第2話 差し伸べられた手
理由はただ1つ。
「おんなの子のこえがするよ」と幼き日の彼が口にしただけ。
爪弾きの口実など、些細なことでよかった。日の登らぬ閉鎖空間は、人々の心を
リーダーには手荒な扱いをされてきた。貴重な配給品をカツアゲされたこともあるし、暴力などは日常茶飯事。でも、一度だってそれに抗ったことはなかったのに。
一つ、また一つ、と慎重に建物の隙間を縫うように歩く。シェルターからどんどん遠ざかっているが、
そう自分に言い聞かせ、大通りへ足を踏み出した彼の右側方から、低い唸り声が聞こえた。
唸り声の主も、柊が建物の影から現れたのは予想外のことだったのだろう。ほんの一瞬、柊とそれは見つめ合った。
山犬型【D】が突進してくるより早く、身を翻した。僅か数十センチのビルとビルの隙間へ、倒れるように飛び込む。
「グオォオオオオオン」
体当たりの振動で、大きく揺れるビル。雄叫びは威嚇か、それとも餌を見つけた歓喜の声か。衝撃で割れた窓ガラスが光の雨のように降り注ぐ中、柊は狭い抜け道を奥へ奥へと走り続けた。
「くそっ なんで、どうして俺だけこんな目にばかり」
もう一体の【D】がいた方角とは反対へ角を曲がりながら、泣き言が漏れる。
これまで15年と半年、妬まれ蔑まれながらも、真面目に生きてきた。身体能力を買われて自警団に進路が決まったあとも、さぼることなく訓練してきた。危険な任務も断らなかったし、虐めや無視も耐え忍んできた。
ここにいてもいいよ、と誰かに言ってもらいたいがために。
「死んだ妹の話だって、もう何年もしていないだろ」
背後から噛みつこうとする鼻先を、咄嗟に弓で叩く。
衝撃で割れた弓を投げ捨て、今度は背負っていた矢筒を右手で握り直した。これが壊されたら、もう他に使えるものはない。
「妹以外の死者なんて見たこともない。俺の頭の中で死んだ家族の声がした、ってだけじゃないか」
足を絡めとろうと伸びてくる舌を避けるため、勢いをつけて地下道トンネルの壁を走る。再び歩道へ戻り、更に加速――だが、山犬は狩りを楽しむかのように、余裕の足運びで追走する。
「その妹の声だって2週間前に消えた。もう俺は普通の人間だ!」
道を塞ぐように横転した乗用車のボンネットへ飛び乗り、住宅街を進む。
障害物のおかげで少し距離が開いたが、追いつかれるのも時間の問題だ。荒れたアスファルトに足を取られてふらついた隙を逃さず、化け物が飛びかかる。
左肩を激しい衝撃が襲う。脳震盪を起こしそうなほどの揺れ。しかし、鋭い爪に抉られたはずなのに、不思議と痛みは感じなかった。
恐怖と疲労で麻痺しているのだろうか。手にしていた矢筒も遠くへ転がり、もはや反抗する
「たす、けて……」
化け物に通じるはずがないのに、救いを求める言葉が口をついて出た。
だが、走るうちに地下都市から何キロも離れている。こんな僻地に、自警団員がいるはずもない。仮に逃げ遅れた隊員がいたとしても戦力にはならないし、そもそも、自分なんかのために戦ってくれる顔など1つも思いつかない。
それでも、助けを求めずにはいられなかった。
「
自分を押し倒す【D】の目が輝いた瞬間、柊の視界は鮮やかな朱に染まった。
「あ……」
押しつぶされかけていた腕の重さがなくなり、大きく息を吸い込む。
【D】は両前足を切り裂かれ、怒りの咆哮をあげていた。
いつの間にか、化け物と自分の間に、
スローモーションのようにさえ感じられる一瞬、軍服の人影は手にした太刀を構え直し、一足飛びで切りかかった。
敵の巨体と比べ、その背はあまりにも小さい。体高だけで三倍以上も違う。
次の瞬間、【D】の首はアスファルトへ転がり落ちていた。
時間にして、僅か三秒。
軍服姿の少年は太刀を振って血を飛ばしたあと、長い刀身を鞘へ納めた。激しく肩を上下させている。
ジャケットにネクタイ、軍靴、手袋、フルフェイスのヘッドギアに至るまで、黒尽くめの軍服。顔の前面を覆う濃いスモークのシールドで、顔は見えない。ヘッドギアの側面には、
その存在は、小学校の教科書にも書かれ、毎月のニュースになっている。【D】から人々を護ってくれる、未成年の男子だけで結成された部隊。
一方、その姿を間近で見たという話は聞いたことがない。彼らの存在は諸外国だけでなく、自国内においても正体不明の特殊部隊だった。
そのダブルギアが、いま目の前にいる――。
思わず、痛みも忘れて呟いていた。
「まさか、助けてくれた?」
柊の独り言が聞こえたのだろう。軍服の少年は、ゆっくりとこちらへ振り返った。少年は相変わらず肩を激しく上下させながら、じっとこちらを見つめている。
やがて黒尽くめの少年は、革手袋を嵌めた手を柊へ差し出した。
「――君、大丈夫か」
むせ返るほど濃厚な血の匂いが漂う戦場に、声変わり前の柔らかな声が響く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます