第9話 助け
死神がこんなにもお喋りな存在だったとは、ルシエンは思ってもいなかった。ゼオンに着くまでの間、アンナはずっと喋っていた。人間の暮らしについて不思議に思ったことのあれこれ、大昔魔界に居たときのことや、そこで
始めのうち、ルシエンは適当に相槌を打っていたが、やがてその気力も失せてしまった。少女の口から途切れることなく出てくる言葉が、すべて意味のない音声としてヘルメットの中を飛び回っていて、頭が膨張して破裂しそうな感覚に襲われた。
「お願いだから、静かにしてくれ」
溜息混じりに言うと、アンナは申し訳なさそうに項垂れ、しばらく黙り込んだ。ただし、ほんの少しの間だけだった。彼女の口はまるで壊れた蛇口で、言葉がいつでも水のように流れ出るのだった。
夜のゼオンは昼間の賑わいを失ったが、中心部は依然と眠っていない。複雑に入り組んだ路地に明かりが灯され、あらゆる建造物の表面に光と影のコントラストが鮮明に浮かび上がっている。帝国の発電所から電力を裾分けしてもらっている現状、街中は決して明るくない。街灯の当たらないところは一寸先も見えない闇だ。夜道を行く人々はそれぞれの光源を持ち歩き、蛍の群れのようにビルとビルの間を流れてゆく。
「やっぱゼオンの景色って圧倒されるね」
アンナは思わず感嘆の息を漏らした。その瞳に映る明かりが光の粒となって煌めいている。夜景に見とれている間、彼女は静かだった。ルシエンは沈黙を守った。下手に返事をすると、永遠に続く一方的な会話が始まってしまうからだ。
バハムートは路地裏にある小さなレストランの前で停まった。ネオン灯に囲まれた看板がチカチカと光っている。
「ぼくはここで食事をするけど、君は好きにしていいよ」ルシエンはヘルメットをしまいながらアンナに言った。
「わかった」アンナは小さく返事をした。
ルシエンは扉を押し開けて店の中に入って行った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に立っている店主らしい人物が挨拶をした。店内はいつものと違ってがらんとしており、男性客が3人居座っているだけだった。
軽く会釈をし、ルシエンはカウンター席の端に座った。
「特製パスターを一皿と白ワインを一杯」
「いつものご注文ですね」店主はにっこりと歯を見せた。「そちらのお嬢さんは」
ルシエンは流し目で横を見た。アンナは素知らぬふりをして彼の隣に座った。
「本当に君は人聞きが悪いね」ルシエンは顔をしかめた。
「べっ、別についてきたわけじゃないよ」はにかみながらアンナが言う。「私だってお腹すいているのよ」
ルシエンは肩をすくめ、彼女のことを気にしないように努めた。
運ばれてきたワインをルシエンはさっそく口に運んだ。飲み込んだ直後、いつもと味が違うことに気が付いた。確かめようとしてもう一口ワインを飲んだ時だった。舌の感触がわからなくなっていた。痺れが喉を通って腹へ移り、程なくして全身に広がった。
恐ろしい一念が彼の頭の中をよぎり、心がギュッと締め付けられた。
「なぜ……毒をもった……」
口をうまく動かせなかった。全身の力が抜け、ルシエンは椅子から転がり落ちた。
床に横たわる彼の所に、先程から様子を伺っていた3人の男性客が集まってきた。
「こいつが噂のデス・エンジェルか」うちの一人が言った。
店主が頷いた。
「いかにも。うちの常連ですから間違えるわけがありません」
「アウトランド中で噂されるほどの凄腕でも、寝かせればただの子猫だな」
男どもはあざとく高笑いをした。
「ご苦労だったな。お金は振り込んでおいたよ。さて、こいつをどうするかなあ」
少しばかり若く見える一人が口を開いた。
「肢体をバラバラにしようか、それとも頭をつぶそうか。どちらにしろ、仮死状態が長くつづいた方がいい。LOHにこいつがいない方が我々のためだ。ただし殺すなよ、覚者殺しは重罪だ。帝国の奴らが直々に捕まえに来るぞ」
LOH、リーグ・オブ・ヒーローズの略称で、もうすぐ開催される覚者が強さを競う闘技イベントだ。ルシエンは出場を決めている。
リーダー格と思しき男が結論を持ち出した。
「頭をつぶそう。脳の損傷は記憶喪失につながるから、俺たちにされたことは覚えちゃいねぇ」
男たちがまた陰険な笑いを響かせた。
「バカな奴だ。今時ソロっているなど、カモでしかないぜ」
どうやらルシエンはライバルたちにハメらたようだ。開幕の式典を待たずして、出場者どうしの仁義なき戦いはすでに始まっているのだ。
ルシエンの胸をありとあらゆる怨恨が渦巻いた。苦しみに悶える意識とはよそに、体は全く動かない。もうされるがまましかないのだ。
俄かに閃光が宙をぶった斬った。飛び散る鮮血に続き、悲鳴、食器の割れる音、テーブルや椅子が薙ぎ倒される音、様々な音が一斉に響いた。
ルシエンの視界の端で血塗られた赤い刃が大気を切り裂きながら踊っている。男たちは肉の塊となって床を転がった。眩み始める両目で閃光の出所を追うと、そこにはアンナがいた。鋭い風切り音を鳴らしながら、身長を優に超える大きな鎌を軽々と振り回している。
死神の大鎌。
神話の挿絵でしか見たことがないそれを、ルシエンは生まれて初めて目の当たりにした。柄は背骨のようにたくさんの節で構成され、刃は生き血を吸った禍々しい赤色。この刃に触れた者は肉体だけではなく、魂まで切り裂かれる。
