第6話

 マンションの出入り口から駐車場へ駆けていく。新田は車のカギをシルバー車に向けた。ボタンを押し、車が眼光をまたたかせる。

 車のドアを開け、運転席に乗る。カギを差し、エンジンをかけると、シートベルトをしてバックミラーに手をかけた。新田は目を見開く。方向を調整しようとしたバックミラーはおのずと後部座席を映す。一瞬見間違いかと思ったが、影はずっとそこに居続けた。目を虚ろにさせて座る、生気の欠片もない男が後部座席にいたのだ。


 新田は振り返る。

 しかし、新田の目が男を映すことはなかった。もう一度バックミラーに視線を投げるが、男らしき影は消えている。

 乱れる呼吸音が車内に響いた。新田は震える手でエンジンを止め、シリンダーからカギを抜いた。

 怖くなって車から出て離れる。新田は恐怖に侵された車を外から見るが、さっき見たあり得ない光景を否定するように異変は感じられない。


「なんなんだよ……!」


 新田は駆け足になって駐車場を出る。


 夜道は蛍のように光を点在する景色に彩られる。駅前のような色とりどりの蛍光看板や電飾スタンドの看板はない。小さな光を放つ街灯や家やマンションの通路にある電灯、窓の明かりが暗闇に散らばっているだけ。夜の暗さが占めている道がほとんどだ。

 新田は速度を緩めてスマホを操作する。

 萩原の電話番号が画面に表示され、電話アイコンをタップする。受話口からこもったコール音が繰り返されるも、それから人の声が耳朶じだを打つことはない。

 新田は電話を切る。


「クソ、クソクソクソッ!!」


 辺りを見回しながらもう一度電話をかける。

 萩原が無事であることを確認したかった。視線をどこへやっても小さな光の粒が見えるが、萩原の姿は見えない。だが、他の人も見かけない。車も人も、動くものはどこにも見えなかった。まるで人がどこかへ消えてしまったみたいに、街は整然と寂びている。

 新田が街の異様な静けさに疑念を感じ始めた時、かすかな音を聞いた。

 それは受話口から聞こえてくるものではない。空気に晒された人工的な音。不安を増幅させる音の方へ向かってみる。数メートル先へ進むと、音は少しずつ大きくなっていく。三叉路の分かれ道。どちらから聞こえてくるか耳を澄ませ、行く道に目線を合わせる。

 新田の視界は不自然な物を捉える。地面の片側で光る玉蟲色の小さな光が点滅していた。新田の足が方向を定めて速まる。足下、見下ろした地でまだ鳴っている。新田は屈み、手を伸ばした。硬い感触が手のひらに伝い、少し先で灯る街灯の明かりに映るもの。野暮ったい水色を着飾るケースをつけていた。新田のスマホの受話口がコール音を鳴らすタイミングで小刻みに点滅し、コール音が間を持つと点滅が消える。光と音が同調するスマホは間違いなく萩原のものだ。


「萩原……!」


 新田は焦燥を携え走り出す。

 分かれ道にくれば辺りに人影を探した。勘でしかない。萩原が向かったと思う道を走った。住宅やガレージ、庭、そして街灯。それらに挟まれた道をあてどなく走った。

 しかし、いくら仕事で体力を使っているとはいえ、新田の体力はものの5分で底をつく。

 新田は足を止めた。掠れた息がむなしく落とされる。額から眉上の起伏を伝い、こめかみへ流れる水滴。新田の体はまたしても汗を纏っていく。

 ここらではだいぶ幅のある道で、後方と前方に視線を振る。確認できるものは夜になじむ家々と就寝する車くらい。住宅から漏れてくる窓の明かりと玄関口につけられた灯は夜の隙間を照らしている。険しい顔をする新田ももれなくその明かりの恩恵に預かれた。


 警察に相談するかと考えたが、幽霊に襲われているなんて口が裂けても言えない。信じてくれるわけがない。たとえ襲われているとだけ伝えたとしても、現場を見ていたわけじゃない新田の言い分を根掘り葉掘り聞いてくることは察しがついた。

