第6話 ハンター釣り
狩りの前の束の間の仮眠は、集中力と判断力を高めることができる。もちろん深く眠ってしまわないように、五感は常に研ぎ澄まされている。訓練されたハンターならではできることだ。
寝室の外から伝わる足音でルシエンは目を開けた。足音の響き方から歩く人の体重が分かる。二人いるようで、重そうな方は男性のもの、もう片方は女性のもののようだ。足音が段々近づくと、ドアが押し開けられ、親密そうに囁きあう男女が入ってきた。
ジョーが鱗を逆立たせている。魔が近くにいるサインだ。香水と生臭さが混じったような、ムッとする臭いが鼻をつく。
しばらくすると、男女は話をやめ、抱き合って口づけを交わした。それから女性は男性をベッドの上に押し倒し、体の上に跨った。淫らかな笑みを浮かべるその口から、長いストローのような舌が伸び出した。
ルシエンはこの一瞬を逃さなかった。素早くタンスから飛び出し、右手の銃を女に向けた。
指のタトゥーが、引き金を引く瞬間に光った。マズルの溝が煌めき、青白い光の弾丸を音一つ立てることなく射出した。
光弾は流れ星のように尾を引きながら彼女のこめかみに命中し、そのまま頭部を貫通した。鈍い破裂音とともに血潮が吹き散り、女は体を痙攣させた。
命が消えるのは一瞬のことだった。女は自分を殺した者に振り向く間もなく、男の体の上にうつ伏せるように倒れ込んだ。シーツの上に放り出された長い舌が未練がましく蠢き、ドロドロしたつばを塗りつけている。それもやがて動きが鈍っていき、しばらくすると止まった。
「お騒がせしました」
死体に埋もれてぐったりしている男性を助ける気もなく、ルシエンは短い言葉を残して寝室を後にした。余計な言動を一切せず、さっさと報酬を貰って帰るのが彼のスタイルだ。
その時だった。
男は自分の上に重なった魅魔の死体をものすごい力で押しのけた。亡骸は宙を飛び、壁に当たって大きな音を立てた。
ルシエンは振り向き、反射的に銃を握る。
男の体は宙に浮かび上がり、青いオーラに包まれながらどんどん膨れ上がっていく。やがてオーラが消えると、そこには鎧のような甲羅を身に纏い、長い手足と鋭い角を生やした大きな魔の姿があった。
ルシエンは素早く魔を見回した。赤い目とゴキブリの如く黒光りする躯体、甲羅の隙間からほんの少し見える青い血管。甲兵魔だ。かつて稜界を混沌に陥れた魔神エゼキルガーに帰属する部類だ。迫りくる覇気と殺気に、その手強さを直感した。
「はははっ! 引っかかったな、覚者!」
魔は咆哮に近い笑い声を上げた。口に唇はなく、鋭い歯が剥き出しになっている。しゃべるたびに歯と歯が擦り合い、ギシギシと音を立てている。
ルシエンは素早く銃を構える。戦闘体勢に入ると同時に、状況が腑に落ちた。
なるほど、
これ以上考える暇がなかった。魔は寝室の出口に向かって突進し、周囲の壁ごと破壊して廊下に出た。建材の破片が飛び散る中、床を力強く踏みつけ、宙に飛び上がってルシエンに襲いかかる。
ルシエンは素早く後ろに跳び、鋭い爪の引っ掻きを躱す。同時に、両手の引き金を引き、魔の胸部に向けて発砲する。光弾が平衡線を描いて宙を掠め、分厚い甲羅に命中し、硬い表面に弾かれて細かい粒子となって散った。
甲羅に、焼き焦げた点が二つ現れた。魔はにんまりと凶悪な笑みを浮かばせている。どうやらその硬い甲羅のせいで、弾が効きにくいようだ。
「その程度か?」
魔はゲラゲラと笑った。そしてまた一跳び、鈍重な見た目に反して俊敏な動きで向かってくる。
再び襲いかかる爪を交わし、ルシエンは素早く距離を取った。銃を扱う戦い方の基本として、敵の過度な接近を避けねばならない。懐を取られれば、照準する間もなくやれてしまうからだ。
