつん、ぽつん、と心許なく疎らに照らす。女子中学生二人の帰り道としては危険だが、一人ではないからだろう。夜道への警戒心はあまりなかった。

「高校受験まであとちょっとなのに、こんな時期に転校してくるの?」

「ミヤちゃんが言ってたから、本当だと思う」

 情報通の美也子みやこが言うなら確かだろう。納得した和音も「そっか」と短い感想を述べたきり、毬と肩を並べて無言で歩いた。二人ともそれほど口が達者ではないので、和音と毬の間ではよくある風景だ。沈黙も、気にはならない。

 背の低い友人を何気なく見下ろすと、毬は余程寒いのか、鞄をぎゅっと抱きしめて震えている。見れば、手袋をしていない。これでは寒いはずだ。

「寒いでしょ。平気?」

「うん……」

 毬は頷いたが、心ここにあらずといった様子で、道路の果てを眺めている。さっきの和音もこんな風に、毬の目に映っていたのだろう。

「毬、どうしたの?」

「あ、ごめん……考え事してた。さっきの和音ちゃんみたいだね」

「同じこと、私も考えてた。じゃあ、おあいこ」

 ポケットから取り出したカイロを冷えた手の甲に当ててあげると、毬はようやく緊張が解れた顔で笑ってくれたから、和音は心配性の友人が何を思い悩んでいたのかぴんときた。

「受験のこと?」

「うん。判定悪くないんだけど、怖くて。今心配しても仕方ないのにね。お稽古の時にも、思い出しちゃって……」

「やっぱり。上の空だなって思ってた。ほどほどにしときなよ。師範優しいけど、怒らせたら怖いから」

「うそ。師範って怒るの? 見たことない」

 一頻ひとしきり軽口を叩き合って笑った後で、「ねえ」と毬が心細そうに囁いた。

「和音ちゃんは怖くないの? 受験」

「怖く……は、ないと思う」

 和音は、思わずそう濁した。少なくとも、嘘は言っていない。眩しそうに目を細めた毬は「そっか、すごいね」と微笑んだが、ふと何かを思いついたような顔になり、頬にかかった髪を手で梳きながら、訊いてきた。

「じゃあ和音ちゃんには、怖いものってある? あ、怒った師範?」

「ん? うーん……」

 少しの間考えた後、和音は思い当たる答えを口にした。

「……唄、かな」

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