 混迷する新田の思考が深みへ堕ちていく。底なし沼に浸かったかのような重い体の感覚は知覚を狂わせる。有無の確証はない。漂流した言説を心に留める高い意識を持ち合わせているわけでもない。だが、新田の知覚は怪奇の始まりを疑う音を確かに聞いたのだ。


 新田の瞳は一方へ注がれる。先ほど来た道。緩やかな曲がり道が続く1本の道だった。そちらから少しずつ近づいてくる。トコトコと渇いた音だ。波に揺られるように近づく音は、新田の五感を無意識に集中させた。数秒続いた時、道の先から音の正体が姿を現す。


 装いはバラバラ。当然だろう。一目見て年齢の違う者達がぞろぞろと道を埋めながら闊歩しているのだから。何人いるのか数える気すら失せる。どんどん奥から人々が新田のいる方へ近づいてきていた。

 遠目に見ても集団が夜に道を埋め尽くすほど歩いてくるなんて常軌を逸している。

 鳥肌を立たせ、恐慌が喉元まで押し迫ったのはそんなことではない。集団の前列の顔。能面をそのまま貼りつけたような顔が勢ぞろいしている。その先頭で、先ほど新田の車の後部座席にいて、轢いたと思っていた人で、昨日萩原と一緒に街灯を見上げている様子を観察していた男の顔があった。


 新田は後ずさる。1歩、2歩と足が後ろへ向かった。

 すると、集団の先頭の膝が大きく曲がった。合図したかのように、集団は新田に向かって走り出した。

 新田は積もり積もった恐怖に急かされて逃げる。

 後ろから迫ってくる鈍い噪音そうおん。新田は押される形で逃げていく。

 一心不乱に逃げていくも、背後で鳴る音は離れていかない。走りながら後ろを振り返るが、集団は少しずつ距離を縮めてきている。角から飛び出した時に車に轢かれるとか、死角から自転車や人とぶつかる危険性を予測する余裕などあるわけはない。大きく腕を振り、厳しい顔をして走る。

 新田の目線の先に十字路が見えてきた。右へ曲がろうと心に決める。その方向から、湧き出てくるように姿を現した無数の影。夜に染まった影は豪快な走りを魅せながら新田の走る先の道を埋めていく。


「おい、嘘だろッ!?」


 新田は唐突に足を止め、途中にあった右の道で曲がる。集団は合流し、長い行列の中で走っていく。行く先々に立つ街灯は1人駆ける新田を捉えたその数秒後、狂気的な集団を見送る。走行する人々の行列はあまりに長く、地を揺らしかねない数になっていた。

 苦しそうな息を零しながら走る新田。限界に達しつつある足を懸命に前へ押し進めていく。誰か助けてくれないかと願うも、新田の走る先でおかしな集団と縁もない人に出くわすことはなかった。当然周辺に立つ家々に助けを請うことも考えた。しかし、それで自分の身が助かるとも思えなかった。


 必死の形相で逃げる新田の気力が細り始める。噴き出した汗を飛ばしながら行く当てを考えようとした時、新田の体が前に傾いた。バランスを保とうとしたが、全速力を出し続けた足は悲鳴を上げており、上手く力の入らなかった足は体を真っすぐに保てず、アスファルトに手をついた。

 新田は膝をついてしまうが、すぐに走り出そうとする。立ち上がろうと顔を前へ向けようとした。入り込んだのは地面ではなく、丸みを帯びた革靴とスーツの裾だった。

 新田は荒立つ息をつきながら恐々と見上げる。

 無感情な表情をした顔、顔、顔。

 視界を覆う顔がずらりと並んでいる。新田はいつの間にか集団に囲まれていた。集団の黒目には、冷や汗と恐怖に滲んだ顔が映っていた。





 ―――――――———————————。

 集団はその場から消えていた。新田の姿も。

 夜の暗さに溶けてしまったように、消えていた。


 静寂はいつもの夜を告げる。夜通し決行を決め込んだ若い男女が、新田がいたはずの通りを進んでく。新田のいた痕跡のない道で、若い男女は楽しげな会話を繰り広げる。若い男女の声を聞きながら、街灯は青白い光で見送っていく。何の変哲もない、住宅の道を照らして……。

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