第3話 覚者

 子供のころのルシエンは、彼が今そうであるように、ずっと孤独だった。人離れした美貌と目立った銀色の髪のせいなのか、それとも訳ありの出生のせいなのか、どこに行っても後ろ指を指される存在だった。

 彼の母ベアトリーチェはもともとエリュシオンにある教会の聖女だった。聖女とは主神アークに仕える女性のことで、初潮を迎える前の少女を民間より選抜し教会の中へ迎え入れ、生涯にわたり教会への奉仕とアーク教典の伝授という閉ざされた人生を送っていた。アークの物質次元における性が“男”であったため、聖女たちはすなわち彼の“女”で、他の男性との交わりは厳しく禁じられていた。彼女たちは処女のまま、天界にいるアークに届かぬ思いを馳せながら一生を過ごすのだった。

 ところが、ベアトリーチェは赤子だったルシエンの母親だ。それはすなわち男との交わりがあったことを意味し、大きな禁忌にして重罪だった。罰として、彼女は「穢れの身」となり、ルシエンは「穢れの子」となって教会から追放された。

 「穢れ」とは、犯罪者のうち更生しようのない者の身分で、死刑に次ぐ重罪だ。「穢れの身」となれば、社会への参加が拒まれ、職にも就くことができない。また一切の法律にも守られず、全ての国民に“好き放題”にされる。この制度は帝国の自浄作用を生み出した。「穢れの身」に残された唯一の選択は、壁の外に出てアウトランドで活路を見出すことだった。


 父のことについてベアトリーチェは何一つルシエンに語らなかった。もしくはただルシエンが思い出せずにいるだけなのかもしれない。彼の記憶は壊れたビデオのように途切れ途切れで、つじつまの合わない断片として心の引き出しの奥深くにしまい込まれている。 物事が分かるようになってから、彼は自分の父が暴漢だったのではないかと猜疑するようになり、その思考はいつしか作られた事実として、汚物のように心にこびりついた。そうでなければ、母の堕落っぷりが説明できないのだ。ルシエンは父も母も大嫌いだった。責任を取れない大人に望まれて生まれたわけでもない、不幸だらけの人生を呪った。

 母の顔を最後に見た日のことを今でもよく覚えている。それは彼にとって悲しみであり、一種の解放でもあり、それは小学校の帰りに起こった。


 ――

 追いかけてくるいじめっ子たち振り切り、自宅に駆け込んだルシエンを迎えたのは母の呻き声だった。閉ざされた寝室の扉の隙間をこっそり覗き込むと、そこには全裸で絡み合う男と女の姿があった。母は、仕事中だった。娼婦だった。

 ルシエンは黙々と、男の汗と体液で汚れてゆく母の姿を見つめた。青い瞳に澄んだ光りはなく、どろんとした澱みが渦巻いていた。まるですべてを海底に引きずり込もうとする渦潮の中心のようだった。

 初めてその光景を目にしたとき、好奇心の入り混じった興奮とともに、激しい羞恥心と嫌悪感がルシエンを襲い掛かった。それから長い間、体の芯が疼くような嫌な感覚が続いた。幼いルシエンがどんなに母を喜ばせようとも、ベアトリーチェはいつも無表情だったが、仕事中に限って口角を釣り上がらせていた。その笑顔がふしだらなものだとしても、彼は欲しかった。そんな些細な願いも叶わない現実に、どこからとなく湧き上がる憎しみと悲しみが幼い心を蝕んだ。

 自分の部屋に戻ろうとしたとき、母の声が突然止んだ。不自然な静けさが辺りを包んだ。怪しく思いながら再びドアの隙間を覗くと、母と男は体を重ねたままじっとしていた。男は時折、頭を小さく上下に動かしていた。そして微かに「ジュルル……」と、ストローで何かを吸うような音が聞こえた。目を凝らして見ると、母の皮膚の表面に沢山の細かい皺が浮かび上がっていた。まるで干からびていく植物のように少しずつ縮れていたのだ。

 ルシエンはぞっとして目を見開いた。ちょうどそのとき、男の客人だったモノが彼の方に振り向いた。それは死人のような青白い顔に、真っ黒な空洞のような両面と耳元まで裂き開く大きな口を持っていた。長い管状の舌が垂れ下がり、ベアトリーチェの口腔と繋がったままニュルニュルと蠢いていた。


「ミ タ ナァ? 」


 それは唇を蠢かせた。うぶ毛が逆立つおぞましい声が鼓膜を貫いた。

 ルシエンは大きな悲鳴を上げ、その場に尻もちをついた。恐怖に体が硬直し、心臓だけがはち切れる勢いで鼓動していた。

 彼が初めて目にした魔は、魅魔の男性体だった。この種類は出没数が多く、愛欲につけこむことで知られている。美しい女もしくは男に化け、独特のフェロモンを出して異性を誘惑し、罠にかかった者の体液を貪欲に吸い尽くしてしまう恐ろしい奴らだ。

「オマエの母親、美味しすぎて全部スッテシマッタ、さすがは元聖女の体ダ」

 扉の向こうから魅魔の声が段々近づいてくる。ルシエンは震える手足を床に押し当て、尻をついたまま辛うじて後退りをするが、化け物との距離を保つのには不十分すぎた。

 扉が内側から突き飛ばされ、魅魔は長い舌をくねらせながら、四つ這いで迫ってくる。その手足はもはや人間のものではなく、蜘蛛のようにけむくじゃらで、先端に生える鉤爪が床をガリガリと音を立てて引っ掻いていた。

「食後のデザートとしてオマエもスッテシマオウ!さあ、口を開けな!」

 魅魔は恐怖で硬直するルシエンに肉薄する。左手で彼の肩を掴み、右手で顎を掴むとグッと引き寄せた。ストロー状の舌の先端が彼の唇をこじ開けようと捏ねくり回し始める。

 生臭くぬめりのある粘液と不気味な感触に、ルシエンの全身が粟立ち、激しい吐き気がこみ上げた。それでも彼は一生懸命歯を食いしばり、化け物が体内に侵入することを拒んだ。

 ルシエンの抵抗に苛立つ魅魔は指に力を入れた。爪先がルシエンの肌に食い込み、傷口からきらりと輝く液体が流れ出た。


 「ギャアアアアア!!」


 熱い鉄板に水を垂らしたような耳障りな音が響き、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。

 魅魔はしゃがれた悲鳴をあげてルシエンを突き放した。さきほどルシエンの顎をつかんでいた前足から白い煙が立ち、爪の二本が溶けてなくなっていた。

「オマエ、まさか!」

 魅魔は怯えたネコさながらの噴気音を発した。ジタバタと後ろずさり、壁に当たると後ろ足を乗り上げて逆立ちしたまま、恐怖の目を剥いた。

 ルシエンはヒリヒリと痛む頬に触れた。温かく、少しばかりとろみのある液体が指に纏わりついた。手元を見ると、赤いはずの血が水銀のようにギラギラと光っていた。ルシエンはあんぐりと魅魔を見て、また自分の手を見てた。

 魅魔は後ろ足を降ろして四つ這いの体勢にもどり、鼻で笑った。

「どうやらオマエ、自分が何者かもわかっていないようだな」

 魅魔はくるりと体の向きを変え、耳障りな足音を立てて寝室を通り過ぎた。それから窓ガラスを割って外に出ると、アパートの外壁を這い上がってどこかに行った。その様子は巨大で不気味な蜘蛛のようだった。

 屋外から忽ち人々の悲鳴が上がった。窓ガラスの割れる音に驚いた近所の誰もが魅魔のおぞましい姿を目撃していた。そしてますますルシエン一家の存在を忌み嫌った。


 ルシエンは長い間、凍りついたように座っていた。恐怖と混乱に頭が真っ白で、目の前で起こった一連の出来事を飲み込めなかった。

 やっと気を取り戻したのは、家の玄関を叩かれる音をきいてからだった。

「おい! ベアトリーチェ、ルシエン、中にいるのか!」

 男の声が響いた。いつも一家に意地悪をしていた隣人のものだった。ざわざわした物音から、数人ほどの大人たちが家の前まで押し寄せていたのが分かり、ルシエンは嫌な予感がした。ドアを叩く音がどんどん荒々しくなり、男の声も殺気を帯び始めた。

