九日目:和解-2


 満月の夜。

 月明かりだけの荒地をひたすら飛ばすと、殿様の言うとおり岩場に出た。

 その一角の一目につかないところを陣取り、殿様は馬車を岩の裏に隠して、馬をその傍につないでおいた。襲われた時に、馬で逃げられるようにと考えたもののようだ。

 さすがに夜は冷えてきた。

 寒々とした空の下、月だけがやけに明るい。殿様は、明るい月の光が砂漠をくまなく照らすのをみて、身を隠すにはもっと暗いほうがいいとぼやいていた。

「雲があればよかったんだけどな」

 あいにくと、今日は雲ひとつない。

 煙を見られれば、どこに潜んでいるか遠くからわかってしまう。本当はあまり火をつけないほうがよかったが、獣を避けるのと暖をとるのとの両方で、殿様は、結局火をおこして焚き火をすることにした。

 焚き火を囲んで、私たちは、神殿への最後の夜をすごしていた。瑠璃蜘蛛は、今日も薪を集めたり、火を起こしている間に、あの故郷の歌を口ずさんでいた。

 そのことを思い出したのか、焚き火の揺れるのを見つめていた殿様が、何気なく彼女にきいた。 

「ねえさんは、そういえば山の出身だといったね?」

 瑠璃蜘蛛は、顔をあげてうなずく。

「ええ。七つまでは山にいたわ。牧畜をしていてね、干草を運んだりして貧しかったけれど、それなりに楽しかったわ。兄弟もたくさんいたし」

「そうか。俺は山では生活したことないけど、そういう生活もよさそうだね」

 殿様が、興味深げにうなずいたとき、瑠璃蜘蛛は、ほんの少し顔を翳らせた。

「ええ。とてもいい生活だったわ。でも、私は一番上だったし、女の子だったから、口減らしのためにも、生活のためにも、あそこにはいられなかったのね。それで、神殿に売られてきたのよ」

「神殿に?」

 殿様が少し驚いた様子になった。殿様は、乙女がどうやって育成されるのかを知らないのだろう。 

「妓楼に売られてきた女の子の中から、素養がありそうな子を神殿に送り込むの。それで、子供のころから神殿で作法やお勉強を叩き込んで、年頃になったらまた妓楼に戻るのよ。でも、私は幸せだと思っているの。他の女の子たちは、もっと過酷だもの。私は乙女の候補に選んでもらったから、お勉強もさせてもらえたし、無理にお客を取らされることもなかったわ。それは、私のような境遇のものではとても贅沢なお話なの」

 瑠璃蜘蛛は、焚き火を見つめながらそういった。

「でも、家族とはもう連絡が取れないし、私も家までの道を思い出せそうにないわ。風の噂では、離散してしまったというし、多分家の外観も残っていないでしょうけれどね」

「そ、そうか。つまらないことをきいてしまったね」

 殿様は気をつかってそういう。

「いいのよ。仕方ないことだもの。さっきも言ったとおり、私は贅沢な身分なのだから、これ以上望むわけにはいかないわ。……でも」

 と、瑠璃蜘蛛は、星空を見る。今日は月の光も明るいが、星も意外によく見えていた。天の川が横たわり、きらきら瞬いている。

「お山では、星も月もとても綺麗に見えるのよ。ここの空もとても綺麗」

 瑠璃蜘蛛がわずかに嘆息をついたのがわかる。

「華やかな楼閣からは、四角い窓に区切られた星空しか見えないわ。それがとても寂しい。できることなら、自由にきれいに星空を見たり、いろんな街をみてみたいけれど……。それは、無理ね」

「でも、年季が明けたら、自由になれるんじゃないのかい? そうしたら、きっと……」

 そういう殿様に、彼女は首を振る。

「乙女はね、年季があけるころと必ず結婚をするの。神の払い下げ品ということになるから、引く手あまただけれど、望んだ結婚ができるのはごく一部の運のいい人だけよ。貴族やお金持ちと結婚するのが一般的で、複数の貰い手がある場合は、その誰かにくじ引きでもらわれていくことも多くあるわ。そして、そのまま家庭に入ってしまうでしょうね。もし、自由になるとしたら、婚約が破談になってしまった時だけよ」

