十日目:女神の領域-4
外からは、戦闘の物音が聞こえている。
「シャシャ」
窓辺で呆然と外の音を拾っていた私の前に、いつの間にか瑠璃蜘蛛が現れていた。
そのときには、瑠璃蜘蛛は、すでにいつもの落ち着きを取り戻しているようだった。けれど、彼女の要請が大神官に通らなかったのは、すぐにわかった。彼女が一人でここにやってきたのがその証拠だ。
夕映えのねえさまや他の女の子たちなら、多分、涙の一つもにじませていたかもしれないが、瑠璃蜘蛛はそんな風に取り乱すことはなかった。彼女の切り替えが早いのか、彼女が悲しみの感情をうまくあらわせないのか。それは、傍目からはわからなかった。
「やはり、助けてもらえないのでしょうか」
「ええ。神殿は中立を保つものですもの。特別に神様が判断を下さない限りは」
大神官や兵士たちはどこにいったのか、気配もない。祭壇の前で、私と瑠璃蜘蛛は二人っきりになっていた。窓から外の音が聞こえてくる。殿様と刺客の戦闘が続いているようだった。
「どうしたらいいかしら。あのままじゃ、あのひとが危ないわ」
瑠璃蜘蛛が、小声で言った。
「まだ、彼、本調子じゃないはずよ。病み上がりなのに、ここ二日、強行軍をしてきたのだもの。左腕も全快していないし、自分でも不調なのはわかっているはず。さっきまで私たちをかばってくれてたから、無理をしているし。気力だけでどうにかしているけれど、限界に近いはずだわ。彼を助ける、何かいい方法はないかしら」
無表情にしか見えない瑠璃蜘蛛が、それでも殿様を本気で心配しているのは、よくわかった。私は少し考えて、思ったことを答えてみた。どうにか、彼女を喜ばせたかったし、私も殿様を助けてあげたかった。
「鶏が鳴けば門を開けるのでしょう? 門が開けば、祭礼の日の朝ということになります。鶏を早くに鳴かせればどうでしょうか?」
「ええ、けれど、そう都合よくは時を告げてくれないわ。それに、鶏がいるのは、神殿の門の中よ。物理的に無理だわ」
瑠璃蜘蛛は眉をひそめた。
「それにね、もうひとつ心配なことがあるの。一応、朝になれば、兵士たちが騒乱の当事者を追放するように動いてくれるはずよ。そうなれば、彼は助かるわ。でも、朝になるまでに、彼等が彼を神殿の外に連れ出してしまった時は、どうにもならないの」
「さらっていくということですか?」
「ええ、神殿の兵士たちは、神殿での騒乱は止めるでしょうけれど、神殿外のことは管轄しないわ。あの人が連れ出されてしまったら最後よ。それに、彼等も、神殿で血を流すのは気が進まないでしょう」
「あの人たち、殿様に自殺を勧めていました」
「そうでしょうね。王族の彼が神殿で懺悔して自害したという物語なら、受け入れられやすそうだもの。でも、彼はきっとそれには応じない。だから、どうしても、自殺に見せかけられなければ、痛めつけて彼が動けなくなるのを待って、連れ出して砂漠で殺すつもりだとおもうわ」
瑠璃蜘蛛は、目を伏せた。
「大神官様にも、彼は王族出身の高貴な方だから助けて欲しいといったけれど、聞き入れてくれなかったの。神殿の兵士は、朝になっても協力的に動いてくれるとは思えない。どうしたらいいかしらね」
そう、神官長が言ったとおり、ここでは殿様の身分は問題ではない。
ごく円満にことが進んだという話だったけれど、この国の王様も王朝が変わったばかりだ。新たな権力者に祝福を与えるのが彼らだとしたら、古い支配者に媚を売る必要はないということでもある。だから、今の刺客が新たに権力を握る存在なのだとして、それが認められれば、神殿は彼等を勝者と認めるかもしれない。
王権を与える特権がある神殿は、そういう意味では非常に冷淡で乾いた存在だった。だから、殿様が何者であろうとも、特別扱いも許されない。
瑠璃蜘蛛は、しばらく黙り込んで目を閉じた。なにやら考え込んでいる様子だった。私は気が気でなかった。外はいまだに騒がしくて、殿様の声が混じっているのもわかったから。
「あの人を助ける方法がないわけではないわ」
考え込んでいた瑠璃蜘蛛が、ぽつりと言って顔を上げた。
