第三話 別府
意識が戻ると同時に聞こえたのは倉田の寝息だった。全く、人の家だというのによく眠る。俺はとてもじゃないがソファでなど眠れない。うらやましい気さえする。
外はもう明るい。部屋が朝の顔になっている。記憶が断絶して、昨日のことが遙か遠くに思えるから、一応は眠れたのだろう。何があったかだんだんと思い出してきた。不安も一緒に。
身体がどこかすっきりしないのを感じた。昨日急いで入浴を済ませたからだろう。俺の身体は満足していないのだ。時計を見ると七時前だった。仕事は十時からだから、若干の余裕はある。
決めた。朝風呂だ。
寝ている倉田を起こさないようにそっと移動して、湯を溜め、風呂場に入った。
朝の身体はまだ起ききっていなくて固い。湯に浸かっても動きがぎこちなかった。夜ほどは四肢の力が抜けない。温まり方も順調でない。それでも入浴剤入りの湯は最高だ。今回は別府の湯だ。紫色で、ラベンダーの匂いがついている。垢抜けた雰囲気だ。だんだんと思考がリラックスしてくる。固く角張った考えが湿って柔らかくなっていくのを覚えた。
冷静に考えてみれば、アルバイト先などどこでもいいのだ。たとえあのホームセンターを解雇されたとしても、他にいくらでも働き口はある。また少々は貯金もある。それほどのひどいことにはならないだろう。
もし新しいアルバイトを探すとしたら、時給の良い仕事にしよう。そうしたら給料がたくさん入ってきて、暮らしが豊かになる。暮らしが豊かになるのは精神の満足に直結している。生活費は今のままとして、余った金は何に使おうか。身体を揺らして温かさを味わいながら欲しいものを考えてみた。頭に浮かんだのは観葉植物だった。机の上に置ける小さなサボテンを買ってきて、毎日世話を焼くのはどうだろうか。かなり良いアイデアだ。植物は俺の心を癒やすに違いない。ふとしたときに生き物が目に入るのは素晴らしい。きっといつも生きる力をもらえることだろう。観葉植物を買ったら次は何を買おうか。そうだ。枕だ。たまに通販番組で大変寝心地の良さそうな枕が紹介されていて、ああいったものがあればどれほど快適だろうと常々考えていた。高級な枕を買おう。毎晩寝るのが楽しみになるかと思うと今から胸が高鳴る。いいじゃないか、新しい職探し。今まで得られなかった物を得ることができる。前向きな捉え方はいくらでもあるのだ。
軽やかな気持ちで風呂を出た。風呂場の外は少し寒かった。
いつのまにか倉田は起きていた。やはりテレビがついていた。彼は右手にテレビのリモコンを持っている。俺に気を遣ったのか、音量はごく小さい。
「はよざっす」
「おはよ」
「朝風呂っスか」
「お前も入るか?」
「いや俺はいいっス」
倉田は使っていた毛布で足を包みなおした。
「そうか。それでお前、これからどうするつもりだ」
「まあぼちぼち行きますよ。適当にぶらついて帰ります」
「そうか」
俺は朝刊を取ってきて、テーブルの上に置いた。そして米びつの上の食パンを手に取り、倉田に見せて確認する。
「パン食うか?」
「いいんスか? あざっス」
「何枚?」
「二枚で」
「分かった」
オーブントースターに二枚並べてタイマーを回した。冷蔵庫からハムを取り出して、レンジで温める。朝の匂いが部屋に充満する。この匂いを嗅ぐと、ああ今日も仕事だと、憂鬱なような、気合いが入るような、忙しない気分になる。普段ならさほど意識しないが、今日は他の人間がいるために、仕事の緊張感が浮き彫りになった。独特の寂しさが鼻に触れる。まるで遊びに来ていた友だちが帰った後一人過ごすような感覚だ。名残惜しい。
ハムとレタスを挟んだ食パンを二人で囓りながら、テレビを眺めて勝手な感想を言い合った。
「この女優またドラマの主役らしいっスね」
「人気があるんじゃないのか? そこそこ美人だ。華がある」
「売り出し中なんでしょうけれど、こういつもいつも出ていると飽きられるんスよ。プロデュース方法間違えてるっつうか」
そう言いながら倉田は食パンに齧り付いた。もしかしたらかなり空腹だったのかもしれない。
「お前のバンドは飽きられる心配はないのか?」
「まあ大丈夫でしょう」
俺は呆れながら昨日の味噌汁をすすった。出汁が染みこんで、昨日より味が良くなっている。
「あと、このアイドル、表情は様になってきたけどコメントに伸びしろ有りって感じっス」
「コメントがいまいちということか」
「そういうこと。俺らの方がよっぽどまともなこと言えますよ」
「まあそのくらい自信があった方がいい」
そう言って、味噌汁を飲み干し、切り出した。
「お前、この後帰るんだろう?」
「はい」
「そうしたら、いいものをやるから、お前の彼女に渡して詫びるんだな」
「え、なんスか、なにくれるんですか?」
俺は立ち上がって、戸棚から入浴剤の箱を取り出した。とっておきの品だ。
もったいぶった雰囲気の白い箱を開けてみせると倉田は感心したようだった。色分けされた袋に筆書き風の書体で説明書きが印刷してある。
「いっぱい入ってますね」
「どこの温泉の素がいい?」
「箱根がいいっス」
俺は横を向いて倉田の顔を見た。
「お前、よりによってないやつを言うな」
「え、箱根ないんスか」
「もう使ってしまった。……これはどうだ? 湯布院。ピンクで、バラの匂いがする」
取り出して見せ、倉田の両手の上に載せてやった。
「バラかあ。いいっスね。じゃあこれいただきます。あざっス。何から何まで、もう迷惑ばっかかけたのに、入浴剤までもらっちまって礼の言い様がないっス。まじ恩に着ます」
倉田は入浴剤のパックを掲げたまま何度も会釈をした。俺に礼を言っているのか入浴剤に挨拶しているのか分からない。
「まあそうかしこまるな。明日の夜化けて礼をしにこなくていいからな」
「いや俺鶴じゃねえんで」
「違ったか。意外だった。ほら、もう一つやる」
なんだかんだ言いながら、倉田がやってきて、俺は機嫌が良くなったのかもしれない。彼がやってきたのはちょっとした非日常だった。いつもなら一人きりの夜を誰かと過ごしたから、若干心の隙間が満たされたのだ。誰もいないよりは誰かいた方がずっといい。今夜はまた一人きりになる。またすぐに誰か友人と会いたい。
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