「そうなんだ」

 殿様の声が少し沈んだ。

「けれどね、それを幸せじゃないというのも、贅沢なお話よ。だから、私は姐さんたちに変わった女だっていわれてしまうんでしょう」

 瑠璃蜘蛛は、空を見上げた。

「だから、もしかしたらこんな風に自由にお星様を見るのは、これが最後なのかもしれないわね」

「そ、そっか……」

 殿様は、ため息をついた。瑠璃蜘蛛は、ゆったりと微笑む。

「けれど、私、貴方には感謝しているの」

「へっ?」

 目を伏せていた殿様は、急にそういわれて、驚いたように顔を上げた。瑠璃蜘蛛の口調が珍しく楽しそうだったからだ。ちょうど瑠璃蜘蛛の視線とぶつかり、殿様は妙にどぎまぎした様子になる。

「実はね、この旅はとても楽しかったのよ。一人で街を自由に歩くのも、こうやってお星様を見るのも、随分久しぶりだったから。本隊と一緒に聖地巡礼を果たしていたら、こんなことはなかったわね。それに、貴方を巻き込んでしまったのは、申し訳なかったけれど」

「いや、俺は……別に……」

 殿様は、しどろもどろになっていた。

「俺のほうが巻き込んだみたいなものだから……」

 そういう殿様に、瑠璃蜘蛛は首を振って笑いかける。

「でも、貴方、一緒に着いてきてくれたわ」

 殿様は、瑠璃蜘蛛の顔を直視できないようで、不自然に目をそらしていた。

「私とシャシャだけなら、とても危ない旅になっていたもの。本隊に追いつくことも出来そうにないし、かといって二人なら北路を突き進むことも出来なかった。街を満喫できたのも、あなたのおかげね。あなたが来てくれなければ、北路を行こうなんて思わなかったもの。多分、お叱りを覚悟で、そのまま王都に帰るしかなかったわ」

 瑠璃蜘蛛は、優しく微笑んだ。

「ごめんなさいね。私のわがままにあなたみたいな高貴な人をつきあわせてしまって……」

 高貴、という言葉にひっかかったのか、殿様は、口の中でそう呟く。

「そんなことに引け目を感じることはないよ。そもそも、俺は、そんな大した身分の人間じゃないんだ」

 いきなり殿様がそんなことを言い出したので、私はきょとんと彼を見上げた。

「俺はね、元々は小さな町で物乞い同然の暮らしをしていたものだったよ。親の顔も知らないし、毎日、腹を減らしていたけど、周りの大人もそこそこはかわいがってくれたし、まあ、生きていけていた。路地裏の小さな王様だとか呼ばれてさ。それがそこでの俺の名前だったんだよ」

 それは本当に意外な話で、私は殿様の顔を見上げていた。殿様は苦笑するような顔で話を続ける。嘘を言っている様子はなかった。

「でも、そのうち、えらい人が王都からやってきて、お前は何やらの子供だっていわれてさ、王都にひっぱっていかれたんだ。実際そうなのかどうかはわからない。王族の連中には、どこの馬の骨かわからないって、いつも血筋を疑われているよ。俺だってどうかわからない。なにせ、親の顔を覚えていないからさ」

 殿様は続ける。

「けれど、最初はうれしかったかな。王都の貴族の生活は華やかに見えたし、新しい名前ももらった。そして、きれいな継母たちが俺をかわいがってくれてね。俺は両親の顔を見たことがなかったから、特に母親ができたのは、とてもうれしかった。で、ある日、その継母が別れ際に菓子をくれたのさ」

 殿様は自嘲的にいったが、目が暗く沈んでいた。

「その菓子を食った後、盛大に泡吹いて倒れてよ、その後、二、三日生死の境をさまよったんだ。俺はそのとき、初めて、あれがどういうところで、あいつらがどういう人間なのかを理解した。それっきり、俺は連中が大嫌いになってね、あいつら、平気で人を騙すし、人を踏みつけながら楽しそうに笑うのさ。あいつらにとっちゃ、下の人の命なんて大した価値もない。俺はあそこにいるのが苦痛でならなかった。餓鬼の頃から戦場に出されたのは、それはそれで怖くて仕方なかったけれど、王都の貴族連中の中に放り込まれるよりはよっぽどましだった」

