十日目:女神の領域-5


 殿様の悲鳴に、私ははっと顔を上げた。

 剣を交えたまま押し切られた殿様は、左腕に自分の剣の柄が当たっていた。殿様は、よくなったとはいえ、左腕を怪我しているのだ。あれだけ押さえつけられて痛くないはずはなかった。

 兜に隠れがちな殿様の顔がそれでも、苦悶にゆがんでいるのがわかった。

「殿様!」

 私はいてもたってもいられなくなって、窓から覗くのをやめて門のほうに向かった。何もできないことはわかっているのに、私は重い門をどうにかあけて、その隙間から外に出た。

 私などに刺客は注目することはない。殿様も、そういう余裕はなかった。

「畜生……!」

 殿様はうめきながら、相手を突き飛ばすべく隙をうかがっていた。

 相手は殿様より背が高い男で、痩せている殿様と違ってがっちりとした大男だった。力で押さえつけられている間は、殿様には正攻法で抜け出すすべはなさそうだった。

 と、殿様が一瞬力を緩めて、さっと身を沈めた。思わず相手の姿勢が崩れたところで、するりと抜け出したが、他の刺客が目の前に来ていた。

 十分攻撃態勢ができていないところに、刺客の蹴りが殿様の足をとらえる。それでぐらついたところに横っ面を張り飛ばされる。そのまま倒れこみそうだった殿様だったが、きっと相手を睨み返すとすかさず剣を握ったまま、柄で相手を殴り返した。

 一人をそうして撃退したが、姿勢の崩れた殿様にもう一人の刺客が攻撃を仕掛ける。振るった剣の一撃をさけたものの、すぐに蹴りが飛んできた。よけ切れなかった殿様は、鳩尾にそれをもろに食らって倒れる。

 苦痛に呻く暇も与えず、トドメ、とばかりに剣を振りかぶった刺客だったが、殿様の足が彼の足を掬った。バランスを崩したところで、殿様の反撃を浴びて男が倒れる。

 地面を転がって起き上がった殿様は、咳き込みながら、彼らから再び間合いを取っていた。

 左腕の傷口が開いたのか、殿様は右手で左腕をかばうようにしていたが、その袖がじんわりと黒くにじみ始めていた。殿様の左手の指から血が滴っている。

 口の中でも切ったのか、殿様の口元にも血がにじんでいた。それを袖口で拭きやって、彼は刺客達を睨み付けた。

「ちっ、ふざけんなよ! この野郎……!」

 殿様は、血の混じった唾液を吐き捨て、怒りの声を上げた。

「この程度で死ねるかよ!」

 それは強がりだろう。殿様の足元が、もう怪しくなってきていた。自覚できているのかわからないが、殿様はまっすぐに立っていられなくなっていて、ふらついていた。もう肩で息をしているし、構えた剣の切っ先が定まっていなかった。先ほどの攻撃が、遅れて効いてきているのかもしれない。

「諦めろ!」

 刺客から声が飛んだ。

「お前を助けてくれるものはどこにもいない! どうせ死ぬんだ!」

「助けなんぞ最初から望んじゃいねえ!」

 殿様は、息を切らしながら答えた。

「どうせ死ぬなら、後味悪い死に方してやるっていってるんだ!」

 息の上がった殿様は、ふらつく足でどうにか攻撃の糸口を見つけようとしているようだったが、相手のほうが早い。殿様は、それでも相手と何合か渡り合っていたが、足がついていけていない。いつの間にか、周囲をとりこまれ、そして、マントをつかまれてあっという間に引き倒されてしまった。。 

 直後、殿様の周りでもみ合いになっていた。殿様は地面に押さえつけられていたが、まだ剣を放していなかったし、抵抗も激しかった。何度か、逃げ延びようとしていたが、複数の刺客たちに囲まれているせいで逃げ切れていない。ただ、殿様が暴れているので、刺客のほうも決定的な一撃を加えるにいたっていなかった。