ルシエンは吹き抜けになった廊下の柵に身を翻して跳び下り、一階のロビーに着地した。ここならスペースが広くて逃げ場を所確保し易い。背後には玄関があり、そこから庭に出れば、空間の限られる室内よりももっと戦い易い。
ルシエンは追ってくる魔に対し全力で引き金を絞り、後ろ向きに小走る。決して敵に背を向けてはならない。見えない死角を絶対に作らない。
魔も彼を追ってロビーに跳び降りた。重い衝撃に耐えられなかった床板が折れ、足元から斜め上に突き出た。魔は絶え間なく体に打ち付ける光弾によろめきながらも、確実に距離を縮めてくる。
ルシエンに微かな焦りが募る。彼の銃はリロードしなくても良い代わりに、撃ちっぱなしを続けるとそのうち過熱を起こし冷却状態に入る。冷却状態に入ると数十秒の間、全く撃てなくなるのだ。短い時間のように聞こえるが、間一髪の戦いにおいて生と死を分けるのに十分な長さだ。
ルシエンの背中が硬い表面に当たった。不運なことに、扉は締まっているようだ。振り向いて鍵を触る時間などない。立ち止まった彼を目にし、魔は歓喜の雄叫びをあげた。
「もらった!」
魔はルシエンの頭上に跳び上がり、両手を力いっぱい振り下ろした。「ガリガリガリ」と耳障りな音が響き、爪先に引き裂かれる床材が破片となって飛び散った。
魔は空っぽの掌をしばし眺めた。ルシエンは魔の爪に触れる直前、体を倒して床面を横に滑り、間一髪で躱した。
確信の一撃が空振りとなった魔は茫然とし、すぐに凶悪な怒りを露わにする。その僅かな隙に、ルシエンは仰向けのまま足を振り下ろし、反動で素早く跳ね起きた。
魔が彼に振り向いたころ、ルシエンはすでに銃を構え直していた。再び光弾の雨を浴びせられ、魔はしびれを切らし、大量の唾を散らしながら叫んだ。
「おのれ、すばしこいやつめ!」
魔は「ブンッ」と長い腕を横なぎに一振り。素早く身を沈めてルシエンが回避した。頭上を掠める漆黒の爪が起こした風圧に、煌めく銀髪が踊った。横にダッシュして距離を取ろうとするも、魔もすかさず詰め寄ってくる。そうしているうちに、両者の立ち位置が入れ替わり、魔の巨体が家の出口を遮った。 しまった、思うのも束の間、限られた空間での熾烈な鬼ごっこが始まった。暴れ狂う魔と、手足の先からすり抜けるように逃げるルシエン、瞬く光弾の雨。平和な民家が一瞬にして修羅の戦場に豹変した。
ルシエンの手の中で引き金がどんどん熱を帯びている。足止めのためとはいえ、そろそろ無茶な撃ち方を続けられなくなる。彼は攻撃を躱しながらも注意深く魔の動きを観察し、次の戦い方を懸命に考えていた。
突然、魔は立ち止まった。
「これでもくらえ!」
魔はルシエン向けて口を大きく開けた。のどの奥が青く光ったコンマ一秒後、大きな火の玉が飛び出た。
咄嗟に躱すルシエン。火の玉は後ろの壁に直撃した。爆発音が耳をつんざいた。壁に大きな穴が空き、煙が上がった。
一階の隅にある部屋から少女が驚いた表情で駆け出した。
「ちょっとあんたたち! 私の家を壊しちゃう気!?」
視界の脇に見える小さな人影にルシエンは全力で声を張り上げる。
「危ないから引っ込んでいろ!」
魔は赤い目玉で少女をギョロリとひと睨みし、頭を降りながら火の玉を続けざまに吐き出した。火の玉は扇子状に飛散し、辺り一面を破壊した。
ひとしきり爆音が響いた。家の半分があっという間に崩れ落ちた。少女は小さな悲鳴を上げ、瓦礫の下に埋もれてしまった。
ルシエンは階段下に隠れ、崩落する天井から辛うじて身を守った。飛び散る破片の殆どはジョーの鱗が遮ってくれたため、彼は頬に小さなかすり傷だけで済んだ。舞い上がる粉塵と煙に咳き込もうとする胸を無理矢理抑え、彼は素早く周りを見渡した。
