329話 バッグ
時は僅かに遡り、視点も変わる。
ニアロンを護衛につけ、フリムスカと共に獣人からラケットを回収するべく飛び出していった竜崎。さくらはそれを半ば放心状態で見つめるしかなかった。
―何か…何か策はないか…!―
下手に動けば、さくらと装置が狙われる。それは避けなければならない。必死に頭を回転させ、竜崎の支援策を考えるニアロン。その横で、さくらはただただへたりこんだまま茫然自失としていた。
もう迷惑はかけたくない。そう思っていた矢先の出来事。自らが手放してしまったラケットが、容易く奪われ、今や自分達の脅威と化している。その事実に囚われ苛まれてしまっていたのだ。
どうしよう…どうしよう…どうしよう…。彼女の頭の中では、その言葉だけが回り続けていた。
しかし、それは解決策を練るための言葉ではない。本当に、それしか出てこなかったのだ。
もはや思考というには及ばないそれは、自然に漏れ出た贖罪のつもりだったのかもしれない。
そんなたった数分もない間の、何も出来ぬ心の混乱。その間に、事は動いてしまった。
「がっ…!」
「きゃあっ…!」
遠くで響く悲鳴。ハッと顔を上げたさくらは愕然とした。視線の先では竜崎が吹き飛ばされ、フリムスカが粉となり散っていたのだ。
―清人…!!―
ニアロンは叫ぶ。そして即座に何かを詠唱した。
―ここを動くな!―
張られたのは、即席の障壁。それがさくらを包み込んだのを確認するや否や、ニアロンは風の如く飛び出していった。
さくらを守れと言われた彼女だが、瀕死となった竜崎を見捨てることなんてできなかった。暗い洞窟から連れ出してくれ、今まで共に明るい世界を見てきた彼は、愛する大切な存在。それこそ、さくらよりも何倍も。
彼女の気持ちを汲むならば、その行動は仕方のないことだったかもしれない。責められるわけはない。
だが、結論から言うと、それが最悪のターニングポイントとなってしまった。
「あ…」
さくらは微かに手を伸ばす。しかしニアロンは振り返ることなく、身体の一部を消滅させながら必死の形相で
独りになってしまった…。鈍った頭が数瞬遅れてそれを理解した時、さくらの身体を得も言われぬ恐怖が包んだ。
守ってくれる人は、誰もいない。自分を守る武器も、何一つない。ただ、穴が開いた氷牢と、ニアロンが張ってくれた障壁だけがその場に残っている。
このまま、戦いが終わるのを待つしかないのか。竜崎達が傷ついていくのを、見ているしかないのか。
それは…嫌だ…!なんとかしなきゃ…なんとかしなきゃ…私もなんとかしなきゃ…!
恐怖に背を押され、髪一本ほどの正気を取り戻したさくら。頭に纏わりつく自責を振り払うように、首を振る。
と、そんな首の動きと共に、かけてあった御守りが揺れる。それに気づいた彼女は目を見開いた。
「そうだ…!指輪…!」
御守りの中に隠した、ラケットと連動する特殊な指輪。それ越しに魔術を唱えれば、ラケットに思わぬ挙動をさせ、獣人に隙を作れるかもしれない…!
そう思いついたさくらは、急いで御守りを開け、中身を取り出そうとする。
―その時であった。
「ガルルッ…!」
さくらの耳に、獣の唸り声が聞こえてくる。彼女は思わず身を竦め、手を止める。
しかし、声の元は近くではない。少し離れたところから。一体どこからかかと様子を窺ってみると…。
「―! バッグが…!?」
装置から少し離れた岩場。その上に一匹の犬のような魔獣が。彼が口に咥えているのは、隠しておいたはずの学生バッグ。
ハッとさくらが辺りを見やると、いつの間にか穴から降りてきた魔物達が幅を利かせ始めている。唯一残り、戦っていたはずの土の上位精霊ノウムの姿もない。倒されてしまったのだろうか。
いや…!そんなことを気にしている場合ではない。岩の上に陣取った魔獣は、バッグを振り回し噛みちぎらんとしている。
「嫌…! 駄目…!」
次の瞬間、さくらは飛び出していた。ニアロンが作った障壁はただの壁ではない。内側からの攻撃を可能にするため、設置主…この場合は魔力源であるさくらの出入りも自由な設定となっている。
だからこそ、ニアロンは「動くな」と言い残し竜崎の元に走ったのだが…。そんな事情は、さくらの頭には無かった。ただ彼女は、無我夢中に障壁から、氷牢から、走り出てしまった。
あのバッグの中に入っているのは、元の世界の本やノート、ラケットだけではない。電池切れとはいえスマホやバッテリーがあるのだ。
あんな振り方をされ、鋭い牙がバッグを貫けば、中の物はズタズタになってしまう。岩場に叩きつけられてしまえば、精密機械なんて簡単に壊れてしまうだろう。今は遠き現代世界と繋がる、唯一の存在である、それが。
否、否…!それだけではない…! あの中には、竜崎から預かった手紙と古い携帯電話が…!