「神官たちに例外を認めさせればいいの」
「例外を? でも、どうやってですか?」
「女神様が許可をすればいいの」
私は瑠璃蜘蛛をきょとんとして見上げる。こんなときに冗談をと思ったが、彼女の表情は真剣そのものだった。
「この神殿では女神の神託が全てだわ。女神様が、夜明け前でもいいからあの人を助けるように望んでいるという神託さえ出せれば、今すぐにでもあの人を助けることができる。いいえ、それだけでないわ。女神が必要だと預言したのであれば、あの人を助けるのに兵士を借り出すことができる。門を開けることも、なんでもできる」
「神がかりになるということですか?」
「ええ」
しかし、瑠璃蜘蛛の表情はすぐに曇った。
「でも、……私は、神託を下したことのない乙女なの。それに、そんな都合のいい神託を下してくれるはずもないし」
「ねえさまが演技をすれば」
私がそういいかけたとき、瑠璃蜘蛛は静かに首を振った。彼女の手がわずかに震えているような気がして、私は顔を上げる。
「いけないわ。それでは、大神官様にばれてしまう」
「どうして?」
「私は、神がかりになったことがないの。だから、どういう感覚なのかわからないの。下手な芝居をうってしまっては、すぐにばれてしまうわ」
瑠璃蜘蛛の顔が、心なしか青ざめていた。
「私は、本当は、巫女としては落第生なの。女神様をおろしたことがないわ」
それは何でもこなせそうな瑠璃蜘蛛には意外な言葉であったが、よく考えると何かと現実的な性格の彼女のこと、そうであってもおかしくなさそうだった。そういえば、夕映えのねえさまは、時折女神様をおろして占いを行ったと私に笑いながら話をしていたものだった。それに、ねえさまは占いが好きで、よく占いをしていたものだ。
しかし、この不安定な旅の中でも、瑠璃蜘蛛が占いに頼っている様子はないし、そういった道具を持っている形跡すらなかった。瑠璃蜘蛛は困惑した様子だったが、やがて首を振った。
「でも、誰かに頼むとしても、そんなことを頼んだところで大神官様たちにばれないはずがないわ。……そうね、私がやらなくちゃ……」
瑠璃蜘蛛は、顔を上げた。
「なんとか、やってみるしかないわね」
瑠璃蜘蛛は、きゅっと唇を引き結んで、祭壇にそっと近寄った。そこにきれいな金属の杯がおかれていて、瑠璃蜘蛛はこっそりと手に取っていた。そこには強い酒が入れてあるようだ。アルコールの香りが鼻を突いた。
「ねえさま、どうするの?」
「お酒で酩酊していれば、少しはそれらしく見えてくれるかもしれない。やってみるわ」
瑠璃蜘蛛はぐっと酒を飲み干す。そんなに強い酒を一気に飲んで大丈夫かと思ったが、瑠璃蜘蛛はくらりとした様子もない。きっと彼女はもともと酒が強いのだろうと思う。
「あら、遅いと思ったら、こんなところにいたのですか?」
不意に、螺旋階段から降りてきた巫女が、怪訝そうに私たちに声をかけてきた。
「もう祭礼の時間ですよ。皆様お待ちです。さあ、あがって舞いを奉納してください」
「ええ、わかったわ」
巫女は、綺麗な一振りの剣を持っていた。どうやら剣舞を舞えということのようだ。瑠璃蜘蛛は剣を恭しい動作で授かると、そのまま両手で掲げた。巫女は先に行っていると、階段を上っていく。瑠璃蜘蛛も後を追ったが、そのときに、彼女はそっと私の耳にささやいたものだった。
「シャシャ、ここで待っていて……。必ず何とかするから」
瑠璃蜘蛛は、そう告げると、巫女のあとを追って階段を上り始めた。私は言われたとおり、そこで彼女の後姿を見送った。
珍しく不安をあらわにした瑠璃蜘蛛の背中を見送ってしまうと、私はぽつんとそこにたたずんでいた。一人そこで残されると、なんだか石作りの塔の冷たさが身にしみるようだった。外からは相変わらず、時々、悲鳴や怒号が聞こえてくる。
瑠璃蜘蛛が去ってからしばらくして、塔の上からかすかに音楽が鳴りはじめていた。その涼やかな高い音色と外から漏れてくる戦闘の気配に、私は急にさびしくなった。たまらなくなって、私は気づくと塔の上を反射的に上り始めた。