仲間の血しぶきを全身に浴び、最後に残った男はすっかり戦意を喪失した。店の出入り口に猛ダッシュするその背中に、アンナが鎌を一振り。無数の節々が分離し、柄はチェーンとなって伸び出す。三日月の刃が鋭い風鳴を響かせ、赤い光のラインを描く。
「グサッ」と痛々しい音がした。
鎌は先から柄込みまで深々と男の体に喰い込んだ。
アンナは両手で柄を掴み、グッと引き戻す。節と節を繋ぐ赤い光の糸が瞬時に縮む。刃は男の体を容赦なく引きちぎり、首元から股先まで真二つに切断した。血の海に沈むその姿に店長は声にならない悲鳴を上げ、その場で気絶した。
節と節が密着して大鎌は元の形に戻った。使い慣れた武器をアンナはグルッと回した。鎌は正円を描き、表面に付着した血液がきれいに振り飛ばされた。敵の全滅が確認されると、大鎌は紫色の焔と化し、少女の体の中に吸い込まれた。
「ほら言ったでしょ、私は助けになるって」
仁王立ちしたアンナは得意げな表情でルシエンを見下ろした。それから鼻をひくつかせ、宙に向けて口を開け、何かを吸い込もうと胸を膨らませた。
「食べないで―」
朦朧とする意識の中でルシエンは必死に叫んだ。
アンナはハッとして口を閉じた。それを最後に見納めてから、ルシエンは目を閉じた。
バハムートはアンナとルシエンを乗せて、完全自動運転モードで家に戻ってきた。ナビの正確な位置情報と車体に埋め込まれた高度なセンサーカメラにより、暗闇の狭い道を何一つ事故を起こすことなく通り過ぎた。
ルシエンの家は縦長の賃貸アパートの最上階で、聳え立つ巨大ビルの間に挟まれた格好で立っている。屋上の開いたスペースには小さな菜園があり、ルシエンの部屋と繋がっている。
菜園としては残念ながら、野菜は何一つ育たない。両脇のビルを結ぶ架橋通路がすぐ上方にあり、大きな影を落としているせいで日当たりは悪い。ただし魔狩りによく使う薬草やハーブには十分だ。卑劣な環境でもよく育つ変わった植物たちで、魔狩りに必要な毒やポーションの原材料だ。
半ば錆びた鉄扉が耳障りな摩擦音を立てて押し開けられた。郵便受けのポストでルシエンの名前と部屋番後を見つけることは容易だった。ぐったりした成人男性を軽々と抱え、少女は曲がりくねった細い階段を登った。古い建物のためエレベータは無かった。家の前まで来ると、彼のポケットから鍵を探り出してドアを開けた。
明かりをつけると、こぢんまりとした2LDKが目に飛び込んだ。白とベージュとグレーの味気ないコーディネーションで、物が少なすぎてどこか寂しい。
家具は必要最小限といったところ、飾り気のない素朴なデザインだ。強いて贅沢と言えるのはリビングのソファーだけだ。窓は広さの割に大きく、分厚い遮光カーテンに覆われている。
床は意外にもちゃんとフローリングが施されている。コンクリートそのものが床の、ゼオンでよくある安物件よりは幾分ましだ。ただし天井は至って粗末、剥き出しの配管が通り抜け、雨水の染みた跡もあちこちにある。
「へー、こんなところに住んでいるのか。バイクは立派なのに家は随分と質素だね」
アンナは独り言を口ずさみながら上がり込んだ。寝室に入るとルシエンをベッドの上に放り投げた。ルシエンは目を閉じたまま眉を潜み、小さな呻きを漏らした。麻酔作用の毒素を体内で浄化するのにまだまだ時間が掛かりそうだ。苦しい眠りが彼を包んでいる。ベッドの側に立ち、アンナは興味津々に彼を覗き込んでいる。その瞳は魂火の輝きを宿している。
死神の目はすべてを透かして見ることができる。目の前を横たわる美しい覚者の姿は、皮膚に包まれた筋肉と骨格、そして赤い血管の束と鼓動する心臓の集合体に見える。
死神にとって肉体の美醜は意味がなく、唯一気にするのは中心に閉じ込められた魂だ。ルシエンの魂は、まるで燦々と輝く白い太陽のようだ。すべてを清めてしまいそうな、純粋で眩しい輝きに彼女は目がくらんだ。
「魂には何等かの色がついているはずだけど、こいつは真っ白だ……」
アンナは鼻をぴくぴくさせて固唾を飲んだ。白く輝く魂を持つものは彼女が知る限り、神かそれと同等な存在以外あり得ない。
「懐かしい香り。なんて美味しそうなの...」
そう呟きながら、彼女は吸い寄せられるようにルシエンに顔を近づけている。彼の吐息を頬で感じた時、思わず瞳がとろけてしまった。邪悪な笑みに口が裂け、古の死神は禁忌の記憶を辿り始めた。彼女は神を喰ったことがある。その気になれば何度だって同じことができるのだ。
しかし不可解なのが、ルシエンはどう見ても人間で、血も肉もある脆い存在は神であるはずがない。悩める理性が保たれるのも束の間、死神は不可抗力に吸い寄せられるままルシエンに近づき、大きく口を開けた。
「……いや、待て」
ハッと正気を取り戻し、アンナは無抵抗なルシエンから自身を突き離した。しばらく硬直したのち、ふっと薄い笑みを浮かばせた。瞳は晩餐になりかけた男を捉えたまま暗いオーラを帯びている。
「はは、そういうことか。こいつは“育て甲斐”がありそうだ」
そう自分に言い聞かせ、彼女はくるりと踵を返して寝室を出て行った。
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