 囲みの中から悲鳴が上がったのは、殿様が斜めに剣を振り上げたせいで、それでできた隙間から殿様はどうにか囲みから抜け出した。

 だが、殿様はもう限界だ。殿様は、何度も足をつまずかせ、転びながら渡り廊下のほうに逃げ出していた。狭い場所で戦うつもりだったのかもしれないけれど、今の殿様は、満足に走れない状態だった。

 だから、渡り廊下に逃げ込んだのは、失敗だった。そこには手すりはなかったし、へりに小さな段差があるだけだ。足を踏み外せば、中庭にまっさかさまにおちてしまう。

 通路の端に追いやられながらも、殿様はまだ健闘していたが、一人と渡り合っている間に、別の一人にマントをつかまれてしまった。ぐらりと殿様は体を傾がせつつも、マントをつかんでいた男を切り捨てた。が、その男がマントをつかんだまま通路から落下したのだ。殿様はそれに引きずられ、足を滑らせた。

「殿様!」

 私は思わず叫んで、飛び出していた。殿様と刺客が二人で落下していくのがみえていた、が、殿様は落ちながらどうにか左手を廊下の縁にかけていた。殿様はどうにかそこにひっかかり、刺客だけが下に落ちていって見えなくなった。しかし、もう殿様の命は風前の灯火だった。

 下は神殿の中庭。中庭までは十分な高さがある。殿様が落ちればまず助からないだろう。しかも、殿様は右手に剣を握っていたから、よりによって怪我をした左手を床にかけていたのだ。

 刺客の一人が殿様を見下ろしていた。

「我々に投降するなら引き上げてやろう」

 男が殿様に言い放った。

「もう限界だろう? せめてもの情けだ。死体はアルシールに引き渡してやる」

「誰が……!」

 殿様は唇を噛んだ。

「喉を切られて、獣の餌にされようが、貴様等に降ることはない!」

「それなら仕方がない」

 男は殿様の手を足で踏みにじった。

「このまま落ちろ! 殿下は乱心の上、それを悔いて神殿で自殺! そのように後処理をしておいてやる!」

 ぐりぐりと男は殿様の手に体重をかけた。殿様は悲鳴も上げずに、歯を食いしばって耐える。殿様の左腕ががくがく震えていた。

 私はその様子をもう見ていられなくなった。

 ああ、瑠璃蜘蛛は、まだなんだろうか。

 私は、祈るような気持ちになった。

 見上げれば、明けの明星が燦然と輝いている。アレは女神の星だ。この神殿の主である、星の女神とはあの星の女神のことをいうのだから。

 女神は、この様子をみているのだろうか。それなのに、女神は、どうして助けてくれないのだろう。殿様も、根はいいひとなのに。瑠璃蜘蛛だって、真剣に彼を助けようと願っているはずなのに。

 星の女神様は、どうして助けてくれないんだろう。

 どうして――?

 星は瞬きもせずに、明るい光をのどかに放っている。今にも殺されてしまいそうな殿様を見ることができず、私は星を見上げて祈った。

 と、あたりが突然騒がしくなった。

 私の背後から神殿を守る兵士たちが、あわただしく外に出てきた。なんだろう。どうしたのだろう。もう夜明けなのだろうか。

 いやでも、まだ太陽は昇っていないし、鶏の声もきかなかったのに。

 走っていく兵士の真ん中を瑠璃蜘蛛が歩いているのが見えたが、兵士たちに囲まれて彼女に近寄ることができなかった。

 瑠璃蜘蛛がとうとうやってくれたのだと私は思った。彼女ならやってくれると思っていたのだ。きっと神がかりになったふりをして、殿様を助けるように仕向けてくれたのだ。

 いきなりの兵士たちの出現に刺客たちは、あっけに取られた様子でこちらを見ていた。殿様は、多分それが見えていないが、刺客達の変化に、何かが起こったことを察知していただろう。

 それに、その兵士たちの先頭には、瑠璃蜘蛛が立っている。彼女は剣を携え、それを弄ぶようにして、殿様と刺客達を妖艶なまなざしで見つめていたが、ついとそれを掲げて何か言った。