日はすでに沈んだが、幸いリビングの明かりは途切れながらも点いている。煙の中、魔の姿はどす黒い影となりゆらゆらとさまよっている。ルシエンと同じくあたりがよく見えていないようだ。
これほどの破壊力を持つ魔と戦うのは久しぶりだ。しかし今の戦況は芳しくない。視界と足場が悪くなっただけではなく、一般人をも巻き込んでしまった。だが気にする暇はない。
「どこにいった? 出てきな、丸焼きにしてやる!」
魔は声を荒げながら瓦礫を掘り返している。殺気も格段と強くなっている。その様子を目で追っているうちに、ルシエンはふと一つの方法を思いついた。この魔は全身を甲羅で守られているが、一か所だけ露わになっているところがある、口の中だ。
ルシエンは銃を構えた。不幸中の幸い、物陰に隠れてじっとしている間、引き金の温度は下がっていた。
彼は銃を構え、足元に散らばった破片を一つ蹴った。魔は音に反応し、クルっとこちらに頭を向けたように見えた。煙の中に見えるシルエットの角度が変わった。そして案の定、火の玉を吐こうとしている。
煙の中で青い光の点が現れた。その瞬間、ルシエンは引き金を絞った。
チャンスは一度きり、命中しなければ自分がやられることになる危険な賭けだ。しかし彼には勝算があった。鍛え抜かれた照準の正確さに揺らぎのない自信があり、愛用する銃–クリスタル・ベインの弾速も正確に把握している。
籠った衝撃音がした。青い光の点がふっと消えた。
「グォオオオ……」
苦しそうに呻きと、「ドサッ」と重い音が聞こえた。
手応えがあったようだ。
ルシエンは銃を構えたまま警戒を緩めず、慎重に魔のところに向かう。煙が段々晴れていき、床の上でもがき苦しむ黒い巨体が現れた。魔は口を抑えながらくぐもった悲鳴をあげ、指の隙間から青い血が勢いよく噴き出ている。
ルシエンはとどめを刺すために光弾の通れそうな場所が他にないか、ざっと見回した。首元の関節の部分は、動きやすいように甲羅と甲羅の隙間が大きく開いている。銃口を突き立てる前に、一つ聞かなければならないことがあると思い出した。
「なぜハンターを狙う」
彼は静かに魔に話しかけた。表情一つ変えることがないまま、冴えた瞳で見降ろした。
魔から声にならない呻きが聞こえてきただけだった。口の中を破壊されて話せないようだ。ルシエンは短いため息をつくと、銃を魔の首元に突きつけ、引き金に指をかけた。
「待て、そいつは私のものだ!」
突然、背後から声が響いた。
瓦礫が下から勢い良く押し飛ばされ、この家の少女が立ち上がった。服はボロボロだが、体に傷ひとつない。彼女は乱れた髪を手でとぎ、歪んだカチューシャを正した。
きょとんと立ちすくむルシエンを通り抜け、少女は魔の側まで歩み寄った。その場にしゃがみこむと、今にも息絶えそうな魔に怒りを露わにした。
「私の家を壊した恨みだ。あんただけは絶対に喰ってやる!」
彼女は両手を伸ばし、魔の手を鷲掴んだ。か細い腕からとは思えない怪力で魔両腕を引き剥がし、歯が折れて形の崩れた口を曝け出した。
魔は聞いたこともない悲痛の叫びをあげた。
少女は口と口が触れそうな距離まで顔を近づけ、何かを吸いこむような仕草をした。すると魔の全身から瞬時に力が抜け、目玉を上に翻し、虚ろになっていた。巨体を覆っていた甲羅はバラバラに剥がれて床の上に転がり落ちた。
筋肉と血管が剥き出しになった無惨な姿で、魔は死んだ。
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