螺旋階段をどんどん上っていくと、頂上に出た。円筒形の塔の一番上は、平らで少し広くなっている。そこに数名の巫女たちが楽器を鳴らし、歌を歌っていた。
そして、その中央で三人の女が薄絹を身にまとって舞っているところだった。かがり火の光でようやくかすかに見えるぐらいだったが、彼女たちの色鮮やかな衣装が目についた。
こんな状況でなければ、もっとじっくりと彼女たちの舞踊をみていたかもしれない。めったと見られるものでもないだろうし、遊里にいて、妓女たちの芸事を見慣れている私にもそれはすばらしく、ものめずらしいものとうつっていた。
涼やかな鈴の音が聞こえる。まるで、外での騒乱などないかのような、そこは別世界だった。
そして、踊る三人の女のうち、中央の一人が瑠璃蜘蛛だった。残りの二人が一糸乱れぬ同じ動きをしているのに対し、瑠璃蜘蛛だけが別の動きをしている。
彼女は、鈴の音に合わせてさあっと手を広げ、剣を振りながら踊っていた。私は彼女が舞うのを見るのは、今回が初めてだったのだけれど、瑠璃蜘蛛はほかの二人に比べても動きや所作が綺麗で、ひときわ目をひいた。姿勢といい、動きの切れといい、他のものよりもすばらしく美しい。私は、彼女が舞踊を得意として、それを褒め称えられているというのは、事実なのだと思った。
けれど、踊る瑠璃蜘蛛は何か怖い感じがした。彼女は動きが綺麗だったけれど、まるで何かに取り憑かれるように一心不乱に踊っているような様子で、他の巫女たちとは明らかに印象が違ったのだ。
瑠璃蜘蛛は、元から感情表現の苦手なひとだった。
歌を歌っているときも、話しているときも、同僚の乙女たちや殿様に対してでさえ、感情をあらわにすることはほとんどなかった。彼女は泣くことも怒ることもなかったけれど、年頃の娘のように思い切り笑うこともほとんどなかったのだ。けれど、彼女の踊りには、彼女の声色にはない情念のようなものが感じられた。私は瑠璃蜘蛛の感情を、そこで初めて強く感じていた。
怒り、悲しみ、戸惑い、焦り、恐怖、自己嫌悪。
瑠璃蜘蛛は、殿様を助けられない自分に対して、いらだっているのだろうかと思った。彼女の舞踊はしなやかで艶やかなのに、なぜかそんな彼女の叫びのようなものが感じられて、私はとても怖かったのだ。
どれくらいそうしていただろうか。
ふいに、外で叫び声があがった。外の物音はかすかにここでも響いていたのだ。外ではまだ戦闘が続いているという現実に引き戻された私は、ふと殿様が心配になってきた。
それなのに、瑠璃蜘蛛も他の巫女達も、まるでその声が聞こえていないかのようだった。
瑠璃蜘蛛は、まだ神がかりの演技をしてくれないのだろうか。殿様は、まだ持ちこたえているだろうか。
私は一人はらはらしていて気が気でなかったけれど、瑠璃蜘蛛は、いつまで経っても、決められたとおりの精密な所作で舞踏するばかりだった。そんな瑠璃蜘蛛の姿をみやりつつ、私はここに自分がいても仕方がないのだと考えて、塔を降りることにした。
ふいに顔を上げると、いつの間にか東の空が少し白みかけていた。そろそろ門が開くのではないか、私はそう思ったが、まだ門番は門を開けてはくれないらしく、鶏の鳴く声も聞こえなかった。
私はいつの間にか階段を下りて、祭壇の前に戻ってきていた。相変わらず、その付近には、人の気配はなかった。
急に外が静かになっていて、私は窓からそっと顔を覗かせてみた。
いつの間にか、篝火がほとんど倒されていた。石畳の床で、炭になったそれらがくすぶっている。殿様の仕業だろうか。一人で戦う彼は、自分の姿を見せないほうが有利だろう。彼ならそれぐらいのことはやるだろう。闇に乗じて相手を撹乱しながら戦っていたのだと、私は思った。
大神殿の屋上は、かなり広かった。明るくなってきてはじめて気づいたけれど、屋上には緑が植えられている場所もあり、そこや渡り廊下を含めて有効利用すれば、殿様が逃げ延びることもできなくはなさそうだった。
けれど、私の視界には殿様の姿が見えなかった。どこにいるのだろう?