 殿様は、ため息をつく。

「でも、俺もそのうち気づいてしまったんだ。俺にも、そういう一面があるってことをさ。俺にも、やつらと同じ残酷な一面があるということを」

 殿様は、目を伏せた。

「……おかしいだろう。隠し子だといわれてもぴんとこないのに、そんなところで、連中と同じ血が流れていることを気づかされてしまうなんて。目の前で戦争好きのあいつらと同類の敵が死んだときに、俺はそうはっきりと気づいて、不安でならなくなった。そうだよ、俺も連中と一緒で、戦闘を楽しんでいたのさ。そういう野蛮な人間なんだよ」

 瑠璃蜘蛛は何もいわずに、彼を見つめていた。

「俺は、あの時命に関わる怪我をして、痛みを隠すのにひっそりと酒びたりになってた。俺に酒や薬を届けてくれたのは、同じ年ぐらいの女の子でね。俺は彼女が好きだった」

 殿様は、深刻な顔をしていた。

「酒を飲んでいることは、周りには秘密だった。そうでないと、本当は俺が臆病なことが、周囲にばれてしまう。そんな時に、俺は自分の冷酷な一面に気づいてしまったんだ。――本当は、とても暴力的な男だってことを。彼女は、そんな俺を受け止めることができるようなコじゃなかったよ。彼女は、俺が荒れていくのを知っていても、俺が酒を飲むのを止められるような強い子じゃなかったから。でも、最初は強気だった彼女が、次第に俺を怖がっているのが、段々わかってきた。そんなある日、俺は、好きだった女の子をたのしそうに絞め殺す夢を見た」

 殿様の顔が、少し青褪めて見えた。

「俺は自分が怖くなっていた。それなのに、皆はそんな俺には気づかなかった。俺も必死で何もなかったふりをしてた。でも、そんな俺を見て、周りは俺に過剰な期待を寄せてくる。もっと偉くなれってさ。えらくなったら、俺が何しても止めてくれる人間がいなくなるのにさ。でも、それでも、俺は自分のそんな一面を悟られるのが怖かった。軽蔑されるだろうし、期待を裏切ってしまうだろうから。俺はその後も、必死で演技をし続けた」

 殿様は、ため息をついた。

「だからこそ、俺は彼女に傍にいてほしかった。彼女を殺す怖ろしい夢を見た後も、自分がそんな人間でないと確認する為にも、彼女と一緒にいたかった。けれど、彼女はそんな俺と一緒にいられるような、強い人間じゃなかったんだ」

 殿様は、虚ろな視線を炎に投げた。

「そんな俺の本性に、当のその子だけが気づいて、俺を怖いといって逃げていったよ」

 ぱちぱちと炎がはじける。殿様は、青い顔をしたまま、続けていた。

「そのとき、俺はもういいやと思ったんだ。どうせ隠しても、いつかわかるぐらいなら、いっそ……。いや、そんなにはっきりとした動機じゃないな。酒飲んでふらふらの時に、いきなり抑えていた感情が爆発した。でも、誰も止めてくれなかったよ。皆、俺の気分を損ねないように扱って、やりたい放題させてくれた。俺も知らなかったけど、いつの間にか、俺にもそんな権力がついてきていたんだな。誰も逆らうものはいなかったよ」

 殿様は笑ったようだったが、その声は苦しげだった。

「本当は、その時、俺は止めて欲しかったのかな? って考えることがある。誰かが止めてくれていたら、俺はあそこで立ち直れただろうかって」

「そうだったの」

 瑠璃蜘蛛の声に殿様はふと我にかえったようだった。いつの間にか身の上話をしていたのを気づいた殿様は、少し気まずそうに首を振った。

「あ、ああ、ごめんよ。こんなつまらない話しちまって」

「いいえ」

 瑠璃蜘蛛は、首を振り、少し考えていたようだったが、ふと思い立ったように口を開いた。

「今、貴方は、本当に助かってよかったと思ってくれているかしら?」

「え?」

 いきなりの言葉に、殿様の方がきょとんとしていた。

 瑠璃蜘蛛は、殿様を見やる。

「あのね、貴方が毒で倒れて、私が吐かせた時に、貴方、もう苦しいのは嫌だ、どうせ死ぬならほうっておいてくれ、って何度も言っていたのを思い出していたの。それを無理に私が助けてしまったのは、本当にあなたにとってよかったかしらって、少し悩んでいたの。私は、貴方に死んで欲しくなかったから、でもね……」

