第四話 有馬

 シャワーヘッドから放出された湯が湯船の壁に当たって大きな音が鳴る。水嵩が増すにつれて音は高く小さくなっていく。やがてシャワーヘッドは沈んだ。ケーキの土台を焼いているときはこんな気分なのかもしれないと考えた。デコレーションはもうちょっと後だ。しばらく眺めてから部屋に戻った。

 立ったままスマートフォンを拾い上げて、鼻歌を歌い出すくらい上機嫌に通知を確認すると、タイミング良く電話がかかってきた。やはり倉田からだった。

「もしもし」

「もしもし八木さん、昨日はどうも」

 良い知らせだ、と直感で気づく。声にもスマートフォン越しに伝わってくる向こうの雰囲気にも深刻さは感じられない。どことなく弛緩している。

「電話、風呂が湧くまでの間だけな」

「了解っス」

「彼女とはどうなった」

「それが、仲直りしたんスよ」

「良かったじゃないか、お前」

「はい。しかも八木さんのおかげなんスよ」

 話が長くなりそうなのでソファーに腰掛けた。一件落着か、と自分のことのように安堵した。目下懸案事項はなくなったわけだ。

「入浴剤か」

「その通り。アレ風呂に入れたら彼女機嫌直してくれて。すっげーいい匂いするんスね」

「当然だろう。高級品だ」

「最近ずっとシャワーして終わりでしたけど、ちゃんと風呂入るのはいいもんだなと思いました。よく眠れました」

「ああ。風呂はイイ、本当にイイ」

 自分が良いと思っているものの良さを他人も理解してくれるのは心のどこかを潤してくれる。俺自身が認められたかのような気分になる。

「八木さんはどうっスか、最近。なんか今日は声が明るそうですけど」

 他人に指摘されるということは、態度に出ていたのだ。よほど機嫌が良いのだろうと自分のことながら思った。

「実は俺も今日あれから良いことがあったんだ」

「マジっスか」

 

 そうなのだ。今日は恐る恐る仕事に行って、不安を背に乗せたまま花に水をかけ、プランターを並べた。常連の老婆たちといつものように世間話をしたときも顔を引きつらせたままだったはずだ。トイレの鏡に映った作業着が何だか頼りなく見えた。もう少ししたら軍手を買わなければならないが、もし必要がなかったらどうしようかなどといちいち不安になった。外気はまた一段階温度が下がったようで、時間が出来る度に何度も手を揉んだ。ずっと心細かった。

 そんな中、帰り際に突然主任に呼び留められ、次のようなやりとりをした。

「お疲れ様」

「お疲れ様です」

 挨拶しながら肝が冷えた。急に嫌な汗が出た。鼓動が激しくなって視界が揺れるほどであった。

「八木さん、入ってもうすぐ一年だよね?」

「はい。確か、今月でちょうど一年だと思います」

「そうですよね。それでね、先に言っておきますが、来月から君の時給上がりますよ」

 主任は目尻と口角を一本の曲線で結ぶような、独特のにやけ顔をしてみせた。したり顔と言った方が正確かもしれない。

 俺は大変驚いた。最近様子がおかしかったのはこのためであったなんて。意図していなかっただろうが、何というサプライズだろう。俺は何度も瞬きをした。帰り道ずっと落ち着かなかった。覚束ない足取りでドラッグストアに入り、入浴剤を一箱買ってきたのだ。


「へえ、良かったじゃないですか」

「人生ときどき良いことがある」

「それで、今日も風呂に入浴剤入れるんスか?」

「当然だ。今日は有馬の湯だ」

 俺は鼻の頭を掻いた。何だか照れくさい。一度掻くと、不思議と色々な場所が痒くなってきて、頭皮もこめかみも腕も掻きむしった。

「有馬かあ。何色っスか?」

「濁った橙色だ。そうだお前、有馬の湯言葉を知っているか?」

「湯言葉なんてあるんスか? 初めて聞いたっスよ」

「今考えた」

「じゃあ、有馬の湯言葉は?」

「『祝福』だ」

「祝福ねえ」

「今考えた」

 そう言いながら立ち上がって、風呂へ向かった。湯量を確かめたら、まだ時間に余裕がありそうだったので俺は大げさに微笑んだ。

「とにかく、今回は世話になったんで、今度メシでもおごりますよ」

「焼き鳥が食いたい。飲もう」

「もちろんっス。飲み明かしましょう」

 どこの居酒屋にしようかと、想像の内で一軒一軒味を確認しながら考えた。ふと、不自然に間が空いてしまったことに気づいて、慌てて話題を繋いだ。

「そういえば、俺は今度観葉植物を買うことにしたんだ」

「観葉植物ってサボテンとか?」

「ああ。癒やされたい」

「相変わらず女の子みたいな趣味してますね」

「何とでも言うが良い。全ては風呂の効能だ」


 電話を終えて、スマートフォンを静かにテーブルに置き、服を脱いで支度をする。右下にわざと小さな字で有馬と印刷された袋の封を切って、上を横切るような手つきで場所をずらしながらすばやく中身を湯に落とす。入った直後の入浴剤はかなり派手なオレンジ色で、子どもの頃に見た、手持ちの花火を彷彿とした。あれはこんな風に細長く綺麗な火花を噴き出していた。色が均一になるまでシャワーヘッドでよくかき混ぜて、足の先から湯に入ればもう俺だけの世界だ。

 心拍数が上がる。顔の表面に血液が集まってくる。腕と脚が重力と普段の役割から解放される。温かさが徐々に身体の内側に浸透していく。水が揺蕩う音の他に何も聞こえない。情報からも社会からも切り離される。

 しばらくは安定した生活を送れる。何の心配もない。その上収入が増えるから、今より少しだけ贅沢が出来る。机におけるサボテンと通販の枕は確定として、次は何を買おうか。思いつかない。欲しいものを探してみよう。この宿題は嬉しい悩みだ。

 腰をずらして、足を湯船の外に出して壁に付け、高い位置に持っていくと、爪先から血液が一日の疲れごと降りてくる。後頭部近くまで湯に浸かる。頭の後ろが温められて、この瞬間でないと味わえない不思議な安心感を堪能できる。柑橘系の匂いが鼻に入ってくる。欠伸が出た。最高に快い。

 幸せな気持ちを失わずに生きていきたいと思った。遠くない未来にこの高揚感は失われてしまうのだろうけれども、できることなら、覚えておきたい。そよ風のような幸せが、結局は最大の幸福なのだ。 最大の幸福の中にあって思うことは、いつの日も、せめて入浴時だけは幸せでいようという、自分自身への誓いであった。

<了>

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風呂はイイ、本当にイイ 文野麗 @lei_fumi_zb8

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