 なんといったのかはわからない。この国の言葉ではありえないことは確かだ。

 けれど、その声をきいた兵士たちは、いっせいに行動に移った。声をあげて刺客たちに襲いかかったのだ。

 殿様を今にも殺そうとしていた刺客たちは、いきなり神殿の兵士たちの攻撃を受けて浮き足だったようだった。攻撃をくわえられた彼等は、殿様にトドメを刺すこともできなかった。いきなりの攻撃だったため、応戦していたが、ほとんど逃げ腰だった。

「殿様!」

 彼等が四散して誰もいなくなったそこに、私はあわてて駆けつけた。

 殿様は、状況を把握していないようだったが、ひとまず剣の柄をくわえて右手を伸ばし、どうにかこうにか床をつかんで体を引き起こすところだった。もう左手だけでは耐え切れない。

「殿様、つかまって!」

 私は殿様の右腕をつかんで引き上げようとした。鎧を着た殿様は、私には重くてひきずられそうだったけれど、一生懸命手を引っ張った。殿様の上体が引きあがって、彼が左足を床にかけたところで、私はそのまましりもちをついた。殿様もそのまま石畳の上に倒れこんだ。そのまま、彼はうつぶせに倒れこんで、荒い息を吐いていた。

「殿様、大丈夫?」

 私は起き上がって殿様に尋ねた。剣を口からはなした殿様は、そのまま仰向けにごろんと横になった。まだ胸がせわしなく上下していた。

「だ、大丈夫じゃ、ねえ、よ」

 殿様は、息も絶え絶えになりながらそうつぶやくと、私を見て苦笑する。

「それぐらい、み、みてわかんだろ?」

 私は、ほっとしたものだった。殿様は、少し息を整えながら、私に尋ねた。

「あ、あいつら、何でいなくなったんだ?」

「ねえさまが何とかしてくれたんです」

 殿様に聞かれて、私は、瑠璃蜘蛛の方を指差した。まだ、瑠璃蜘蛛は、剣を掲げたまま、兵士たちが刺客達を追いかけているのを黙ってみていた。塔から出たところでぼんやりと一人たたずんでいる。

 殿様が状況がわからないらしく、きょとんとしているのを置き去りにして、私はそっと瑠璃蜘蛛のそばに駆け寄った。

「ねえさま、うまくいきましたね」

 私はそういって声をかけたが、瑠璃蜘蛛は答えない。

「ねえさま?」

 そう声をかけて、注意をひくために腕をとろうとしたところで、はっとして引き下がった。

 瑠璃蜘蛛は私を見ていなかった。そして、彼女の視線は、恐ろしく冷たい。まるで人間ではないもののようだった。

 瑠璃蜘蛛じゃない!

 私はそう思った。

 演技するはずが、瑠璃蜘蛛は、本当に神がかりになってしまったのか。

 その、瑠璃蜘蛛ではない誰かは、笑いながらふらふらと渡り廊下のほう、殿様のほうに近寄った。

 石畳の上に倒れこんでいた殿様は、呆然と、近づいてくる彼女を見上げていた。どうにか手をついて半身を起こしたところで、殿様は彼女の異常さに気づいたのか、動きを止めていた。

 瑠璃蜘蛛はそのまま、殿様の眼前まで歩いていった。そして、剣を持ったまま、静かに彼を見下ろしていた。

 うたうように、彼女は何か言うが、なんといったのかがわからない。視線の冷たさと、別人のように妖艶に笑う彼女の笑い声が、私には恐かった。

 殿様にも、おそらくわかっているはずだった。

 彼女は演技をしているわけではない。今の彼女は、本当に「星の女神」そのものなのだ。

 彼女は、断罪を待つ哀れな罪人のような殿様の前に立ちはだかった。瑠璃蜘蛛は女性にしては長身ではあったが、ほっそりしていて威圧感を感じさせなかったはずだ。だというのに今の彼女は全身に女神の権威をまとって、とても大きくみえている。