そんなことを考えていると、いきなり、どがっと何かが隣の横の壁にぶち当たったようで、私はびくりとして思わず悲鳴を上げた。それを聞きつけたのか、壁に激突したものがふとこちらを見た。
「なんだ、お前か」
その声で、私は彼が誰だかすぐにわかった。
「殿様!」
殿様はすでに肩で息をしていた。暗くて顔色はわからないが、かなりきついようだ。
「まったく、お前……、のぞくなって言ってるのに」
殿様は息を切らしながらため息をついた。
「大丈夫ですか?」
「へへ、月並みなこときくなよな。あんまり大丈夫じゃねえよ」
殿様は、小刻みに呼吸して、息を整えながら言った。
「暗がりに身を隠しつつ、逃げながら戦ってきたけど、そろそろ明るくなってきやがってよ。俺の作戦台無しになっちまうし、打つ手がなくなってきたし。それに」
殿様は、ひざに左手を置いた。とまっているのに、かすかに殿様の体が揺れていると思っていた。けれど、すでに膝が笑っている状態だったのだ。
「駄目だな。体がなまりきってやがる。そろそろ足腰立たなくなりそうだぜ」
殿様は、にやりとして、地面に向けた剣を軽く振る。
「前はこれぐらいなんでもなかったのに。……へへへ、遊んでた罰だな」
私が不安そうな顔をしたのがわかったのか、殿様は、自嘲的に笑った。
「馬鹿だな。縁起でもねえから、そんな顔するな。いくらなんでもまだもうちょっとは、死なねえよ。あんだけ大見得切ってやったんだ。そんななさけねえ死に方できないよな。死ぬ時はもっとソーゼツに死んでやるぜ!」
殿様は、大きくため息をついて、呼吸を戻すと、再び前傾姿勢をとった。殿様は、思えばここに休憩しに逃げてきたのだろうか。
刺客の数は減っている気がした。倒れているものもいれば、逃げ帰ったものもいるらしい。だが、まだ殿様を諦めてはいないのだ。彼を追いかけてきたらしい刺客が、殿様を見つけて声を上げた。仲間を呼んだ彼は、剣を構えてこちらに切りかかってくる。
「いいか。危ないから顔出すんじゃねえぞ」
殿様はそういい置くと、壁を蹴って刺客の突進を避け、さっと反転して攻勢にかかった。
白みかけてきた空に殿様を取り囲む男たちが、ちらほら見えてきていた。見えるだけでも十人はいるようだ。おそらく、私の目に見えていないものもいるだろうし、追いかけられてきたときの松明の数からしてもっといたのだろう。最初から二十人はいたはずだ。
自分で言っていたとおり、空が明るくなれば、暗がりに身を隠して一人ずつ相手にしてきた殿様の作戦は使えなくなる。それに、神殿の兵士たちがどれほど協力的なのかわからない。彼等が侵入者の排除に乗り出したとき、殿様がまだ刺客と戦う余裕をもっていればいいのだが。もし、身動きできなくて、そのまま拉致されてしまえば、どちらにしても殿様は殺される。
うまく相手を分散させながら、背後を見せずに戦っている殿様は、随分健闘しているようだったけれど、その様子をみるのは、はらはらして気が気でなかった。
瑠璃蜘蛛の言うとおり、殿様だって、もう限界に近いはずなのだ。その動きが徐々に鈍っているのは、私にもわかっていた。もうずっと殿様は戦い続けているのだから。そして、少しずつ敵が殿様の方に近寄ってきている気がした。さすがの彼も複数の人間に一度に取り囲まれたら、どうしようもなくなる。どうしよう。どうすればいいだろう。
と、上のほうから笑い声が聞こえた。あはははは、という楽しげな女の笑い声だった。塔の上? 瑠璃蜘蛛たちがいるはずの?
私が上を気にしたとき、もう一度女の楽しそうな明るい笑い声が降ってきた。どうして笑い声なんか。なんだか、場違いすぎて気持ちが悪くなるほど、それは楽しそうな声だった。
いったいどうしたのだろう。瑠璃蜘蛛たちに何かあったのだろうか。そんな風に私が思ったとき。
そのとき、不意に殿様の悲鳴が聞こえた。
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