第二話 草津
「何で俺が風呂に入っているとき電話掛けてくるんだ」
「んなこと言ってる場合じゃないんスよ!」
「俺の風呂より大事な用なんてあるか!」
「ありますよ! 俺彼女に部屋追い出されちまったんスよ!」
「そうか大変だな」
「大変だなじゃないっスよ。行くとこねえんで泊めてください」
「図々しい。外で寝ろ」
「無理に決まってますよ。もうだいぶ寒いんですよ。震えてますよ俺ァ。凍えちまう」
「凍えればいいじゃないか」
「嫌っス。耐えられねえっス」
「秋の終わりに恋人と喧嘩して行く当てもなく寒さに凍える、絵になる体験じゃないか。曲にしろ」
「実体験なんか冗談じゃねえ。ちょっと八木さーん、頼みますよ。部屋入れてくださいよ。ソファーで寝さしてくれりゃ頭下げますから。迷惑かけねえっス」
「……二十分後に来い」
「二十分後ですね。あざっス。恩に着ます」
俺は口の中で嘆きながら風呂場に戻った。手のかかる後輩を持ったものだ。緑色の湯は冷めて台無しになっていた。浸かることもなく流して、シャワーを浴び、身体を洗った。
身支度を整え、部屋を軽く片付けるとインターフォンが鳴った。
「こんばんは。世話になります」
「まあ上がれ」
「あざっス。ウィッス」
礼を述べながらも倉田は浮かない顔をしていた。普段はよく手入れされている自慢の金茶の髪すらしょげかえって見えた。眼差しは下向きで、肩はしぼんでいる。だらしなく足を擦って歩いていた。
「まあ座れよ」
「はい」
「柿の種があったと思うから取ってくる。まあそんなに落ち込むな、起きたことを悔やんでも仕方ない」
「酒ありますか?」
「少しならな」
柿の種と発泡酒をテーブルに並べた。周りがよく見えないと思ったら眼鏡を掛けていなかった。眼鏡を見つけて掴んだところで倉田が目を伏せたまま声を発した。
「ちょっとテレビ付けていいっスか?」
「構わん」
真っ先に画面に映ったのはCMだった。二つ流れたが、どちらも見覚えがない。
「今はこんなCMが流れているのか」
「やだな、テレビ見てないんスか」
「テレビなんか付けていたら筆が捗らないんだ」
「大変っスね……。あ、思うんですけどこのCM」
「これか」
「これ曲Aura leeのつもりで流してるんスかね、それともLove me tenderのつもりなんスかね」
「たぶんLove me tenderじゃないか? 結婚式場の宣伝だから」
「えーAura lee はアレ、プロポーズする曲なんですよ。どっちなんだか……気になって仕方ねえいつもいつも」
俺は黙って発泡酒の缶のプルトップを開ける。炭酸が抜けるときの破裂音が気持ちよく鳴った。酒をコップに注ぐ様子を倉田は黙って見つめていた。
「一杯飲んで気分転換して寝るんだな」
「なんかいい匂いしますね」
「入浴剤の匂いだろう。お前のせいでろくに浸かれなかった草津の湯の匂いだ」
「入浴剤とか、相変わらず女の子みたいな趣味してますね」
「飲まないなら俺が飲むが」
「冗談です。今飲みます」
酒をすすりながら励ましてやった。
「まあ彼女にAura leeでも歌いながらプロポーズしたらいいじゃないか」
「結婚以前にフラれちゃ話にならねえっつうか」
「今日は何があったんだ」
「昨日の続きっスよ。向こうが、俺がバイトで稼ぐだけじゃ足りねえっつってきて、だんだん話がこじれてきて、俺がファンの女の子と怪しいとか言い出して、リホの奴、何回説明しても納得しねえんスよ。それで俺も頭に来て喧嘩になって、てめえの面なんか見たかねえって、こうっスよ。んで俺放り出されて。スマホだけポケットに持ってたから助かりましたけど」
俺は思わず笑ってしまった。
「スマホがなかったら今頃新聞紙にでもくるまっているところだったな」
「ああもう考えただけで凍えてくる」
テレビではニュース番組が放送されている。アナウンサーの読み上げにつられて画面を見た。聞き覚えのある大企業の名前が出た。
「なんだ、あの会社また不祥事か」
「最近こればっかりっスよ」
「まああれだ。喧嘩は当事者同士で解決してもらうしかない。俺に出来るのは今夜の寝床を提供することだけだ」
「酒もう一本ないっスか?」
「馬鹿者、立場をわきまえろ、誰の酒だと思っている」
「そこをなんとか、神様仏様八木様」
倉田が両手を擦り合わせるので、俺は再び冷蔵庫の前にしゃがむことになった。
部屋に人がいると、自宅なのにも関わらず落ち着いて眠れない。倉田の寝息が聞こえてくる。ほとんど規則正しいが、たまに乱れて苦しそうになる。それが気になって仕方ない。
倉田はまるで自分が世界で一番落ち込んでいるような顔をしていたが、俺だってそれほど幸福なわけではなく、人生が順調に進んでいるわけでもない。むしろ今まさに問題を抱えているのだ。
今日も主任の態度がおかしかった。俺が話しかけると変な笑い方をした。わざわざ立ち上がらなくてよいのにデスクから離れて俺と話した。常に指先が何かをいじくっていた。
あれは確実に何かを隠している。感じ取りたくないのに確信した。
クビになったらどうしようかと本気で心配している。この部屋は家賃が少々高いから、もしアルバイト先が変わって時給が良くなかったら生活水準を下げなければならない。最悪引っ越すしかない。
引っ越すのは面倒だ。この部屋は居心地が良い。生活パターンも身体に染みついている。真っ暗にしていても手探りで物を探せるくらいだ。だからここから動きたくない。動かないとすれば仕事も今のままでなければ困るが、それが危うい。
不安でしかない。
もう一度倉田の寝息に意識が向いた。吸って吐いて吸って吐いて。……そういえば雨は止んだのだろうか。雨音は全然聞こえない。倉田は来たとき特に雨に降られたとは言っていなかったから、降っていなかったのだろう。帰り際に俺は突然の雨に困らされたというのに。大粒の雨に頬を打たれて、ひどく悲観的な気分になったのだ。今までにあった理不尽なことを一つ一つ思い浮かべて、この人生に登場した悪役たちを心の中で罵倒した。帰宅しようやく湯に浸かっていたところで電話がかかってきたのだ。思えば俺もよっぽどの目に遭っている。倉田を慰めている場合ではなかった。
思考がだんだんと絡み合い始めて、そこに架空の声が混じり、やがて眠った。
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