 そうして殿様を見下す彼女は、瑠璃蜘蛛とはまったく違う女だった。

 彼女は剣を握っている。

 先ほど、刺客たちに退去を命じたように、彼女に剣を下ろされたものは排除される運命にある。もし、殿様に剣が振り下ろされようものなら、疲れきった殿様は神殿の兵士たちに八つ裂きにされるだろう。ここでは女神の神託は絶対的なのだ。

 殿様はのどを鳴らした。冷たい視線に身の危険を感じたらしかったが、もはやここで逃げ出すことはできないし、それに実際、今の殿様はまだ動くことができないのだろう。殿様は観念したように彼女を見上げていた。

 ふわりと剣が振り上げられる。殿様は思わず身を固めていた。そして女神が手を下ろす。

 衝撃を予感して目をつぶった殿様は、思いのほか軽い何かがひらひらとふりかかるのに驚いて、はっと目を開いた。

 降りかかったのは冷たい金属でなく、淡い色の薔薇の花びらだった。剣と一緒に花びらをにぎっていたのだろうか。薔薇の淡い香りが鼻をなで、祝福するように殿様の頭から降りかかった。

 女神はいたずらっぽく微笑み、持っていた剣をからりと落とした。そして、驚いたままの殿様にそっと、手を差し出していた。

 殿様は、身を起こして彼女を見上げた。意味を把握しかねている様子だった。女神は思いのほかやわらかく微笑み、せかすように差し出した右手を振った。手を取れということだろうか。

 殿様は、ひざまずき、そっと彼女の手をとった。いくらかためらっていたが、臣下が王にやるように、そのまま手の甲に口付ける。

 何か彼女が声を出したが、不思議な響きの言葉で聞き取れなかった。女神は人間の言葉を話さない。内容は私や殿様にはわからないだろう。

 呆然と殿様は彼女を見上げていた。ちょうど瑠璃蜘蛛の頭上に、明けの明星があった。明け行く空の中、それでも燦然と輝く星の下に立ち、彼女は妖艶な微笑みを浮かべた女神から、普段の無表情な彼女の姿に戻っていった。

 殿様は、彼女の手をとったまま、硬直したように瑠璃蜘蛛を見上げていた。星の光を受けてたたずむ彼女は、まさしく女神の映し姿に他ならない。

 それに見とれたように、殿様はそっと彼女の手を離した。

 その瞬間、ふわりと瑠璃蜘蛛の体がかしいだ。はっとわれに返った殿様は、慌てて彼女を抱きとめにかかる。満身創痍の殿様は、立ち上がるのも大変なほどだったが、それでもどうにか彼女を抱きとめていた。

「ね、ねえさん!」

 殿様は彼女を覗き込む。瑠璃蜘蛛は眠るように目を閉じていた。気を失ったのだろうか。

「だ、大丈夫かい、ねえさん! ねえさん!」

 そうきかれた瞬間、瑠璃蜘蛛はゆっくり目を開いて、彼を見上げた。

「ねえさん、大丈夫かい?」

 もう一度殿様はきいてみる。瑠璃蜘蛛は、瞬きをして殿様を見上げるとにこりと微笑んだ。

「よかった。あなた、無事だったのね」

「あ、ああ、おかげさまでね」

 瑠璃蜘蛛は起き上がると、きょとんとした様子であたりを見回した。

「あれ、どうして私、ここにいるのかしら? 塔の上で踊ってたはずなんだけれど」

「え?」

「おかしいわね。まったく何もおぼえていないわ」

 瑠璃蜘蛛は、そう呟いて怪訝そうに小首を傾げる。その様子がおっとりとしていて、なんだか気が抜けてしまいそうだった。その様子は、いつもの瑠璃蜘蛛だ。殿様も私も思わずあっけにとられてしまっていた。

 ふと、時を告げる声が聞こえた。いつの間にか、空は明るくなりつつある。

 それに気づいた殿様は、気が抜けたように、ようやくその場に座り込んだのだった。


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