 瑠璃蜘蛛が、そっと口元に手をやりつつ目を伏せる。

 自信なさげな瑠璃蜘蛛の言葉に、殿様は焚き火の燃え残りの枯れ枝を手にとって、折りながら苦笑した。

「そんな情けないこともいってたんだな」

「貴方は、だって聞けば聞くほど苦しそうなことばかりなのだもの。てっきり、紅楼で誰かが待っていてくれていると思っていたけれど、そうでもなくって、今聞いてもとても辛いことばかり。それなのに、私は貴方を助けたわ。でも、あの時貴方を助けたのは、私の自己満足ではないのかしら……って、少し考えていたのよ。だって、生きていても辛いことしかないって、貴方が思っているのなら、私、貴方を地獄に戻しただけのことだもの」

 瑠璃蜘蛛は、珍しく消沈した様子になっていた。

「貴方の気持ちを、私は無視してしまっていないかしら。貴方は、それでよかったと思ってくれているのかしら」

 乙女としての誇りに満ちている瑠璃蜘蛛の弱気な発言をきくのは初めてで、私も意外な感じがした。殿様の返答は、優しかった。

「ねえさんの自己満足だなんて、そんなことないよ。あの時の俺は、単に嫌なことから逃げたかっただけだから。どうせ死ぬならもっと楽に死にたいから、わざわざ苦しい思いをさせないでくれと思っていただけさ。助かるとは思ってなかったしね」

 殿様は、うつむいて言った。

「でも、俺が、ねえさんに助かって感謝しているっていったのは、本当のことだよ。そりゃあ、俺だって、まだわからないんだ、これからどうなるか。もしかしたら、また前みたいに酒びたりになるかもしれないし、完全に抜け出せる自信はないけど」

 殿様は、枝を火にくべながら笑う。

「もし、これでねえさんたちを神殿に連れて行くことができたとしたら、もしかしたら何か変わるんじゃないかなって……ね。あれからの俺はなにひとつ達成できない本当に半端な奴だったけど、もしかしたら、後一つぐらい格好つけられるんじゃないかって……」

 殿様は、照れたように言った。

「こういう気分になったのは本当に久しぶりなんだ。少しの間だけかもしれないけど、こんな風に感じられるようになっただけでも、助かった価値があるって、今はそう思っているんだけどね、俺は」

 殿様は苦笑した。

「なんだろうな、ねえさんは、不思議な人だね。悪い意味で言うんじゃないんだけど、一緒いて落ち着くとか安心するとか、そういうのでないんだよ。でも、話をしやすいというか、いろいろ素直に話してしまう。ねえさんは、その、俺の与太話もまじめに聞いてくれるから」

 殿様のいうことはわかったような気がする。

 瑠璃蜘蛛は、母性的な包容力に満ち溢れたような人ではない。もっと乾いた印象のひとで、冷たいけれど親切で、慣れてくると妙に居心地がよかった。優しく抱きしめてくれるわけでもなくて、けれど突き放すわけでもない。受け入れてはくれるけれど、手放しに甘い顔をしてくれる感じではなかった。それでも、何事にも動じずにいつでもそばにいてくれる彼女は、一緒に居て妙な安定感のある人だと思う。

 私にとっては姉のような存在だったけれど、殿様にしてみればどうなのだろう。と私はそのとき考えていた。

 意外に、同年代の友人のような感じなのかもしれない。

 瑠璃蜘蛛は、へりくだったりしないし、殿様と対等の立場で話をする。けれど、そこに傲慢さや嫌味や生意気さはなくて、自然な感じであるし、別に相手に敬意を払っていないわけでもない。ただ、彼女は殿様の身分を気にかけていないだけだ。殿様には、それがかえって心地いいのかもしれない。何のしがらみもなく、ただ一人の人間として見てくれるのだから。

 彼女は不思議なひとだと思う。

 表情も態度も鉱石のように無機質で綺麗で冷たくて近寄りがたくて、けれど不思議にかわいらしさもあたたかみもある。

 本当に、ふしぎなひとだ。

 部屋の隅でふと目が合う小さな蜘蛛だってそうだ。いつの間にかそこにいて、厄介な巣をはって、不気味で嫌なものと思われながらも、それ単体では何故かかわいらしげな気さえして、時に光にきらめく巣の美しさに酔いしれる……。

 今の私には、彼女が瑠璃蜘蛛と名をつけられたのも、なんとなくわかる気がしていた。

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