「お前らの家から魅魔が出たぞ、この疫病神どもが! 俺たちに何かが起こったら責任とってくれるのか?! 母子ともに出でこい!」

 ドアを開けたら、何をされるのかわからない。殺されるのかもしれない。魔と同じくらい恐ろしいもの、それが人だった。


 逃げなきゃ。


 恐怖はエネルギーに変わり、ルシエンは生存本能に突き動かされるまま素早く逃亡の手立てを始めた。まずは自分の部屋から旅行用のリュックサックを取りだし、そして保存できる食料をありったけに詰め込むのだ。それからお金も。そうだ、母の鞄の中から取り出そう。母のジュエリーボックスの中身も売ればしばらくの生活費になるだろう。ベランダに出れば排水パイプがみえるはずだ。ここはアパートの3階、パイプにしがみついて降りられる。かくして頭で考えながらも、ルシエンは素早く手を動かして身支度を始めた。

 玄関の外で大人たちが何か討論しているのが聞こえる。そして「ぶち込め!」と合図がかかると、鍵の部分を硬い何かで力いっぱいに叩き始めた。衝撃の度に内側のドアノブがぐらつき、今にも取れそうに見えた。

 残された時間はなかった。幼いルシエンは急いでサックを背中に回し、靴を履くとベランダにダッシュした。

 寝室を通り過ぎたとき、ベッドの上に横たわる母の亡骸を見た。体液を吸われたそれは干物のようだった。口は何かを訴えているかのようにぽっかりと開き、瞼は閉ざされたまま眼球に張り付いている。死の静寂が辺りを包み、そこだけが世界から孤立してしまったようにポツンと浮かび上がっていた。

 ルシエンは涙を流さなかった。肉親の変わり果てた姿を目の前にした子供とは思えないほど冷静だった。母への複雑な思いがもつれてうまく表現できなかったのかもしれない。意外にも感情的起伏が無いことにルシエンは違和感を覚えることもなかった。彼の心は波の無い海のようで、ありとあらゆる感情を底へ沈めてしまった。

 玄関の方からまた大きな音がした。もう住み慣れた家を出る時間だ。

「さようなら」

 ルシエンは誰になく呟いた。そしてベランダに出て縁に跨り、アパートの外壁に固定された排水パイプのつなぎ目に手を伸ばした。そこの出っ張りは彼の小さな手足でしがみつくのに十分な大きさがあった。さきほど手についていた血はすでに固まり、赤黒く肌にこびりついていた。ルシエンは呼吸を整えながらゆっくりとパイプを降りた。足の裏が再び硬い地面を感じるや否や、一目散に街の人混みへ駆け込んだ。


 ――

 覚者の血にはエーデルが宿っている。濃度は人によって様々だが、活性化されたときに発せられる清らかなエネルギーは魔がもっとも恐れるもので、触れただけで肉体が焼かれるのだった。彼らはまさに、神によって作られた魔と対抗するための生体兵器なのだ。

 覚者の凄さは強靭な肉体と魔法を扱う能力だけではない。生命を持つ者となれば誰にも平等に設けられた限界、寿命をも超越していることにある。エーデルの力により細胞が病と老化から守られているゆえ、常人から見ればまさに不老不死だ。エーデルはまた宿主の原型を保つ働きがあり、覚者の肉体が損傷を受けた場合はあり得ないスピードで治癒する。たとえ死に至るダメージでも、エーデルが体内にとどまっている限り、覚者は肉体が修復され息を吹き返すのだ。

 ただし、覚者は殺され得る。いくら組織を再生できるとはいえ、灰になるまで燃やされることなど、肉体の物質的性質が完全に変わってしまうと二度と蘇ることはない。また、肉体に致死的な損傷を受けた覚者は、ダメージの程度と修復速度によって数日間から数週間の仮死状態に陥る。その間はとても無防備で、厳重な衛生管理と蘇生治療を続けなければならない。そうでなかったら肉体の腐敗が進み、再生が止まってしまうからだ。


 自分が覚者であることが分かって以来、ルシエンは死を恐れなくなり、それが魔狩りという危険な仕事を続ける後押しになっている。その代わり、果てしなく続く「生」に対する困惑と迷いと、漠然とした脱力感を抱くようになった。死という終着点を失くしたことで生まれる新たな悩みを胸に抱え、ルシエンは彼の人生を五十数年生きてきた。それでも、神魔大戦を経験した数百歳ある覚者たちに対して子供のように若々しくて未熟だ。

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