第5話
翌日、今日の仕事を終えた新田は、スタイリッシュな
汗のベールを纏う体が少しずつ冷めるのと同時に、今から自宅で過ごす予定を思考する。カギに付いたボタンを押し、駐車した自分の車に歩み寄る。小さな手提げ鞄と共に車に乗り込み、助手席に鞄を置いた。
カギを差し込み、エンジンをかける。好きなロック調の曲がかかるが、頭は違う刺激を求めた。カーオーディオをラジオに切り替える。特に内容に興味はない。ラジオから流れてくる発声が耳障りが良いかどうか。適当なチャンネルに合わされ、新田の背中が座席の背にもたれる。
車を発進させようとギアを切り替えようとしたが、新田の頭によぎる忘れ物。会社に忘れてきたとかではない。今日の昼過ぎにスマホが着信をつけていた。大して珍しくもない話だが、萩原から連絡が来ることは撮影などの約束が事前にあったりする時ぐらい。2人とも行きつけのクラブに行けばだいたい会えると知っているため、わざわざ遊ぶ約束を取りつけはしなかった。
仕事中に届いたメールを後で見ようと思っていた。だが、一旦止めた手がシフトレバーにかかり、車が動き出した。夜に向かう空をフロントガラス越しに捉えながら、車は帰路に入った。
夜が深まり、車は新田の住む自宅周辺となった。今日は寄り道せず自宅へ向かったために、いつもより早めの帰宅となる。街灯を見上げる彼らが出る時間でないこともあり、不気味さを懸念する必要もない。
車は悠々と住宅が並ぶ道を進んでいく。ハイビームの光の片側にウィンカーが灯る。新田の双眸が左に寄り、ハンドルが左に回る。迂闊だった。新田の運転する車が曲がった瞬間、1人の男が道路の真ん中にいたのだ。新田の足が咄嗟にブレーキを踏む。急停止した車は反動で前後の揺れを伴う。
思わず息を止めた。
茫然する新田の顔が恐怖の色をかすかに滲ませる。
止まった車の前方には人の影はない。新田は車を降りる。
前に回るも、人が倒れている様子はない。更に車の周囲、車の下を見ても、轢いてしまったと思われる人の姿は見当たらなかった。
車を止めた瞬間から違和感はあった。人を轢いたのであれば、何かしら感触があるはず。だが、新田が轢いてしまったと思ったのは、角を曲がった瞬間、突然車の目と鼻の先に現れた男がいたから。そして、反射的にブレーキを踏んだものの、間に合ってない可能性が高いを判断したからである。
心臓が激しく鼓動を打つ。額にジトリと汗が噴き出した。1つの光を灯す自転車が新田の車の横を通り過ぎていく。顔が一度こちらに向いたのを横目で捉え、新田は嘆息する。
慣れない頼みを聞いたからだ。思ったよりも疲れていると思い、新田は車に乗った。
自宅に帰ってきた新田は早速シャワーを浴びた。感じの悪い汗を肌に残したままゆっくりしたくはなかった。
着替えて髪を乾かした後、ドラマを観ながら帰りがけに買った牛丼を頬張る。同時に、スマホに溜まったメールに返信してとゆっくり過ごす。マイペースな新田の気質上、相手に返すメールは3日後なんてことがザラにあった。メールを返すのが面倒と思いながらも、交友関係は大事にしたいので、まとめて返せばいいかといい塩梅に落ち着いた習慣を形成した。新田なりの配慮として、古いメールから返していくというスタンスを取っている。そして、今日届いた萩原のメールを開いた。
『昨日はサンキュー。いい動画撮れたと思って今日編集してたんだけど、昨日撮ったはずの男映ってなかったわ』
新田は目を這わせる動きを止める。意味が分からなかった。いや、意味は分かっていたが、なぜそうなったのか分からなかったのだ。
『あの男以外にもいたろ? 街灯見てた他の人も映ってなくてさ。故障かなって思ったけど、警察官の声も姿も問題ないんだよね。これヤバくね?(笑)』
新田の目はスマホに釘づけだった。流れてくるドラマの声も音も、新田の耳がはっきり捉えることはない。
『んでさ、俺思ったんだけど、あれって幽霊じゃね? そんですげえもん撮れると思って今日の夜また撮ってみるわ。今度は歩きで。もし気が向いたらその辺歩き回ってるから来いよ。いや、まさちゃん、寂しいからきてっちょ♡』
あれが幽霊。新田の口から失笑が零れる。だが口の端は引きつり、強張っていた。
今日見た男が街灯を見上げていた人だったとしたら。
萩原の言うように、あの男が幽霊だとしたら。
……。
新田は唾を飲み込んだ。すると、新田はスマホを操作し、萩原に電話をかける。
コール音が鳴る。2回、3回、4回―———7回の合図の途中でコール音が止んだ。
「もしもし? まさちゃん?」
新田は思わず胸を撫で下ろす。
「もしもーし、あれ聞こえてない?」
新田は落ち着き払って喉を鳴らす。
「萩原」
「おう! まさちゃん! 来てくれんの!?」
萩原は楽しげな調子で期待を向ける。だが新田は忍び寄る危機感を口に出した。
「撮影はやめろ」
「はい?」
「今日男を轢いた」
「ええ!? ヤバいじゃん!」
「だけど、いなかったんだよ誰も! 車の周りを見回しても、どこにも!」
「え、つまり……どういうこと?」
「はっきり見てないから断定できないけど、街灯を見上げてた男だったかもしれない」
電話の向こうから動揺の声が如実に伝わってくる。
「えなに? 幽霊を轢いたってことが言いたいの?」
「問題はそこじゃない。この辺に住んでて、こんなこと一度もなかった! あいつら、俺達に何かしようとしてんじゃないのか?」
新田はたどたどしくも身の危険を思いのままに伝えた。しかし、萩原から聞こえてきたのは呑気な笑い声だった。
「あははははは!! まさちゃんて意外とビビりだなぁ! 萌えるねぇ~」
「お前真剣に聞けって!!」
新田が窘めた、その時だ。
電話口から無音が伝う。
「萩原?」
新田は窺うように声をかける。
「え、なに?」
「だから——」
新田は説得を続けようと口を走らせたが、萩原の問いは新田に向けられたものじゃない。
「ちょっと待って。……え、なんだよ? おいおいおいおい! くんなって!! おいっ!!」
電話の向こうで萩原が誰かに怒鳴っている。
「おいマジふざけんなってっ!!」
電話口から激しい物音が鳴り出した。衣擦れの音、靴が地面を激しく蹴る音。そして息づかい。すると、電話が切れてしまった。
「萩原……!」
新田は壁にかけてあるジャケットを着て、棚の上に置かれた小物入れの中から素早く2つのカギを取り部屋を飛び出した。
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