厚みがある手紙には、20年前に突然別れ会えなくなってしまった親や友人への言葉がどれだけ綴られているだろうか。動かなくなった携帯には、いつか電話がかかってくるかもという奇跡がどれだけ祈られたことだろうか。
彼から預かったそれは、自分なんか比べ物にならないほどの『元の世界への想い』がぎゅっと詰まった代物。さくらはそのことを、胸が痛くなるほどに分かっていた。だって、自分も同じなのだから。
そんな大切なものを、竜崎から『命を張る代わりに』と信じ、託されたのだ。ラケットを盗られてしまった今、それすらも奪われてしまったら、彼に合わせる顔なんてなくなってしまう。
だから、だからこそ。取り返さなければいけない。自分と竜崎の想いを、噛み砕かれ、引きちぎられるわけにはいかない…!
「返して…!!」
岩へと駆け寄り、叫ぶさくら。すると魔獣は、グルルと一際唸りをあげ、戦闘態勢をとった。
逃げないのは、謎の魔術士により洗脳されているからか。ともかく、さくらにとっては好都合だった。
「『精霊よ』…!」
彼女は意識を集中させ、詠唱を始める。今、さくらの手には何もない。神具の鏡をつけたラケットも、精霊石も。つまり、護身用の武器はおろか、魔術行使の補助となる道具すら何一つないのだ。
だが、それでも…やるしかない…! キッと前を見据えたさくらは、かつての竜崎の教えを思い出す。
学んできた呪文を詠唱。間違えぬように丁寧に、素早く…。小さな魔法陣から光輝き姿を現した、妖精のような中位精霊達に向け、彼女は一心に祈った。
「お願い…! あの魔獣からバッグを取り返して!!」
「「「―!」」」
召喚された精霊達は、にっと微笑む。 そして…一斉に魔獣へと飛び掛かって行った。
「グルッ…!? ガウウッ!」
突如として現れた精霊達に囲まれ、バッグを咥えた魔獣は混乱する様子。精霊達はその隙を見事に突き―。
ドドドドドッ!
と、幾多もの属性弾を撃ち出した。
「グウウッ!? ギャッ…!」
あらゆる方向から撃ち出されるそれは、魔獣を脅し、身体を掠り、時には貫く。対抗しようとも空中を動き回る精霊達のどれから狙えばいいかわからず、魔獣は困惑する。更にそこを…。
「―!」
火の中位精霊が近づき、鼻へ向けてパンチ。瞬間、そこはボウっと焦げた。
「ギャインッ!」
大きく驚いた魔獣はバッグを放り捨て、脱兎の如く逃げていく。精霊はそんなバッグを全員でキャッチし、意気揚々とさくらの元に戻ってきた。
「ありがとう…!」
ほっとお礼をしたのも束の間、さくらは急いでバッグのチャックを開け、中身を確認する。ノート、文房具、ラケット…スマホも傷一つない。そして…。
「…! よかった…!」
綺麗に封された手紙と、新しい傷は見受けられない古い携帯電話。両方とも無事な様子。竜崎さんの想いは守ることが出来た…! さくらは心の底から安堵し、バッグをぎゅっと抱きしめた。
…そんな折であった。
「「「――! ――!!」」
精霊達の声に、さくらはハッと振り向く。そこに立っていたのは…
「ハァ…ハァ…殺す…殺してやる…」
手に召喚した黒槍を携えた、魔術士であった。
魔術士が倒れていた位置からこの岩場までは、結構な距離がある。いつの間に…いや、転移魔術を使ったのであろう。
未だ倒れそうなほどふらついているとはいえ、そこまで回復してしまったということ。だというのに獣人の支援に行かなかったのは、彼を信頼している故…ではない。
「お前を殺して…忌々しいリュウザキに吠え面をかかせてやる…!」
ただの…恨み。自らを痛めつけた竜崎に対しての復讐。それを、少女の殺害で果たそうというのだ。
助けを求めようにも、竜崎達は遠くこちらに気づいている様子はない。ドーム全体は魔獣達の唸り声で満たされており、それによって掻き消されているのだ。
自分で何とかするしか…! 必死に精霊に指示を出し、対抗しようとするさくら。だが…
「邪魔だ…!」
ガガガッ!
魔術士が即座に召喚した黒刃に、精霊は全て穿たれ消滅せしめられる。いくらさくらがある程度強くなったとはいえ、相手は竜崎と渡り合った存在。敵うはずはない。
「殺す…!」
魔術士は槍を引く。そして、その黒く鈍く光る刃はさくらの身体へと…!
「きゃあぁぁっ!!!」
ただ、さくらはバッグを抱えたまま、目をつぶり悲鳴をあげるしかなかった。そして―。
パキッ…
首にかけてあった、身代わり人形が粉々に砕け散った。
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